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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4487778】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:i2civkQyk6A) 投稿日時:2017年 03月 09日 21:03

    イワサキ さん

    >石舞台古墳(蘇我馬子)より大きく、生前から準備してた記載があり蘇我氏の本拠地、甘樫丘の近くなので蘇我蝦夷の可能性が高いかな

    わたしもそう思います。
    桜井市の吉備池廃寺が舒明天皇造営の百済大寺だとすると、これは王権主体の国立寺院ということになる。今のところ、舒明天皇陵を上八角下方墳である段ノ塚古墳が大王家独自のもので、蘇我氏の方型墳とは形状が異なること、舒明天皇は蘇我氏の軛(くびき)を脱し、独自の権力基盤を求めようとした、という説(「蘇我氏ー古代豪族の興亡」倉本一宏 著、中公新書)がいちばん説得力があるように思います。同氏はそもそも小山田遺跡が古墳であるか否か、にも疑問を呈されておりますね。

    ちはやふる さん

    軍港巡りですか? 海軍カレーで有名なところですね。
    海上自衛隊の艦船、たしかに実物をご覧になっても分かりづらいかも、、
    イージス艦の見分け方ですが、次回ご覧になるとき、艦橋の土台部分に注目してみて下さい。八角形の平版が四方向に装着されているはず。これが固定式平板アンテナ、専門用語ではSPY-1レーダーと呼ばれているもので、イージス・システムの中枢を担うものです。肉眼でも分かりますが、ここが他艦船とは異なる大きな点ですね。一枚の平版には4000以上のアンテナが設置されています。

    >様々な背景を研究しながら、真実に辿り着く。

    わたしも興味に従い、時間があればアンテナを張り巡らしているつもりですが、まだまだ。
    その点、イワサキさんを見習いたいですね。
    さて、明日には戻りますがこちらをROMすることは出来るので、イワサキさんの諭説を今後も楽しみにさせて頂きます。
    イワサキさんはじめ本スレの方々、どうぞご自愛のほどを。

  2. 【4488283】 投稿者: ちはやふる  (ID:DZAij.RJALY) 投稿日時:2017年 03月 10日 08:27

    冷静にかんがえるとさま

    はい、海軍カレーで有名なところです。
    艦船上ですと曜日感覚が薄れるので、週一日のお食事をカレーにするそうですね。
    イージス艦の見分け方教えて頂き、ありがとうございました。写真をみると、確かにあります!
    今度もし親戚の子らに聞かれたら教えることにします。株が上がるかも、うふふ。
    日本のプレゼンスが上がるよう、益々のご活躍お祈りしております。

  3. 【4488930】 投稿者: イワサキ  (ID:WWYtMMq.xmQ) 投稿日時:2017年 03月 10日 17:22

    ちはやふるさん

    徒然なるままに趣くままに書き込んでますので、お気遣いは無用で構いませんよ
    海軍カレーは食べた事があります。おそらく同じ場所でしょう
    海軍は長期航海に出るため野菜不足になりがち、長期保存できる玉ねぎ、ジャガイモ、人参をつかったメニューと言えば海軍カレーになるんでしょう(壊血病の予防)
    英国海軍ではビーフシチューだったらしいですが、明治期の日本海軍ではライスに合わなかったので同じ材料から、醤油と砂糖をベースにした肉じゃが、
    カレー粉を使ったカレーライスが生まれた。
    同じ材料からご飯に合う二つのメニューを作り出す、日本海軍のコックは流石ですね、今や、肉じゃがもカレーも日本の国民食です。

    数十年前の学生時代、1年に一度(当時は今ほど一般的でない、ハロウィンかも)
    フェスティバルで解放される米軍基地にゼミ仲間と訪れ、ホットドッグとバドワイザー片手に英語が通じるか試しに行ったなあ、横須賀と横田
    オチは一生懸命、米語に挑みボディランゲージを駆使して話した相手が、日本語ペラペラだったとのオチがつきましたが、

    冷静にかんがえるとさん
    軍事マニアだと前書き込んでいたが流石ですね
    マレーシアの空港で変な事件あり、物騒がしいのでくれぐれも用心してもらいたいなあと思います
    日本を離れ寂しい時は、得意なアコースティックギターでも奏でたらどうでしょう?
    次に戻られるのはGWごろかな、また徒然なるままに古(いにしえ)を書き込んでいきます

  4. 【4489867】 投稿者: イワサキ  (ID:WWYtMMq.xmQ) 投稿日時:2017年 03月 11日 09:19

    冷静にかんがえるとさん

    瀬田遺跡の円形周溝墓の話は面白いですね。古墳に移行する前のまだ小さな
    円形周溝墓から前方後円墳に移行する過程には様々な文化、人、物の流入があったと思われる。小さな丸い墓の周りに環濠(溝)を巡らし死の世界と現生を分けた
    環濠は境界線だったんでしょう。中に入る橋の部分やがて広がり前方後円墳になった瀬田遺跡の図解より

