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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4310880】 投稿者: イワサキ  (ID:B38CzIH08cc) 投稿日時:2016年 11月 05日 09:42

    紙つぶてさん

    >謎ついでに、平安時代の寝具はどうだったのでしょうか?
    それ以前はやはり畳に直に寝たのでしょうか? うーん、痛いと思いますが。

    和歌山(西田井遺跡)弥生から古墳時代の竪穴式住居跡からベッド木幹跡が発見されてますね、むしろや藁を敷き、防寒対策には、動物(鹿、熊、狼)の皮を滑らせた物を併用したのでは。縄文クッキーの佐賀東名遺跡から、ドングリを水に浸すための細長い籠が出土してるから、籠は植物からつくるのでむしろを作る技術は縄文時代からあったでしょう。

    奈良正倉院から756年光明皇后が聖武天皇御遺愛品を献納されてます、その中に正倉院御物の寝台(御床)があり、縦237㎝幅118㎝高さ38㎝の縦長ベンチような物、これを二つ並べてベッドにしてたそうですよ
    ベッドの上には御床畳(ゴショウノタタミ)、むしろを5,6枚重ねたもの敷いて寝ていたそうです。
    平安時代には、八重畳現在の畳ではなく、莚を何枚も重ねたもので寝ていた
    古事記、日本書紀は八重畳と呼んでいるので、古来からあったんでしょうね。

    奈良文化財研究所10/13発表より、平城宮跡の木簡から、波斯清道(はしのきよみち)の765年大学寮宿直記録(勤務)が発見された、波斯とは中国語でペルシャ(現イラン付近)を現す。彼はペルシャ人らしい。
    また東大寺に西、東と二つあった七重塔跡の確認で70M~100Mの高さが確認できたそうである。
    七重の塔が70M~100Mあったなら、大仏殿はもっと大きかったことになる。
    平安時代の大きさBig3は、雲太(出雲大社)和二(大和奈良大仏殿)、京三
    (京都御所大極殿)なので、東大寺七重の塔が100m、大仏殿はもっと大きく
    なり出雲大社は100Mを優に超える建物となる、

    ベッドを持ち込んだかもしれない、ペルシャ人波斯清道や、聖武天皇、この時代を生きた大伴家持、彼らの脳裏には
    東大寺にそびえ立つ七重の塔が刻み込まれていたに違いない。

  2. 【4312455】 投稿者: イワサキ  (ID:B38CzIH08cc) 投稿日時:2016年 11月 06日 12:01

    祇園祭、時代祭の話題がでていましたが、

    山、鉾、屋台行事の祭り33件がユネスコ無形文化遺産に登録勧告され
    11/28に正式決定されることになりました。
    先んじて2009年に京都祇園祭の山鉾行事が登録されていますが、日本の伝統文化が世界に認められるのは大変喜ばしいことになります。

    平たく言えば、全国のお祭りの山車(だし)から33が選ばれたことになります
    だしは地域によって呼び名が違う、山車、曳山、屋台、山あげ、車山、だんじり
    車楽舟(だんじりふね)、博多の山笠、これはすべてその地域のだしの呼び名です。

    なぜ呼び名が違うのか、調べてみたが、それぞれの地域の神社のご神体によって呼び名が違うようです。一番多い、山は三輪山のように山がご神体、
    また鉾がご神体であれば、山鉾と呼ぶようである。
    貴族が牛車に乗るようになったのは平安時代からなので、車輪の上に舟や神社の社のようなものを乗せ、皆で引っ張るようになったのでしょう。
    その中には当然、ご神体、祭神が存在することになる。
    神輿は、平安時代、京都御所内の移動で輿が使われるようになったのでそれ以降かな、御神輿は神が宿る小さな社となる。

    車輪ができる前の祭りは、諏訪の御柱祭りのように、曳く大勢の人で引っ張りひきづったんでしょう。巨木を引っ張り曳づったその際には、掛け声をかける
    (諏訪大社の御柱祭りは、今でも巨木を数千人で曳き、引きずっています、車輪無)

    ここに書いていた内容、御柱、舟、などの変遷が、無形文化遺産として世界に発信されることは素晴らしいことだと思います。
    私たち日本人が自分たちの文化伝統を知ることが、世界に対しての発信に強く関わることは間違いないところ。
    今後も小さな気付きを書き込んでいきたいと思います。

