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【729817】麻布の空気 〜 主体的に生きる

投稿者: 新米保護者   (ID:byEsJszGne6) 投稿日時:2007年 10月 08日 22:18

麻布中学校・麻布高等学校

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新米保護者ですが、麻布の教育というか空気について感じてきたことを書かせてください。一番大切なことが、麻布では「主体的に生きる」ということを体験的に学んでいるのではないかという気がしています。そしてこの「主体的に生きる」ことを大切にする空気の中では、生徒は窮屈さを感じず、それがよく言われる「麻布の自由」として表されるのではないかと思うのです。また保護者はこの空気に、大事なことを学んでいることを直観的に感じ、どこかほっと安心してしまうのではないか、と思います。我が家ではそうでした。

「主体的に生きる」ということは人が自分の人生を豊かに送る上で、最も鍵となることではないかと思います。外側から当てはめられた、組織や集団などの成功の尺度から物事を判断し、行動を律することだけでは、人生は楽しく豊かに送れません。いつか「自分の人生は何のため?」と窮屈に思うことがあるのではないでしょうか。しかし、自分らしい生き方をしながら、社会貢献ができる道が探せると、経済的、社会的にどうであれ、個人的には人生に豊かさを感じることができるような気がします。

では主体的に生きる、ために必要なことは何なのか、考えてみると、「何かが起きたときに、条件反射的に物事を処理しない」つまり合間のポーズを置く、ということではないかと思います。しかしまず、ポーズを置いて、それから、何を判断尺度として考え、自分(や自分たち集団)にとりうる行動の選択肢としてどういうものがあるのか、考える。これが、主体的に生きる上で最初に必要な鍵なのだと思います。

現実には現代社会は忙しいし、組織などごとにノルムがあり、何かが起きると、条件反射的に物事を処理することが多くなっています。組織規範でものごとの処理をルール化しておいた方が、組織運営の効率は良くなり、組織が所与の目的を達するスピードは上がります。しかし、これでは、組織(小社会と言い換えても良いと思うのですが)が環境変化対応や、組織の進化が遅れ、脆弱なものとなりかねないのだと思います。

麻布の空気の中で育ちつつある者は、できごとがあったときに、まずポーズを置いて、そして皆で話し合う。何があったのか事実を確認し、事実を共有化する。そして、判断尺度、とりうる選択肢について話し合う、ということが当然のごとく行われるのだと思います。この方法はものごとの処理は非効率です。スピーディに自動処理することに慣れた者の目から見ると、理解しがたいこともあるでしょう。ですが、まずポーズを置くことをしないと、主体的に生きることを放棄し、流されて生きていくことになりかねない。これができるというのは、長い人生では武器になります。他者に勝つための武器ではなく、自分の人生を有意義に過ごす武器です。

言葉にするのは容易ではなかったのですが、我が家が息子が麻布に通っている端々から触れる空気から、感じ取ったことと、半年を経て、ますます安心している背景を改めて考えてみるとこんなところかな。

まだまだ新参者ですので、諸先輩からも学んで参りたいと思います。しかしまずはこの空気を作り、守り育ててくださっている関係者の方々に御礼を述べながらも、つたないながら学んだことを言葉にすることでお役にたてればと願い、また何らかの形で空気を理解したい方々のご参考になれば、と思います。

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  1. 【744964】 投稿者: 自由主義教育思想  (ID:1lY7TLKWESU) 投稿日時:2007年 10月 26日 08:24

    何か、続けさせていただきます。


    麻布学園の氷上校長先生は入学式で新入生達に向かって、「今日は諸君の第二の誕生である」と説かれました。「13年前に君達がこの世に生まれたのが第一の誕生であり、これを記憶している人はいないだろうが、今日は、諸君が青年として自ら主体的に生きることを自覚する第二の誕生の日である」と。
    麻布学園の教育が優れて魅力的に感じられるのは、自由主義教育の思想性があるからだと思います。
    「青年即ち未来」を掲げ麻布学園を創立した江原素六も自由民権主義者(第一回衆議院議員・自由党)でしたが、
    親がそれを感じるのは、氷上校長の哲学思想的なお話やお人柄にも表れていると思います。

    その源流は、「社会契約論」で有名なジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)が自然の自由な教育思想を著した「エミール」に辿ることができると思います。


    『エミール』ルソー著 今野一雄訳 岩波文庫


    「万物を創造する者の手を離れる時すべては良いものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる。」この本はこの書き出しで始まります。
    ここでルソーは、自然な発育と社会的な教育の関係を対立的なものととらえています。そして、自然の要求に反する形で社会的な教育が為された時、教育は人間を悪くする、堕落させる、と言うのがルソーの見解です。
    ルソーは、人間は本来善であるという自然の善性を前提として教育を考えました。彼は性善説教育論の創始者と言って良いと思います。(規則が厳しい管理教育は性悪説といえます。)


