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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4479992】 投稿者: イワサキ  (ID:WWYtMMq.xmQ) 投稿日時:2017年 03月 04日 10:05

    昨夜は細やかながら我が家でも桃の節句、雛祭りを家族で行いました。
    今朝、起床したら雛人形は後ろ向きにされてましたが 笑
    ちらし寿司を食べながら、桃について少々語りました。
    大神実命、これは桃の事です。
    イザナギがイザナミを黄泉の国から連れ戻すために赴くが失敗して黄泉軍、雷に追いかけられ、黄泉比良坂まで逃げ延びそこに実っていた桃を3つ投げ撃退した。イザナギが桃に命名し、世の中の苦しみ、悲しみから全ての人を守るように命じた。これが祭祀で大量の桃が使われる由来

    雛祭りは女の子の祭りなので我が子には、女子から告白するのは良くないと
    神話の話をさらっと話しました。
    イザナミ、イザナギが出会い最初の子供はヒルコ(蛭子)であった原因は女性であるイザナミから声をかけたから。その後は男性であるイザナギから声をかけ直し子宝に恵まれた。妻は補足して男性から告白させるように仕向ければいいのよって言ってました。(我が家の雛祭りの一コマです)

    (以下過去の書き込みより転載)
    桃太郎にはじまり、桃源郷の桃、邪気を追い払う供物として、祭祀でも珍重され、大和纏向遺跡からは、籠に入ったまま、果肉付の桃が2000個以上発見。吉備からは9000個以上の桃の種も発見。さすが桃太郎伝説、吉備団子の本場である。
    節句でも3月3日は女子のお祭り桃の節句(桃の花の季節だから桃の節句)だが、ひな人形とともに、邪気を追い払い子供(女子)の成長を願う祭りであろう。

    また672年、壬申の乱では、吉野、尾張に逃げ込んだ大海人皇子(天武天皇)が
    不破の関(関ケ原)に陣を構え、兵士に一人ずつ桃を配り士気を鼓舞した
    そして圧倒的な強さで、近江軍(朝廷)を蹴散らし大勝利をおさめた。
    これこそ、桃の邪気を追い払う力、桃太郎そのものである。
    大海人皇子が陣を構えた丘(山)はこの故事から、桃配山と呼ばれるようになった。

    約900年後、1600年には徳川家康が縁起の良い故事に従い、桃配山に本陣を置き、石田三成率いる西軍を打ち破り天下を手中に収めた。
    関ケ原の戦いを勝利に導いた桃の故事。まさに邪気を追い払う縁起物であることは間違いないところである。

  2. 【4480291】 投稿者: ちはやふる  (ID:Tn58cei.x8.) 投稿日時:2017年 03月 04日 13:39

    冷静にかんがえるとさま
    お帰りなさい。
    北朝鮮の今後、どうなるか心配です。再度、核実験をやる可能性も取り沙汰されておりますし。
    ところでお題から少し離れますが、知人のご子息が本来なら三年となり、専門過程に進むべきところ、留年したのか、教養過程に留まるとのこと。でも話の流れから、必要単位は取得しているとのこと。このようなことが出来るのでしょうか?知人が説明してくれたのですが、よく理解出来ませんでした。それといわゆる進振りの計算も何やら複雑なようです。
    お時間お有りのときで結構ですので、いちど基本的なシステムをお教え頂けませんでしょうか?
    厚かましいお願いで申し訳有りませんが、宜しくお願い申し上げます。

  3. 【4481734】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:Fg6gkd0tezw) 投稿日時:2017年 03月 05日 16:51

    イワサキさん、ご無沙汰しております。

    亡父の大先輩でもあり、わたしも私淑していた方が先月に永眠されたため、月命日にせめてご焼香をと思い、無理やり休暇を取った次第。15の春を迎える娘にも父親の存在感をアピールするべく、この間、接触時間を確保するつもりで、今回は10日くらいまでの滞在予定です。

