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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【5069723】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:j3hqLSUvwyY) 投稿日時:2018年 07月 29日 19:31

    ちはやふる さん、連投ご容赦。

    長州藩と嵯峨天龍寺について、ひとつ訂正させて下さい。

    毛利家宗派が浄土真宗というのはわたしの勘違いでした。
    菩提寺の「東光寺」は三大禅宗のひとつ、黄檗(おうばく)宗だそうです。臨済宗の一派ですね。だから嵯峨天龍寺なのかどうかは分かりませんが、宿営斡旋は勤皇派の材木商、 福田理兵衛が担ったとのこと。
    西南戦争で西郷隆盛が宿営したとされるのは宮崎県「金光寺」。こちらの方は浄土真宗。
    素早く潜って魚を掴み獲ったと思いきや、指の隙間からスルっと逃げてしまったようです。両者を混同しておりました。
    はは、、お恥ずかしい。お詫びいたします。

  2. 【5070850】 投稿者: ちはやふる  (ID:FCqxLIULEug) 投稿日時:2018年 07月 31日 09:01

    冷静にかんがえると様

    お詫びだなんて、それこそ、過分なお言葉です。
    そもそも、長州藩とか西郷隆盛と言って、東光寺とか金光寺って、思い浮かびませんもの。ですから、漁師の鮮やかな素潜りに例えさせて頂きました。
    たいへん、失礼致しました。
    書籍のご紹介、有難うございます。
    私も夏休みの目標ができました。早速、書店に参ります。
    貴方様レベルで、感想を述べるなど到底無理ですが、素人の戯れ言でよろしければ、いずれ記してみたいと存じます。
    その折は、また、宜しくお願い申し上げます。

  3. 【5073782】 投稿者: ちはやふる  (ID:NV.7a6IL4VA) 投稿日時:2018年 08月 03日 13:00

    冷静にかんがえると様

    東京国立博物館に行って参りました。
    遮光器土偶が興味を引きました。
    都市伝説で、宇宙人を型どったとか言われてますが、それは論外でも、あのようなデフォルメされた人間の像には、やはり何かの思想があるのかしら?
    炎天下でしたが、西郷さんのお話が出たので、西郷隆盛像も見てきました。
    見ていてフと疑問。
    そう言えば何故、「上野」なのかしら?
    ウィキで見ると、最初は皇居で建てられるはずだったとか。
    そんなこんなで、疑問だらけの一日となりました。
    外に出て、色々見聞して、疑問が生じたら調べること。
    学問の面白さに、今更ながら目覚めた思いでした。

  4. 【5074176】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:eBPAaMZAKT6) 投稿日時:2018年 08月 03日 20:51

    ちはやふる さん

    東京国立博物館に行かれましたか。
    遮光器土偶、確かにEBE(地球外生命体)のイメージは有りそうですが 、、
    何某の思想の有無までとなれば、縄文時代晩期とされる数百年間、青森県、宮城県出土という地域性も関連付けると、アイヌ起源説から始まり例のコロボックル説しかり、それこそ日本人起源論まで踏み込まねばならない、と思います。
    もちろん、あのようなデフォルメには何某の思想が込められているのは類推し得る(例えば梅原猛曰く「妊婦」説だの、岡本太郎の「祭祀」説など)けれど、それらで学説として定まったものはなかったはず。
    確かなことは、この国の国土で発見された「美」であるということ(だから「ニッポンの美の原点」)で、いわゆる縄文文化論とは切り離して鑑賞する方がよいと、わたしは感じました。

    >炎天下でしたが、西郷さんのお話が出たので、西郷隆盛像も見てきました。

    からだに堪える暑さが続きますね。
    奇しくも西南戦争勃発(1877年)、火星大接近の年で、当時は「西郷星」と称されていたとのこと(朝日新聞デジタル、8/2付)。
    何故「上野」なのか、、当初は皇居(当時は「宮城」)正門外に設置する建設案が上申、発起人は薩摩藩出身の樺山資紀(海軍大臣)並びに三田藩出身の九鬼隆一(帝国博物館総長)-いずれも当時ーで、いったんは認可されました。「正門外」ですから現在の二重橋より外側、皇居外苑エリア内だったと思います。
    この認可が一年後くらいに取り消され、当時の帝国博物館管理下の上野公園内にて設置許可を得たことになっています。取り消しの理由は定かでは有りませんが、西郷隆盛に対するさまざまな「評価」に鑑み、華族あるいは薩長出身の元勲らの懸念・反対があったことは想像に難くありません。

    余談ですが、あの西郷隆盛像、あまり本人には似ていないといわれているようです。高村光雲の苦労がしのばれますが、本人は大の写真嫌いだったそうですね。
    真偽のほどは分かりませんが、、

  5. 【5074547】 投稿者: ちはやふる  (ID:NV.7a6IL4VA) 投稿日時:2018年 08月 04日 09:47

    冷静にかんがえると様

    有難うございます。
    他の方々と比べると、肖像画はあるけど、写真がほとんどないらしいですね。
    上野での建立はそのような背景があったのですね。
    華族らが反対した主な理由は、やはり西南戦争に関係したものだったのでしょうか? 私も歴史の授業で習ったくらいですが、西郷隆盛の武勇伝みたいなものって、あまり聞かないような。。
    反乱軍にとって、どちらかというと、ミコシ、シンボル的存在だったのかな?とも思います。
    あの銅像、軍服でなく、着流しに犬を連れての散歩、実際の質実剛健を、かなり緩くしたイメージで、ちょっと作為的かな?とも勘ぐってしまいました。

  6. 【5074760】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:IxgN.dKnGPc) 投稿日時:2018年 08月 04日 13:35