  3. 【4312555】 投稿者: ことっち。。  (ID:J6Hw6UmpTQA) 投稿日時:2016年 11月 06日 13:50

    んっ?
    あっ、それは検索すれば..すぐにわかるかと、
    ...さんは状況的に単身で、その日、その地に居合わせ、少し羽を伸ばしていたのだろうと,, 人が多いと言ってもそれ以上でもないから、ぶらぶらしながら(..さんと同じく)結構前の方でも見れますよ、橋..その通り..かな。

  4. 【4313861】 投稿者: ことっち。。  (ID:IWFitefdvdU) 投稿日時:2016年 11月 07日 13:01

    イワサキさん
    ...神武東征以前に天磐船伝説で大阪交野、磐船神社に君臨していたと記紀にも出ているので、丹後一宮とどちらが先に降り立ったのか興味がわくところ

    どちらが先に降り立ったは別なところにあると思うのですが、何か気になった処天火明命の御子神である天香山命に少し関心を寄せてみました。
    天火明命の指示に従い天香山命は大八州国に降り紀伊国熊野に坐した。その後天香山命(天孫族)は平定されている大和より尾張の地に移住し尾張氏として勢力を張り平定した。一方、元伊勢籠神社○○家の系図第14世まで,,旧事本紀の尾張系図と共通する神、人名がみられるらしい。深い関わりがあるのか?尾張系が旧丹波国に携わっていたのか?天香山命ではなく天火明命であるところ、天孫族が天火明命を指しているのか、そのものであるのかわかりにくくなっています。
    平定されている大和、つまり天火明命そのものが磐船に降りたが..大和へ..ストーリとして出来ていると思うのですが..どちらが先に降りたかは別な処..

  5. 【4321073】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 13日 17:36

    ことっち。。さん

    今週はトランプ旋風で市況があれ忙しくなかなか書き込みできず失礼しました。
    書き込みいただいた、播磨(兵庫県)の日本一低い分水嶺、これは非常に勉強になりました。古来、馬、牛、車輪(荷車)がない時代で大量に物資を運べるのは舟しかないんですよね。私が書き込んだ淡路島で発見された松帆銅鐸(出雲の荒神谷遺跡と同じ工房で製造)だが、出雲で制作された後に舟で運ばれた、この経路は出雲から丹後、由良川をさかのぼり、日本一低い分水嶺(丹波市)を経由して加古川を下り淡路島だろう。分水嶺の周辺には舟城神社、貴船大明神など地名神社が残っており間違いないと確信した。

    日本書記によれば、天日槍命(神功皇后租)は播磨宍粟にやってきた垂仁天皇は宍粟と淡路島にとどまるように命じたが、諸国をめぐり自分で済む場所を探したいと宇治川をさかのぼり近江草津に住みそこから若狭を経て但馬出石、豊岡を拠点と定めた。播磨、淡路島、近江、若狭、丹後、但馬と反時計回りで巡りその跡地には、初期鉄工房がある。播磨から淡路に至る動脈と同じ鉄の道が存在した。

    由良川を溯り加古川で淡路へ、由良川を溯り、京都嵐山に流れる桂川水系に乗り換えれば山城へも入る経路が存在した。桂川、園部川上流部には、舟岡、舟坂との地名ありここでも舟が岡を超え、下った可能性が高い。
    京都の山城一宮、葵祭りで有名な賀茂御租神社(下鴨神社)、賀茂別雷神社(上賀茂神社)八咫烏の神様だが、川上より矢が流れてきてそれを拾った玉依姫が妊娠して生まれた子供が雷神だった。日本昔話に出てくる話(山城風土記)
    祭神、賀茂健角身命は丹波国神野神社の祭神伊可古夜日女を娶り生まれた子が玉依姫である。

    丹波神野神社は由良川、加古川の分水嶺にある神社であり、私が書いた、舟城神社、貴船大明神のすぐとなり、つまり京都への船の道が存在したのがわかる。
    賀茂神社の八咫烏は熊野で高倉下(天香久山命)とともに、神武を応援しその後、南から北へ遡り、京都に入ったと考えられていたが、
    丹後、丹波からそのまま山城へ人、物流の流れがあったことを考えると、丹後が重要な場所を占める可能性も十分にある。

