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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4525749】 投稿者: 奥都城  (ID:52yDcij4zvk) 投稿日時:2017年 04月 06日 16:18

    いくつか削除されましたね。

    >歴史観は皆違う


    現在も多様な事が次々と起こっていて考えも様々。何と何が結びつき未来へと繋がっていくのかを見極める為にも歴史を知らなければならないと思います。

  2. 【4529584】 投稿者: イワサキ  (ID:NwUzPziiILQ) 投稿日時:2017年 04月 09日 18:38

    奥都城さん
    >礼を欠いた振る舞い、まことに申し訳ございませんでした。
    格調高いハイレベルなここでのお話し、とてもついていけそうにもないと思いつつ、歴史にはどうしても興味をかきたてられてしまいます。

    奥都城さん、なかなか返事ができず申し訳なかったです。ビジネスが忙しいとの理由で週一、二度書き込みをしてます、実際は思うところありその頻度にしてるんですが、古(いにしえ)をつぶやきたい時は、またお立ち寄りください。
    気になるのは、HN奥都城の呼び名です。おくつきなら、上代の神道に関係するし、みやこのじょう(みやこんじょう)なら、若造社員のころ九州に居たので
    都城には何度か行ってます。どちらかなと興味のつきないところです。

    >古墳造営は治水工事などの土木事業とともに、公共事業の意味もあったのでしょうか?災害や飢饉の被害があった一定の期間に古墳造営に就けば課税免除され食料の配給もあったのかもしれない。

    当時の大阪平野はほぼ海(湖)で現在の大坂城近辺の狭い場所(突き出した半島)から大阪湾に水が流れ出ていた河内湖であり、やがて干潟になりそこに注ぐ川は大雨のたびに氾濫していたと思われる。
    現在の堺近辺には、巨大前方古墳が多いが、灌漑工事の治水事業であった可能性も指摘されています。巨大前方後円墳の巨大環濠はその役割を十分果たしたと思われる。住民にとっても洪水から身を守る、作物をまもる事業として進んで使役を受けたことも想像されます。

    >大友皇子
    明治になってから「弘文」として歴代にくわえられた稀有な経歴をお持ちの天皇ですね。

    大友皇子の曽孫ともいわれる御船王こと淡海三船、彼は天皇に漢風諡号を贈った人間と言われている。神武天皇から桓武天皇まで、歴代の天皇治世の出来事をあつめ漢字二文字のふさわしいおくり名をした。
    天武天皇も持統天皇も天智天皇も死後このように諡号され呼ばれていることは知らない。大友皇子の系統の淡海三舟がこのように天皇諡号に深く関わっていることは非常に興味深い。後年、天武系の皇子が絶え、天智天皇の第七皇子で大友皇子の弟(志貴皇子)の御子、白壁王が天皇に即位、光仁天皇(桓武の父)となったことをかんがえるとこのタイミングで大友皇子の復権があっても良かったかもしれない。
    壬申の乱で賊軍となった大友皇子の復権にはさらに1000年以上の月日を必要とした。
    このような因縁を思うに、歴史はロマンだなあと思った次第である。

  3. 【4531033】 投稿者: 奥都城  (ID:blZ0Vvfxe6o) 投稿日時:2017年 04月 10日 20:26

    こんばんは。

    イワサキ様、お忙しい中ありがとうございました。
    「奥都城」、オクツキです。エデュに書き込むのは久しぶりで少々緊張というか気おくれしてしまいそうです。

    >当時の大阪平野はほぼ海(湖)で現在の大坂城近辺の狭い場所(突き出した半島)から大阪湾に水が流れ出ていた河内湖であり、やがて干潟になりそこに注ぐ川は大雨のたびに氾濫していたと思われる。
    現在の堺近辺には、巨大前方古墳が多いが、灌漑工事の治水事業であった可能性も指摘されています。巨大前方後円墳の巨大環濠はその役割を十分果たしたと思われる。住民にとっても洪水から身を守る、作物をまもる事業として進んで使役を受けたことも想像されます。