    ちはやふる さん
    レスありがとうございます。

    なるほど、「作為的」ですか、、

    少し西南戦争を終結時点から遡ってみますが、1877年(明治10年)2月の熊本城攻撃から鹿児島県城山での敗北までの7か月間、薩軍の直接の敗因は8月15日よりの延岡での激戦により、壊滅的打撃を蒙ったことによる、というのが一般的な評価であるように思います。
    一方、この間の政府軍の動きをみると、実は7月中旬頃既に、この戦乱の行く末を見定めていたとしか考えられない動きをみせている。つまり延岡より先に「勝利」を確信していたのではないか。
    それが海上輸送に関する三菱との独占権契約、あるいは内国勧業博覧会の開催公布といった経済政策に顕れている、と捉えられそうな気がいたします。兵力・物資輸送に対する兵糧攻めともいえる動きで、薩軍の敗北はもはや時間の問題であった。
    ところで、第一回目となるこの内国勧業博覧会が開催されたのが、実は上野公園内でした(都合、第三回目まで同地内)。

    ところで薩軍の西郷隆盛、ちはやふるさんの言われる武勇伝はともかく、最初の熊本城攻撃とこの延岡での戦闘では、前線で直接指揮を執ったと言われております。ただ、それ以外は実像というものが見えにくいという指摘も為されている。
    征韓論政変以降、下野してからは犬を連れての兎狩りに興じることもしばしば、西南戦争の渦中にあってもこの習慣を欠かすことはなかったという。
    この「余裕」というものが西郷の西郷たる所以(論文「西南戦争における西郷隆盛と士族」京都大学 人文學報所収1991年 佐々木克 )。

    西郷隆盛の遺志に報いた意趣返しというわけではないにせよ、その「余裕」のメタファがあの着流し姿だとすれば、ちょっとした偶然にしては、ちはやふるさん、面白いとは思いませんか?

  7. 【5075092】 投稿者: ちはやふる  (ID:NV.7a6IL4VA) 投稿日時:2018年 08月 04日 19:07

    冷静にかんがえると様

    有難うございます。
    ものすごく面白いお話です!
    何かすごく得をしたみたいです。
    西郷隆盛の逸話って、色々な所で耳にしますけど、個別の歴史知識を繋げると、思いもよらないことが、見えてくるんですね。もちろん真偽は分かりませんが、何と申しますか。。固定観念に囚われないアプローチの大切さを、教えて頂いたような気がします。
    あの時代にますます興味がわいて来ました。私も勉強してみます。

  8. 【5075813】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:DOGpW2G.bHM) 投稿日時:2018年 08月 05日 15:00

    ちはやふる さん

    お互い様です。欧州中世史がご専門(でしたよね?)のあなたに、いずれわたしの方が教えて頂く場面もあるでしょうから。

    さて、北海道をご訪問されている天皇皇后両陛下は昨日、利尻島をご訪問、ウニ養殖所などをご覧になられ、御昼食には同島特産の「エゾバフンウニ」をお召し上がりになったという。
    わたしの勉強不足かも知れないが北海道北部、特に稚内周辺は、一時廃れていたニシン漁が復活した地域であると思っていた。もちろん漁獲期(3月頃か)があるにせよ、未だ幕末期から昭和30年頃まで続いた「ニシン景気」の名残りを留め、番屋あるいは保存場所(フクロマ?)があり、季節外れとはいえ稼働の面影を残していると思いきや、今では島内3ヵ所を残すのみだとのこと。いずれこれらも遠い記憶となってしまうのだろうか、、

    ところで天皇皇后両陛下の北海道ご訪問、「北海道」150年記念式典へのご出席だが、いうまでもなく、これは命名(「蝦夷地」から「北海道」へ)150年記念ということである。厳密には1969年8月の太政官布告によって「北海道」と命名されたわけだから、多少のタイムラグはご愛嬌の範疇か。

    一方、ご愛嬌で済まされないのが、各メディアで同じ150年記念として扱われている明治「維新」。例えば、「昭和史のかたちー明治維新150年の問い」(毎日)、鹿児島県の「明治維新150周年記念プロジェクト実行委員会」を扱った記事(産経)などである。中には「「明治維新150年」を祝わない日本人の不思議」(東洋経済)といったものまである。150年記念NHK.の大河ドラマ放映もしかり。
    これらの記事に共通しているのは、1868(慶応4/明治元)年をもって明治「維新」としている歴史観である。
    そもそも「維新」というのは文字通り、一連のパラダイム・シフトに伴う諸活動と定義付けられるべき。一連とはある「一定期間」を指し示すのが妥当な解釈であろう。だからその始期を明治元年とすることはもちろん、パラダイム・シフトの顕在化という観点からは黒船来航、日米和親条約締結からとも言えるし、終結期であれば廃藩置県、西南戦争、あるいは立憲体制確立といったように、様々な解釈が可能である。
    かような意味では、歴史上の事件・出来事として「〇〇年、明治維新」といったものは存在しない(「明治維新という過ち」、原田伊織 著、毎日ワンズ刊)。

    わたしはもちろん、それが「過ち」であったかどうかの判断は留保するものの、
    同氏ご指摘の「官軍」史観が平成の世になった今でも活きているのか、と大いに疑問を感じたのも事実。
    まさかと思い、同150年記念に関わる政府広報関係の表現を確認してみたところ、官邸、あるいは内閣官房などは「明治150年」であった。
    もちろんいつの世でも為政者にとって「維新」などあってはならぬものゆえ、西郷隆盛像の行方に言及するまでもなく、これはこれで妥当な表現といえよう。
    もっともじっさい、「(選挙に)勝てば官軍」、このような史観もまたご遠慮いただきたいというのも、いち国民として過剰な要望にならぬよう願っているところでもある。

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