反抗期がないのは良いこと?それとも…【反抗期を科学する・6】(2ページ目)

比較対象が村から世界規模へ

さて、そうした時代には、インターネットはもちろん、テレビやラジオ、新聞だってありませんでした。そんなに昔のことじゃありません。今から、おそらく100年程度遡るだけで、似たような社会だったことでしょう。

比較対象が村から世界規模へ

考えてみてください。当時は、誰かと比較しようとしたって、情報がありませんでした。

居場所がわかりやすかった時代

例えば、ある村で歌がうまいと言われれば、それで十分だったわけです。わざわざ隣村の人と比べる必要もありませんし、そんなチャンスもありません。力自慢も、字がうまい人も、知識がある人も、それぞれのローカルな社会の中で、その得意を活かし、認められる場面がたくさんあったことでしょう。おそらく、そういう意味では、今よりずっと生きやすい社会だったと思います。

よって、自己肯定感の危機も、今ほどじゃなかったことでしょう。身分制度、世襲制度など社会が子どもの将来の多くの部分を決めていたこともあって、生まれながらに自分の居場所が明確で、思春期の問いである「私は誰?」「私はここにいていいの?」の答えを、ある程度、簡単に見つけられたのではないでしょうか。

世界中と比較される現代

世界中と比較される現代

一方、今の子どもたちは気の毒です。
下手すれば幼児期から競争社会に取り込まれてしまいます。いつも比較され、努力を強制され、がんばれがんばれで毎日が過ぎていく。生きることの楽しさ、世界の存在を感じる暇もありません。彼らが好むネットの世界でも、「いいね!」の数、フォロワーの数で比較され、安心することができません。もちろん自分が苦しい状態にあることすら気づく暇もなく、自由の名の下に、自分探し、夢探しが強要されます。

とするならば「自分は誰なんだ」、「自分は大切な存在なのか」という疑問やそれにまつわる不安を行動で表すのも無理ないことのように思えるのです。