    ところで去年、奈良文化財研究所が藤原京期の建築物遺構下から円形周溝墓発見といった報道があったが、円形周溝墓の陸橋部分が扇形に拡がり、纏向型から前方後円の定型に発展していったという、円形周溝墓ルーツ説は興味深かった。

    >箸墓古墳からスタートした前方後円墳時代は約350年続いたが 前方後円墳は物部氏の古墳であり、祭祀と共に物部氏の裁可により伝播していった

    陸橋の拡がりがそのまま副葬品の運搬量に比例すると考えれば、物部氏権勢の推移を反映していたと見ることも出来るかと考えたもの。そういえば発見された場所である瀬田遺跡は箸墓古墳と香久山を挟んだほど近い場所であった。

    >倭迹迹日百襲姫命の兄弟には吉備津彦命がいる、記紀では将軍に任じられ吉備を制圧し吉備津彦神社、吉備津神社の祭神となっているが、大和から吉備津神社に行ったのではなく、逆に吉備から大和に来ていたのではないか。

    祭祀の充実が図られた崇神朝の大彦命、武渟川別、丹波道主命らとともに印綬を携え四道の西道(吉備)を平定したとされる吉備津彦命。書紀では四道平定は崇神朝だが、古事記では西道平定は三代前の孝霊天皇の御代ということになっている。所伝の違いも>吉備から大和<と考えれば、実際は当時の畿内王権に征討の余力なく、数代に渡る平定譚を繋げた何某の作為も読み取れるかなあと考えれば、ひじょうに興味深いところですね。

  4. 【4481738】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:Fg6gkd0tezw) 投稿日時:2017年 03月 05日 16:56

    ちはやふるさん

    う~ん、わたしの持ち合わせる情報などは古いでしょうから、ご参考になるかどうか、、5月か6月初旬にに手引書みたいなものが配布されるでしょうから、そちらをご覧になった方が正確な情報を得られるのではないかと思います。
    あくまで一般的な情報として。

    そのケースは留年ではなく降年ではないかなあ、、
    進学不志望、3学期(二年夏学期)終了時に初修・既修外国語などの平均点が規定値に達していない、志望学科の内定が第二段階でも取れない(志望先を変えない)等といった場合に、降年となります。
    総合科目は原則、高得点順に単純平均点の対象となるので、特に高得点の必要な学科に進学志望であれば、上書を目して自主的に降年選択をする学生もいるようです。

    次に進振りのシステムですが(変更されているかも知れませんのでご確認願います)、指定科類枠、全科類枠で成績評価が異なったように思います。
    選抜はまず指定科類(文1→法学部)で行われ、次にこれに漏れた学生と全科類枠の学生で選抜。第一段階、第二段階とも同様ですが、成績評価は指定科類枠は第一段階を指定科類平均、第二段階を進学先の指定平均で行い、全科類枠は両段階とも全科類平均で行う。計算方法ですが指定科類平均は進振り対象のための最低限必要な単位分を重率1、それ以外を重率0.1、全科類平均はこれに加えて進学先の要求科目も重率1で計算する。平均点は基本的に点数合計を単位数合計で割るが、進学先指定平均は独自の計算方法を用いるのでわかりません。

    記憶違いがあるかも知れませんが、覚えているのはこれくらいです。
    あるいは現役学生ならUTaskを見るか教務課に直接問い合わせる方がよろしいかと思います。

  5. 【4481879】 投稿者: イワサキ  (ID:WWYtMMq.xmQ) 投稿日時:2017年 03月 05日 18:45

    冷静にかんがえるとさん

    お帰りなさい。お嬢様と雛祭りを一緒に過ごしたんじゃないですか?
    帰国した際に古スレッドに書き込み頂き有難うございます。今日の水菓子ブログで水菓子さんから、日本の古スレッドを引用、紹介して頂いたりして、週一程度の細々とした書き込みを継続していたところです。