    なるほど、、確かに、古事記の島生みに登場する吉備児島の岡山県にも多くの巨大古墳があります。大阪の巨大古墳と同じなのかもしれませんね。
    岡山市内も当時はほぼ海でしたから現存する市内の地名「児島」「早島」も昔は島だったそうです。山陽新幹線あたりまで海があったそうですから、地図をみますと当時の海にそって東西に古墳群が連なっています。
    イワサキ様がおっしゃるように潮からの堤防の役割もあったのかも。
    もしかすると、その土地の王がなくなるまでは軍事的な要塞の意味も。
    すみません、途中ですが一度送ります。

  4. 【4531039】 投稿者: 奥都城  (ID:blZ0Vvfxe6o) 投稿日時:2017年 04月 10日 20:31

    すみません、雑事で続きを書き込めなくなってしまいました。
    明日にでもまた。

    >古(いにしえ)をつぶやきたい時は、またお立ち寄りください。

    はい、ありがとうございます。
    又つぶやきにまいります。

  5. 【4531968】 投稿者: 奥都城  (ID:blZ0Vvfxe6o) 投稿日時:2017年 04月 11日 13:49

    こんにちは。

    >白壁王が天皇に即位、光仁天皇(桓武の父)となったことをかんがえるとこのタイミングで大友皇子の復権があっても良かったかもしれない。

    そうなんですよねえ。。。
    ただ、よく言われる「天智系・天武系」は、後世からみると結果的にそのような対立とみる事が出来ますが、当時はどうだったのでしょうか?
    天武の後は天智の娘たちが即位し次代の天皇に譲位しています。
    皇位の継承だけをみると、実は天武系は天武天皇の崩御によって途切れている事になります。
    私的には当時の天智対天武の対立構図はない考えを持っておりますので、イワサキ様のご指摘された「賊軍となってしまった」ことが復権にここまでの年数がかかってきたのかな?って思います。

    それでは、またこそっとつぶやきに来ますね。

  6. 【4539884】 投稿者: イワサキ  (ID:0kiEOP91uVs) 投稿日時:2017年 04月 17日 16:30

    大友皇子は明治になってから諡号が贈られ39代弘文天皇となりました、これ以前には神功皇后が即位して15代天皇に認定されていたり時代の変遷と共に変化が見られます。
    また明治期に入ってから初めて行われた事、私自身も知らなかったんだが
    伊勢神宮に初めて行幸したのが明治天皇である事、皇祖神を祀る伊勢神宮に明治以前に誰も行幸(天皇自らの参拝)していなかった事実に何かあるのではと思いを巡らせて見た。天皇自らは行幸していないが勅使を下向させ、皇室の内親王を斎宮として派遣していた事実は確認できるが、なぜ自らの先祖、皇祖神に一度も参拝していなかったのか?

    伊勢神宮よりはるかに山深い熊野には何度も行幸している、京都から淀川を下り、現在の中之島近辺(渡辺津)で船をおり住吉大社に参拝して熊野に向かう。
    住吉大社には南北朝時代には南朝の行宮がおかれていたし、渡辺津の近辺の難波津では八十島祭りが行われた、即位の翌年には天皇自ら行幸している、そして天皇の衣服に霊力が宿るようなお祓いが行われた。天皇即位の大嘗祭では今でも衣服に霊力を宿らせて天皇自らがその着物をまとって祭祀が行われている。
    また伊勢神宮の斎宮の代替わりの際は、京都に入る前に難波津に赴きお祓いをした後に京に戻っている。それを考えるに天皇家が直接行幸して関係が深いのは
    住吉大社であり熊野大社である事実が浮かび上がる。

    古来の信仰では出雲大社の出雲国譲りと共に、自らが貶めた相手に対する鎮魂(呪われないために祈る)がメインであり、菅原道真呪の太宰府天満宮も陰謀によって貶められた道真の鎮魂のための社である。天皇自らの行幸がなかった伊勢神宮、
    上記内容から考えるとやはり鎮魂がメインだった可能性も高いのではないか。