    これをたたき台に考えると、大和地方に集まった人々の風習が合体して前方後円墳(箸墓古墳)が誕生したのではないか、結論の前に纒向遺跡から出土した土器から集まった人々の分布が想像出来ます。(人々が移動する際には生活様式ごと移動するため) 尾張美濃伊勢49%、山陰北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%
    西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%、北部九州の土器はほとんどない。

    埋葬文化も寄せ集められたはずである。吉備土器は7%であるが祭祀の中心に使われた土器が多い、特殊器台、特殊壷土器である。祭祀でお供えを備える特殊器台
    御神酒を入れた可能性がある壷、祭祀の中心は吉備地方の土器を用いている
    (吉備地方には特殊器台、特殊壷を祭祀に使う勢力が存在した)

    伊勢近江が発祥の地と言われる前方後方墳、大和から吉備津彦命が吉備に派遣され征圧した温羅伝説、その際に陣を構えたと伝わる楯築遺跡の双方中円形墳丘墓
    が合体して出来上がったのが前方後円墳ではないだろうか。
    大和瀬田遺跡の円形周溝墓+前方後方墳+双方中円形墳丘墓=前方後円墳

    先に記載した吉備津彦(吉備津彦神社、吉備津神社、桃太郎のモデル)の妹が箸墓古墳に祀られているのは興味深い。

    江戸時代に掲げられた本居宣長の邪馬台国偽セン説、一部には本居宣長は邪馬台国九州説を唱えたと誤解されているが、実際はヤマトは奈良盆地を中心に存在したが北九州の女酋が朝鮮半島に進出してきたばかりの魏に対して我こそが邪馬台国と偽りの報告をして親魏倭王の称号を獲得してしまい金印拝領した。
    見向きもされなくなった説であるが

    纒向遺跡の発見土器の出土で時代が本居宣長に追いついてきた、なぜならば
    纒向遺跡は九州勢を除いた東国中心の連合体の可能性が強いから。
    そして本来のヤマト勢力が邪馬台国を打ち滅ぼした伝承は記紀に記載されている
    何度か書いた神功皇后の三韓討伐である、香椎宮に本拠を構え山門地方の女酋長
    タブラ津姫を打ち滅ぼした話が記紀には記載されている。

    科学の発展が本居宣長説に追いついてきた。
    しかし、解読不能となった古事記を解読し古事記伝を記し
    科学の発展以前に文献から推理した本居宣長は未来を見通していたのだろうか?
    古(いにしえ)の先人達、日本人の学問に対する真摯な姿は感動に値する
    大いに学んでいきたいものである。

  5. 【4498601】 投稿者: イワサキ  (ID:Wlhh8p5o5Sg) 投稿日時:2017年 03月 16日 15:58

    武士の家計簿著者、磯田道史氏が新幹線乗車時の関ケ原見物作法を書いているので出張時に自分なりに実践してみました。(全身全霊で古戦場関ケ原見つくすこと、磯田氏)

    まず大阪出張の前週、土日に司馬遼太郎の関ケ原を読破(最近単行本も出てますが10回以上読破してボロボロになっている)

    出張当日、徳川家康になった気分で
    朝出社そして東京駅丸の内口から駅構内に入る前、後ろを振り返り
    江戸城(皇居)に上杉攻めから戻り江戸城に集結していた東軍に思いをはせる
    また1590年小田原征伐後に関八州に入部(江戸入部)して約430年の時を経て、江戸は東京という大都会になったんだなあと古をふりかえる。

    新幹線に乗り静岡に入り安部川が見えたら、家康(竹千代)の人質時代を思い出す。人質時代には鷹を飛ばし隣人、孕石元泰に屋敷に入るたびに三河の子せがれはもううんざりと嫌味を言われてさぞ悔しかったと見え、1580年高天神城落城させた際には、孕石元泰を見つけ出し切腹させている。もう一方の隣人、北条氏康の子息、人質北条氏規とは幼少時昵懇だったと見え、秀吉の小田原征伐の際、全力で命乞いをして助けている(いつの時代も幼少期の思い好き嫌いは健在)

    その後、車窓から見える掛川城、浜松城をさがす。掛川城は今川氏真が最後に逃げ込んだ城であり関ケ原合戦時は、山内一豊が城主。上杉征伐時、石田三成が大阪で挙兵、小山会議で家康がその事実を各大名に打ち明けた、山内一豊は浜松城主である堀尾忠氏と会議に向かう道すがら、堀尾忠氏が城、兵糧をすべて家康に献上するつもりとの話を聞き、会議時真っ先に、掛川城と兵糧を献上しますと発言、これがきっかけとなりすべての諸将が右に習い城、兵糧を進呈した。
    山内一豊は本戦でたいした戦功がなかったが会議での発言が認められ、掛川5万石から土佐一国の国持大名になる。(いつの時代も要領のいい人間がいる現代人、企業人としては見習わなければならないかも)