    彼によれば、人間がいつ何を学ぶべきかは予め自然によって決められています。自然は変えようがないので、教育者は子供の中の自然に合わせて、何をいつどう教えるかを決めていかなければならない訳です。
    「自然の教育」は、子供の自由を尊重することを原則とする。したがって子供の自発性が常に尊重される。外からの強制による詰込主義は、ルソーの最も排斥するところでした。
    それでは、教育者は何をすべきか。余計な事はしないのがよろしい。そして、子供が内なる自然に導かれて伸びようとする時、何かを学ぼうとする時、彼の成長が歪められないように見守ってやるのです。そして、少しだけ手助けをしてやるのです。これが「消極教育」と言う考え方です。
    だから教師の役目は生徒にものを教えこむことではなく、知りたいという欲望を起こさせることであり、真理を教えることではなく、子供が自ら真理を発見し、自ら誤謬を改める方法を示すことである。つまり「子供に本当の自由を与え、支配せず、できるだけ物事を自分でさせ、他人に何か求めないようにさせる」ことである。


    ルソーの教育思想の近代性について考える時、一般によくいわれるのは、子供の自由な活動行為や感覚的経験の重視、言葉や書物中心の教育への批判、残酷な体罰や強制的教育への批判、子供期固有の幸福な時間への配慮などです。
    例えば、子供期固有の幸福な時間への配慮などは、ルソーは貴族社会での子供に束縛を加え苦しい勉強を強いている教育の様子を、「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育」と批判しましたが、このことは今では広く当てはまります。
    多くの親や教師達が「あなた自身のためだ」と言って、つまらない勉強を押しつけている。勉強しない子供に向かって大人達が度々発する「そんなことで将来はどうする!」といった言葉は、子供の今・現在を否定し、彼らに要らぬ不安をどれほど与えていることか。

    例えば、縁起の悪い話ですが、自分の愛する子供が、もしかしらた不測の事故で明日死んでしまうかも知れません。そうすれば、その子は未来の幸せを少しも享受することも無く、ただ未来のための我慢、未来のための努力という苦しさしか体験していないことになるかもしれません。
    ですから、教育者は子供の現在の幸せを第一に考えるべきなのです。そうしたとしても、彼の中の自然を大切に育んでいけば、立派に成長していくはずですから。


    親としても子供の幸せについて考えさせられるところです。


    ご参考
    http://tachan.web.infoseek.co.jp/genri/shisougaikiru.htm
    http://www.liberalarts.cc/essay7.html


    ジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)の教育思想は、彼の民主主義的な社会思想と密接不可分のものである。
    ルソーが生まれた頃、フランスのルイ14世が没しており、この時代は絶対王政がなされ、農民が重税に苦しんでいた。彼の生涯のほとんどは放浪生活であるが、これは、『社会契約論』と、『エミール』の2つの書により迫害をうけた為である。


    16世紀に発生したフランスの自由主義教育思想は、キリスト教をアリストテレスやプラトンの哲学と結びつけて理論化しようとしたスコラ哲学に対する批判として生まれた。
    人間は理性によって教育され、正しい判断力をもって生活を営むことができるようにするとしたデカルトやフェヌロンのように教師は子供に対して欠点はなるべく指摘せず、好奇心を引き起こさせるために様々な機会を与える、といった自主性を尊重する教育が提唱されたのである。
    しかし、実際フランスではプロテスタント教の台頭に対抗したカトリック教のイエズス会が軍隊的組織を背景に訓育的な教育が相変わらず行われていた。


    18世紀には入るとルソーの登場で自由主義教育思想が復活した。子供の自発性を尊重するといった点ではフェヌロンやその源流となったモンテーニュの流れを汲むものであるが、教師の介入を極端に少なくした消極的教育が特徴である。
    自由主義教育思想が登場するまで知識の流入に主眼がおかれ、思考法でも既成のものを覚えるだけで生徒が精神陶冶する余地はなかった。それに対してルソーは生徒の活動を中心にそれを教師が援助することに視点を置いたことが注目される。


    精神(形式)陶冶:精神的諸能力の育成を重視する by ロック
    精神陶冶とは、学習内容の習得よりもそれを手段として精神的諸能力(記憶力、創造力、問題解決能力、判断力、推理力、観察力、意志力、感情)の形式的な側面の育成を重視すること。

    実質陶冶:実質的な知識・技能の習得を重視 by コメニウス
    学習内容の実際的な価値に注目し、実生活の中で役にたつ具体的・個別的な知識・技能の獲得を目指す。
    形式陶冶とは対極にある考え。