    ビジネス関係の会食で丹後宮津出身の方とお話ししたが、丹後一宮、元伊勢籠神社には、内宮、外宮、五十鈴川などの地名が残っているそうで、伊勢神宮の原型、元になったのは、元伊勢籠神社であると力説されていた、地元民は伝承でそう思ってるそうだ。元伊勢籠神社の外宮にあたる眞名井神社には天の羽衣伝説のモデルとなった豊受大神が祀られ、伊勢神宮の天照大御神の衣食住の世話、寂しがっているから伊勢神宮の外宮に呼ばれた事になっている。
    この元伊勢籠神社の主祭神は、天照御魂神であり天照国照彦火明命とも呼ばれ物部氏の祖にあたる饒速日命の事である。

    伊勢神宮の主祭神は天照大御神となっているが本当は天照御魂神だったのではないか。だからこそ元伊勢籠神社で一緒に祀られていた豊受大神が呼ばれたのではないかと思えてきた。斎宮は皇室の内親王であり必ず処女であった、女神の天照大御神に使えるために身を捧げるのは違和感がある。男神の天照御魂神が主祭神であるから独身女性の内親王が身を捧げたのではないか。
    大和の宮に祀られていた、天照大御神(天照御魂神が本当だった)の霊力が強すぎたので山を越えた伊勢に移した。これが記紀に記されているが、実際は霊力が強すぎて遠ざけた。そして恨みをかわないために鎮魂した。霊力を伊勢に封じ込めたこれが真実なのではないか。
    皇統の始まりに饒速日命(天照御魂神)が関わったのは間違いないが、同族の皇統に入れ替わったその際に後ろめたい何かがありそれを封じ込めるために鎮魂した
    これが明治期にまで天皇自らの行幸が皆無であった理由のように思えた。

    私事であるが、数年前に百寿のお祝いをした祖母が天寿を全うした、古希の両親が見送った、古来の人々は現代人がこれほど長生きするなんて思いもしなかっただろうね。我が両親が百寿を迎えたら古希の息子が見送る事になる。
    子供達の、教育費なんかは年数は読めるが長生きに関しては全く読めないのが辛いところです。それでは

  7. 【4540608】 投稿者: 奥都城  (ID:884W0p.Ot.M) 投稿日時:2017年 04月 18日 08:00

    おはようございます。
    朝のつぶやき、スレ主様お邪魔いたします、どうかお気遣いないようお願い申し上げます。

    >皇室の内親王を斎宮として派遣していた事実は確認できるが、なぜ自らの先祖、皇祖神に一度も参拝していなかったのか?

    そうなんですよね。。。持統天皇は伊勢ノ地に御幸していますが参拝していないんですよね。
    それは
    畏れ多いのか
    恐れているのか
    それとも申し訳ないと遠慮しているのか

    >鎮魂がメインだった可能性も高いのではないか。


    ポン!(膝を叩く音  笑 )
    昔から朝廷は賀茂祭(葵祭)を重要な祭として特別視していて、
    伊勢神宮の斎宮の他に賀茂神社へ斎院も派遣しています。

  8. 【4545570】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:f7eNonDBKdw) 投稿日時:2017年 04月 21日 19:04

    書紀には神宮創始譚、つまり崇神・垂仁天皇両朝時、皇女豊耜入姫命並びに倭姫命によって天照大神を奉じたとあるが、古事記の方にはそういった記載がない。
    そもそも朝廷と神宮の関係を見ると、斎宮が存在したにも関わらず神嘗祭を契機として、平安時代から御詞と共に宣命を中臣・忌部に下賜、勅使として遣わされた。
    奈良末期から平安初期にかけ、神嘗祭自体が再編されていったという説もあるようだが、いずれにしても、祭祀儀礼としての斎宮では足らぬ何某の関係が朝廷と神宮の間に生じたと見れば、やはり鎮魂か。
    背景には光仁天皇をして天武系から天智系への再転換があったのではないか、と思います。

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