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【2861578】私立中学の価値-ゼロワン

投稿者: 適性   (ID:5fxiNQDWvtM) 投稿日時:2013年 02月 14日 12:48

内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です

特別の条件はありません。

ただ。

「アンフェア」な議論方法や、「人」への誹謗中傷は「なし」でお願いします。

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  1. 【2875272】 投稿者: 適性  (ID:CDx550WenvE) 投稿日時:2013年 02月 24日 13:57

    ■コピペさん

    桑田氏が否定していた、誰かの「野球道」は、野球技術を越える、思想があったのですか?
    ないから、否定しているわけです。


    だから、自分で、本を書いてのでしょう。その本の名前知ってますか??

    ■ 野球道 (ちくま新書)
    桑田 真澄 (著), 佐山 和夫 (著)

    ですよ。

    桑田の・・野球「道」ではないですか?


    それから、私は、桑田氏を非常に、肯定的に書いたつもりですよ。
    スポーツ指導では体罰はいらない。と。

  2. 【2875290】 投稿者: 適性  (ID:CDx550WenvE) 投稿日時:2013年 02月 24日 14:08

    ■みなさん、コピペについて。

    たしかに、「コピペのみ」はられることを、繰り返されても困りますが。
    なにを言いたいのか、不明ですから・

    自分の意見を、理解していただく為の、引用は別に、問題ありません
    そして、「長、短」も 特には、問いません。

    その意見と全く同じこともあるでしょうし。
    その一部について、同意することもあるでしょう・

    必要と思う文章は、「どうぞ」引用してくださいね。


    だれも、それをもって『自分の意見がない』なんて、いいませんから。

  3. 【2875294】 投稿者: 無常感  (ID:z57q5pJLBBQ) 投稿日時:2013年 02月 24日 14:12

    ・・というか、

    スレ主さんだけが、

    異常に長文コピペが多いでしょ。

  4. 【2875301】 投稿者: 老眼  (ID:Zac1fHeEMqk) 投稿日時:2013年 02月 24日 14:15

    >さらに、引用箇所に、続いて、「様々な思想」の価値を論じていますね。 さらに、つつみこむ、思想があるということを、伝えています。


    『武士道』p165
    「功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえない。」


    キリスト教のことですね。
    キリスト教の道徳は、専ら個人に関するものであると書かれています。
    さらに、「個人主義が道徳的要素でたる資格において勢力を増すにしたがい、実際的適用を増すであろう。」
    と続きます。
    その前に、
    「武士道は特に治者、公人および国民の道徳的行為に重きを置いた。」
    ともあります。


    新渡戸氏は、1900年のその頃すでに、個人主義の拡大を憂いたのでしょうか。
    公の道徳は個人の道徳に勝るものではないが、公の道徳(李登輝氏が「公義」と表現したもの)をもってして、
    「愛」という人間の持つ最大の価値を未来に繋げることを願ったのでしょうか。
    その公の道徳を新渡戸氏は「武士道」と呼んだ。
    まだまだぼんやりです。

  5. 【2875305】 投稿者: 適性  (ID:CDx550WenvE) 投稿日時:2013年 02月 24日 14:20

    ******
    ・・というか、
    スレ主さんだけが、
    異常に長文コピペが多いでしょ。
    ******

    それは、申し訳ないね。

    それは、私は、簡単に、人の文章を、正確に、過不足なく、要約できる「能力がない」からですし。

    そんなものよりも、原典?元?があった方が、親切でしょ。
    私が、文書を、「誤読」してるかもしれないのですからね。

    もし、私が、Aさんは、BをCと書いている。と書いても。他の人は、確認しようがないですからね。

    私は、まったく、読んでもいないのに、推測では・・断定的にかけないですし。
    感想も、なかなか、難しいですからね。

    読む人にとっても、
    あれは、こういうこと書いているといっても、「読んでない」人には、難しい話です。

    まあ、読み飛ばしたい人は、飛ばせばいいのですし。

  6. 【2875312】 投稿者: イワンのばか  (ID:ZeU6pL10qHU) 投稿日時:2013年 02月 24日 14:24

    議論が錯綜しているようですので、手持ちの本から2箇所引用しておきます。

     * * *

    そうであるにもかかわらず、今日「武士道」という用語は、肝心の日本人の間で、きわめて曖昧かつ混乱した使い方をされている。何をもって武士道と呼ぶかという核心の部分がはっきりしないまま、言葉だけが語る者の気分次第で一人歩きしているのである。