    浜松城、浜名湖近辺では三方が原の戦いで武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされた家康に思いをはせる。人間失敗から学ぶことが多い、敗戦時家康は命からがらに浜松城に逃げ帰ったが、その際、脱糞してたそうだ、その時負け姿を絵に描かせ一生の教訓にしている。浜松城ではかがり火を大量に焚き大手門を全開にあけといた、武田勢はこれを見て何かはかりごとがあるかもしれないと追撃をやめた、後に徳川四天王と呼ばれた本多忠勝の知略であった。
    関ケ原の際は、浜松城主、堀尾忠氏は山内一豊に手柄を横取りされた記載済み

    矢作川を越え三河安城にきたら、松平家の父祖伝来地だと感慨にふけるようにみつめ、安城付近の鎮守の森は徳川譜代の三河武士を生み出した土地として家康になったつもりで見つめてみた。
    そして名古屋につくが関ケ原時には大都会名古屋は存在しなかったが、秀吉はこの村の出だと思う、名古屋を過ぎると一瞬だけ清州城がみえる。
    桶狭間の戦いの際に織田信長がこの城から出陣したことを思い出し、関ケ原戦い時代には秀吉の遠縁、福島正則の居城であり東軍が終結していた(小山評定で口火をきり石田三成を討つ流れを作った正則、戦後安芸49万石の大加増を受ける)
    秀吉は家康を封じるために子飼いの武将を東海地方の城主にしたが、山内一豊献上によりオセロの駒角をとられすべてが裏返ってしまった状態、秀吉はまさかと思ったことだろう

    清州城を過ぎたら磯田氏は素早くデッキへ移動するそうだが当日は混んでて無理
    進行方向左側に山裾が近づいて来る、毛利氏が本陣を置いた南宮山、三成はこの山に布陣した毛利勢を見て怪しいと思い書状に書いている。関ケ原まで遠すぎる

    大垣についたら家康が本陣を置いた赤坂の丘を探す(右の窓から)、関ケ原当日、家康は二人の年若い妾とこの丘の上で寝ていた。新幹線はここから南宮山に急接近、ここからは左の窓を見る、家康軍は新幹線の線路にそって長蛇の列となり関ケ原に向かって行軍していった。
    途中、家康は南宮山を見上げもし毛利軍が山を下ってきたら長く伸びた家康の軍列は木っ端微塵に粉砕されると恐怖があったのでは(毛利軍の山裾に陣取った吉川広家が内通していなければ行軍できない)
    関ケ原の谷間がせまくなったところで大きな工場のような建物が一瞬みえる、
    これが家康が本陣を置いた桃配山(672年壬申の乱時、大海人皇子が桃を配り大勝利した山、何度か記載ずみ)
    以上で磯田氏のテーマを踏襲して、家康になったつもりで、新幹線に乗ってみました。

    新大阪までですが、帰りは三成のつもりで乗車してみたいと思います

  6. 【4498954】 投稿者: ちはやふる  (ID:DZAij.RJALY) 投稿日時:2017年 03月 16日 20:44

    イワサキさま

    冷静にかんがえるとさまはクラシックギターじゃなかったかしら?
    と申しましても、アコースティックギターとどのように違うのかは、私も存じませんが、以前に雅楽についても書かれていましたから、音楽全般に興味をお持ちなのでしょうね。

    >徳川家康になった気分で
    朝出社そして東京駅丸の内口から駅構内に入る前、後ろを振り返り
    江戸城(皇居)に上杉攻めから戻り江戸城に集結していた東軍に思いをはせる<

    そして現在は天皇陛下がおられる皇居を拝し、さながら丸の内一帯は家門、譜代大名の上屋敷、町奉行が置かれたかつての大名小路の様相を引き継いでいるかも知れませんね。
    徳川譜代の家臣、青山忠成や内藤清成のように、守備の要衝に就く。企業人の方々もまた日本のプレゼンスを維持するために、日々奮闘なさっている。
    古から続くこの国のかたちです。

  7. 【4499283】 投稿者: ドラゴンボール  (ID:WMfz4fnG2bc) 投稿日時:2017年 03月 17日 02:00

    織田信長の小姓、
    蘭丸は、
    二人いました。森と伊藤。

    伊藤は生き残り、竹中藤兵衛と歩みを同じくし、名古屋の繁栄に一役買ったのでした。そして、その子孫である伊藤次郎左衛門祐民(松坂屋初代社長)は、竹中藤兵衛の子孫である竹中工務店に建築依頼をし、皇族をも来賓とする楊揮荘を建てたのでした。ちなみに、東京フィルハーモニーオーケストラはいとう少年音楽隊が前身です。

    また。

    トヨタに王手を突き付けたかと思われた『LEADERS』の西國銀行のモデル東海銀行は、江戸幕府を助けようとした松坂屋一族の心意気でした。

    何を、どこで、どう間違えての、現在なのか。

    人の世の変化(へんげ)は読めず投了かな

    難しいものです。(姫路のデパート、ヤマトヤシキにも、同じ感慨を持ちます。)
    ※付言。ドラゴンボールの作者鳥山明氏は清州在住です。

  8. 【4499285】 投稿者: ドラゴンボール:追記  (ID:WMfz4fnG2bc) 投稿日時:2017年 03月 17日 02:02

    ちはやふる様

    「この国のかたち」で司馬遼太郎を受けられるとは、素敵です。

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