    新たな視点を与えていただき目から鱗であった、お礼申し上げたい

  6. 【4321158】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 13日 18:38

    天照御魂大神
    天照大御神が皇祖神に決まる前の皇祖神だった可能性があるそうだ

    天照御魂大神を祭神とした神社が大阪茨木(三神社)、京都太秦にある。
    天照御魂大神とは饒速日命のことであり、天火明命でもある。
    どうも同じ人物の名前をわざと多く挿入し判らないようにしているとしか思えない。

    神武東征より前に、天孫族として先に舞い降りた饒速日命、ナガスネヒコの妹を娶り、宇摩志麻遅命が生まれる、その兄が天香久山命(尾張氏租、新潟弥彦神社祭神)

    神武東征時、神武が熊野で苦戦して身動き取れず、高倉下(たかくらじ)の夢の中に天照大御神が現れ、出雲国譲りのヒーロー武御雷命(たけみかずち)に神武が苦戦しているから応援を要請、武御雷命は私はいけないが、出雲国譲りの際に大活躍した剣(布津御霊)を授ければ勝てると進言、この剣を床下に置いとくので明日目覚めたら使えとお告げした。高倉下は夢から覚めこの剣を発見して神武に加勢、そひて饒速日命が義理の兄、ナガスネヒコを打ち取り神武にはせ参じて勝利した。これが神武東征のあらまし。

    高倉下は天香久山命と同一人物だから、饒速日命とお父子で大活躍したことになる。つまりカムヤマトイワレヒコ(神武)はなにもしてないだよね。
    もともと、饒速日命の天の磐船伝説、あるいは東征の逸話に、神武を挿入して加えただけなんだよね。

    武御雷神、経津主神が、出雲国譲りの主役だが、それぞれ饒速日命と宇摩志麻遅命のことなのではと疑っている。
    これなら、饒速日命が子の天香久山命(尾張氏)に命じて大和に入ったことがよくわかるストーリーとなる。前にも書いたが、神武天皇を祭神とした神社は極めて少ない皆無(明治期に創建、樫原神宮、宮崎神宮ぐらい)

    カムヤマトイワレヒコ(神武)は単なる祭祀を任せられただけの入植
    そのご、饒速日命、宇摩志麻遅命、天香山命は東国遠征、越、出雲い攻め入って統一した。このストーリーのほうが現実味がある。
    八咫烏が熊野から北上して神武の手引きをしたとの話も眉唾もので、丹後から由良川を上り、桂川をくだり京都に入った賀茂氏(八咫烏の子孫)の話を置き換えた可能性もあるかもしれない。

  7. 【4323563】 投稿者: ことっち。。  (ID:syNtFOKEm2.) 投稿日時:2016年 11月 15日 16:14

    イワサキさん
    貪欲に知識を吸収するのが目的じゃなくて、自分の生活の中で活かすために吸収
    していると感んじるところがすごいというか,, 人の心を動かす能力がすごいというのか,,古(いにしえ)を通して人はこうあるべきだと教えて貰っているように思えてきました。うーん、書き込みを通してそう思えたり、自分の一部の書き込みに反省したりと,,いにしえは好きですから、余裕があるとき又書き込みさせて頂きます。 ありがとうございます。

  8. 【4324268】 投稿者: 日本の歴史  (ID:rfcUTrB6P6I) 投稿日時:2016年 11月 16日 08:04

    穏やかに進行していて何よりです。古代史は興味あれどほとんど知識のない者にとっては皆様の知識量には驚かされます。

    それくらい古いもの(神社、神話、伝承)が残されているのは異民族の侵入を受けなかったためでしょうか? 世界の中でもこれだけ色々残っているのは珍しいと思います。

    こういう歴史があるのに太平洋戦争後、全くと言っていいくらい自国の古を軽んじているのは残念です。トランプ誕生に伴い戦後70年のアメリカにおんぶにだっこの状態から抜け出せば日本史を振り返る人たちも多くなるでしょう。

    まずはご挨拶を。興味深い話にいつもながら感嘆しています。

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