    「武士道」という言葉を聞いて、今日多くの人が思い浮かべるのは、新渡戸稲造の著書『武士道』(原題は "Bushido, the Soul of Japan")であろう。学問的な研究者をのぞく一般の人々――とりわけ「武士道精神」を好んで口にする評論家、政治家といった人たち――の持つ武士道イメージは、その大きな部分を新渡戸の著書に依っているように思われる。そして実はそのことこそが、今日における武士道概念の混乱を招いている、最も大きな原因の一つなのである。

    新渡戸『武士道』が、武士道概念を混乱させているとは、どういうことか。それは一言でいえば、新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないということなのである。

    新渡戸武士道が、当事者としての武士を全く無視した、武士とは無関係な思想であるという批判は、『武士道』の日本版が刊行された直後に、すでに歴史学者津田左右吉によってなされている。新渡戸の論が、文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていないというのは、専門に研究する人たちの間では当たり前のことなのである。だから、「武士道」という用語の歴史的変遷を研究するう人の中には、「今どき、新渡戸『武士道』によって武士のイメージを形作るという日本人もそう多くはあるまいし」(佐伯真一『戦場の精神史』NHKブックス)と述べる者もいるくらいなのだ。

     * * *

    明治十五年の『軍人勅諭』においては、注意深く排除されていた「武士」にかかわる事がらが、「武士道」の名で大っぴらに復活してくるのは、日清戦争(明治二十七~二十八)の頃からである。流行は、日露戦争(明治三十七~三十八)期にピークに達し、数多くの武士道論が乱立する。もちろん、明治期における武士道論の論旨は必ずしも一様ではないし、用語法も決して統一されたものではなかった。だが、そういう細かい差異についてはひとまず目をつぶり、日露戦争前後にあらわれた武士道論を大まかに「明治武士道」の名で呼んでおくことにしたい(武士道という語の用例、変遷については、佐伯真一『戦場の精神史』を参照されたい)。

    大ざっぱにいうと、典型的な明治武士道には、井上哲次郎のような国家主義者によるものと、新渡戸稲造、内村鑑三、植村正久ら、キリスト教徒によるものとの二つがある。数の上では、国家主義的なものが圧倒的に多く、この流れは昭和に至るまで、武士道論議の基本的な骨格を形づくってきた。しかしながら、それらは敗戦と共に忘れ去られ、今日生き残っているのは、少数派であった新渡戸『武士道』のみである。

    国家主義者とキリスト教徒という、およそ異なった立場から論ぜられていながら、しかし、明治武士道には、その違いを超えて一つの大きな共通した論調を見てとることができる。それは、両者が共に、武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視していることである。

     * * *

    菅野覚明 『武士道の逆襲』 講談社現代新書
    前段は「混乱する武士道概念」(p.10) から
    後段は「明治武士道」(p.260)から

  7. 【2875325】 投稿者: 適性  (ID:CDx550WenvE) 投稿日時:2013年 02月 24日 14:33

    ■老眼さん

    *******
    新渡戸氏は、1900年のその頃すでに、個人主義の拡大を憂いたのでしょうか。
    公の道徳は個人の道徳に勝るものではないが、公の道徳(李登輝氏が「公義」と表現したもの)をもってして、
    *******

    新渡戸は、クエーカー派という、非常に質素で、華美でなく、司祭もいないキリスト教を選択しています。

    その時は、教会は、華美で、豪華であり、違和感をもっていました。

    そこに、ある種の、内面とは離れた、個人主義を感じたのかもしれません。

    また、アメリカというキリスト教の国で、日本人が盗みにあうことがあり、「宗教があってもそんなことする人がいるのか?」と思ったようです。

    つまり、素晴らしい宗教があれば、「道徳」が解決されるわけでもないという事実ですね。



    キリスト教であれば「なんでもいい」わけでもなく。

    かなり、「純粋」な宗教性を、武士道と、組み合わせることを、念頭においていたと思いますよ。

    そこらへんが、「相対的」といいましょうか・・・・いいバランスなのでしょう。

    それは、「愛」といいますが・・特に、キリスト教に限定せずに。

    *************
    今日、我々の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりも更に高貴にして広き使命である。増幅せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想は、仏教の慈悲思想も又これに付加すべきか、それらはキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。
    ***********

    孔子、仏教をだしているとこが、特別なんだと思うのですが・・どうですか?

  8. 【2875350】 投稿者: イワンのばか  (ID:ZeU6pL10qHU) 投稿日時:2013年 02月 24日 14:54

    >新渡戸は、クエーカー派という、非常に質素で、華美でなく、司祭もいないキリスト教を選択しています。

    クエーカーは非暴力、平和主義で知られているキリスト教の宗派です。東京の普連土学園がクエーカー教の学校です。OxfamというすぐれたNGOがありますが、それをはじめたのもクエーカー教徒です。

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