    >小山田古墳、飛鳥時代の方形古墳としては最大級のもの、蘇我蝦夷かな

    石舞台古墳(蘇我馬子)より大きく、生前から準備してた記載があり蘇我氏の本拠地、甘樫丘の近くなので蘇我蝦夷の可能性が高いかな
    この記事を見て頭に浮かんだのは、方形墳の元になった出雲の四隅突出型墳丘墓
    門脇氏の推察では出雲大社の裏に素鵞社(ソガノヤシロ)があり、蘇我氏と関係が深いと書かれていた。出雲を一番いじめた物部氏(経津主命、ウマシマジノ命、)
    日本書紀でも出雲の神宝を検めるのは常に物部氏の役割。
    物部氏滅びた後の前方後円墳を棄て方形墳を造ったのはこの流れかもしれないですね。

    今まで書いてない古墳で前方後円墳ではなく前方後方墳があります。
    同年代に伝播して東北、関東から吉備、出雲まで分布しています。
    白石太一郎氏や、西嶋氏は階級トップの王は前方後円墳で二番手家臣が前方後方墳ではないかとの説を唱えてます。前方後方墳は伊勢が発祥と言われてたが、近江、神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん)が一番古く2世紀後半、箸墓古墳の3世紀中盤よりちょっと前になります。

    近江発祥であれば稲部遺跡や伊勢遺跡とリンクする、つまり近江、尾張、伊勢、越で始めに連合体ができ近江伊勢遺跡に本拠をおき、前方後方墳を支配地域に伝播させた、そしてその連合体に吉備、出雲が最後に参加して纒向遺跡が出来た
    この指止まれで大和の纒向に皆が集まり、その連合国の象徴が前方後円墳となった。歴史作家、関裕二氏が面白い説を唱えてます。昨今の遺跡出土の年代、出土土器を考えると一番すっきりすると考えます。

    最後に祟神天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
    と初めて国を治めた王と呼ばれ神武天皇と同じ呼び名です
    磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に王宮を構えその跡地には志貴御県坐神社
    があります。普通に考えると志貴御県坐神社の祭神は崇神天皇になるんだが
    祭神は饒速日命なんですよね、ここから崇神天皇は饒速日命と同一説が唱えられている。いずれにしても饒速日命(物部氏祖)が古いにしえのキーマンである事は疑う余地はない。
    歴史は面白いなぁと思った次第です。

  6. 【4483311】 投稿者: ちはやふる  (ID:QDv5BE75zXw) 投稿日時:2017年 03月 06日 19:37

    冷静にかんがえるとさま

    詳しく解説して頂きありがとうございました。降年という制度があるのですね。よく分かりました。
    進振りのシステムも理解出来き、伺ってよかったです。

  7. 【4483316】 投稿者: ちはやふる  (ID:QDv5BE75zXw) 投稿日時:2017年 03月 06日 19:42

    イワサキさま

    歴史のお題とまるで関係ない書き込みを、たいへん失礼致しました。

  8. 【4487584】 投稿者: ちはやふる  (ID:DZAij.RJALY) 投稿日時:2017年 03月 09日 18:28

    こちらでお話を伺っていると、外見的には同じ様に見えても、各々の役割、関係者、背景が実は微妙に違っていることが、よくわかります。
    以前、親戚の子供と軍港巡りをしたことがあるのですが、海上自衛隊の艦艇も同じ色をしていても、木造があったり、プラスティックがあったり。
    形状も同じようで、実は役割がまったく違うとか(イージス艦がどれだかまったく分かりませんでした。何か見分け方があるのかしら?)。
    歴史の解釈も同じで、見た目が同じでも、実は論者によって解釈が異なる、墳墓も被葬者が誰だか、様々な背景を研究しながら、真実に辿り着く。
    歴史、特に古代史って本当に面白いです。

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