  2. 【745153】 投稿者: 中学時代  (ID:Fps6ixu1P5o) 投稿日時:2007年 10月 26日 10:55

    別スレで都立高校、筑駒、麻布と説明会をきいてきたと書き込みしたものです。
    私の理解が浅いためだとは思いますが、質問させてくださいますか?
     高校時代の話では、都立トップ高校も、きわめて自由自律的な校風の下で主体的な生徒、しかも内申をしっかり取れるところから、きわめてバランスの取れた生徒が中核になっているのだと感じました。
     とすると、都立高校と麻布中高一貫で比べると、(ごめんなさい、志望校決めかねているのでお教えください、)「中学時代をどうすごすのが、こどもにとっていいのか」ということを考えればよいということになるのでしょうか?中学時代から自由にさせるのが良いのか、「中学時代は楽しければよいのではなく、やらなければならないことはきっちりやるのだ」ということを肝に銘じさせる公立中学の生活がいいのか・・・
    麻布の保護者の方々は、どのように考えられて、お子さんを入学させたのでしょうか。
    失礼な質問で申し訳ありません。
    もしよろしかったら、ご意見をお聞かせくださいませ。
    スレ主様、横からお邪魔いたします。申し訳ありません。

  3. 【745235】 投稿者: 誤解  (ID:PKcujoq8pPs) 投稿日時:2007年 10月 26日 12:16

    麻布は、楽しいことばかりできるレジャーランドではないですよ。笑
    まず、大学の講師のような先生達の授業はとても面白く、勉強が楽しいようです。
    もちろん、自由というのは、人の迷惑にならない、人の権利を侵さない範囲でのことです。
    また、中学1年生から高校3年生まで一緒のクラブ活動や、文化祭・運動会実行委員などの活動では、
    上下の規律や上級生からの指導はしっかりあり、中学生も、分実・運実の役割や作業をすることを「仕事する」と言います。
    何してるのか?と思いましたが、皆で共同作業して作り上げていく中で、自分の責任を果たすということのようです。
    こういう義務感や責任意識は、(僕も体験した)公立中学では少ないことだと思います。

  4. 【745237】 投稿者: ↑ついでに  (ID:PKcujoq8pPs) 投稿日時:2007年 10月 26日 12:19

    しかも、これ、生徒自治の中で自主的に役割を果たしているわけで、
    内申書を上げるためとか、先生に評価されるためにしているわけではありません。

  5. 【745286】 投稿者: 中学時代  (ID:Fps6ixu1P5o) 投稿日時:2007年 10月 26日 13:16

     早速のご返信ありがとうございます。
    お二人もお返事くださって、嬉しいです。
     あの・・・また質問させていただいてもよろしいですか?
    まだよくわからないのです。
    私の上の子は地元公立中学にいっております。やはり文化祭や運動会があり、生徒会やクラス単位、帰国子女の生徒たちの有志グループでいろいろ計画も立て、役割分担もし、上級生の指揮もあります。毎日とても楽しく、充実した毎日の様子です。公立なのでなにもかもが小粒で、とても私立とは比較になりませんが(苦笑)。
    都立高校は自主自立の校風なので、文化祭なども、子供たちが全部実行しているそうです。

    東京都の場合、生徒会や文化祭実行委員会の仕事は内申とは直接関係がないので、(神奈川はちがうそうですね)
    高校受験や大学受験のために、やっているのではなく、純粋に子供たちが楽しくてやっている様子です。
     また、地元中学や都立トップ高校の授業参観をしてみて、子供たちがいきいきしているのに、ピリッと規律正しいのに驚きました。
    一方で、麻布中学の授業風景は、寝ている子もいたり、私語もあると、こちらの掲示板などで聞きました。
     麻布の自由とは、一言で言ってどういうことなのでしょう。高額の学費を出して入学させるほどの価値を持った「自由」なのでしょうか。
    受験が近くなるにつれ、このごろ悩むようになりました。
    よろしかったら、ご意見をお聞かせください。よろしくおねがいいたします。

  6. 【745319】 投稿者: 自由  (ID:PKcujoq8pPs) 投稿日時:2007年 10月 26日 13:55

    いや、別に何でも自由だから麻布を選んだわけではないですが。
    実を言うと、麻布には父母の授業参観はなく、授業の様子は分からないのです。
    以前、韓国のテレビ局が取材した「日本一の学校・麻布高校」という番組のビデオがYouTubeにアップされていて、麻布の授業風景を初めて見たのですが、息子の担任だった○○先生が汗だくで講義や指導されていたり、校長先生と生徒達との昼食談義など、とても感動的でした。
    残念ながら、今はYouTubeから削除されてしまったようです。


    朝1限の授業に遅刻したり、授業中に居眠りする奴は、いるようです。
    それは、親の教育の問題です。
    息子によると、遅刻すると先生は叱ったり、試験の点数から減点される先生もあるそうですが、
    先生は、ちゃんと聞いている生徒達に向かって講義に夢中だし、居眠りしている生徒などは、注意している時間が惜しいので、人の邪魔にならなければ放っておくそうです。
    本人の自覚の問題です。
    最高の授業を、もったいない。卒業してから分かるのに。

  7. 【745374】 投稿者: 麻生の自由  (ID:NFVNJLWUxXE) 投稿日時:2007年 10月 26日 14:55

    生徒の生徒による生徒のための自治。


    管理の対極にある自治です。

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