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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4251765】 投稿者: イワサキ  (ID:Z6AzkgxtPSY) 投稿日時:2016年 09月 17日 22:13

    歴史を学びながら、人間模様を学ぶ、社内の組織図にも応用できたりするよね
    藤原氏の陰湿な讒言、敵勢力を駆逐するやり方は、社内の人間関係の足の引っ張り合いに応用できる。(藤原氏時代のように、命まで取られることはないが)

    個人的に、チーム編成の際は血液型の相性をかなり重視している。
    戦国時代になると、起請文連判状の血判から血液型が割り出されている。
    織田信長B型、豊臣秀吉O型、徳川家康A型、明智光秀A型、上杉謙信AB型
    武田信玄A型、伊達政宗B型

    この分布図をみて、破天荒なB型の信長に必死仕えたO型秀吉、人たらしと後年言われた秀吉は信長の性格を見抜き好きになり必死に使え好かれるべく行動した。そんな秀吉を愛でたことは、現在にも伝わる。A型の光秀は、破天荒な信長が理解できず、生真面目すぎ、後年本能寺の変をおこす。
    A型家康も、長子信康を切腹に追い込まれ苦悩したが、信長との同盟をとった。
    AB型の上杉謙信は天才的なひらめきに部下がついていけない様子が伝わる
    A型武田信玄は、最終的には、川中島戦いから、本隊同士でぶつかることを避けて政治力で上回ることを目指した。

    信長的な破天荒B型伊達政宗は、戦のやり方が信長に似ており、摺上げ原に芦名氏をおびき出し、雌雄を決して大大名にのし上がった。
    小田原平定(秀吉)の際には20歳前後、あと10年早く生まれていればと本人が言ったことも伝わっている。秀吉政権下では、三度の絶対絶命な危機を大胆不敵に乗り切った。
    小田原平定の際は、白装束で秀吉御前に出て助かり。
    葛西一揆を陰で操った疑いで、蒲生氏郷と秀吉の前で討論させられ
    証拠である政宗が一揆側に送った書状、花押が政宗のものであり間違いないと
    詰め寄られたが、花押(鶏)は似てるが、本物は花押の目の部分に針で穴を開けていると強弁して逃げ切り(事実、他の書状は小さな穴が開いていた、用心深く針で穴をあけるのと開けないのを分けていただけであるが)
    関白秀次事件の際も連座されるそうになるが、陸奥から、磔の際の十字架を行列の全面に押し出し、大胆不敵な上洛を行い、評判になり、洛中にはいれば、きらびやかな衣装にきがえ、京市民の度肝を抜いた。(秀吉もこっそり町家から見ていた)このきらびやかな行列から伊達者という言葉が生まれた(現在のだて眼鏡もそう)
    申し開きでは、天下人、太閤殿下でさえ見誤ったのに、片目の自分が見誤らないわけがないと開き直った(独眼竜政宗)

    政宗の破天荒な行いに若き日の信長の姿を見たのかもしれない。(実際A型と思われる石田三成は政宗を嫌っていた)秀吉はそんなB型政宗を愛でたと思われる。

    時代が降り、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ際、真田幸村の娘を伊達陣中に送り届け
    翌日壮絶な討ち死にを遂げた。
    真田幸村と伊達政宗に交流はなかったが、政宗なら何とかしてくれると考えた、英雄、英雄を知るだろう。伊達家中、筆頭家老片倉重長の陣に届けられた幸村娘は、片倉重長の嫁となり、伊達家中には幸村の血が生き続けた。
    政宗は意気に感じ徳川家には知らせず処理した。
    政宗だからこそできた芸当だと思う。

    このような人間模様と血液型を社内人間模様に応用している、
    ちなみに私はO型であり、B型上司の際になんどか社長賞を受賞している。
    今は、部下の特性を活かすために、血液型は参考にしている次第である。

  2. 【4252864】 投稿者: 暇なおじさん  (ID:j73l5c9wtsc) 投稿日時:2016年 09月 18日 23:15

    イワサキさんこんばんわ。

    ほ~戦国武将は血液型まで判っているのですか、やはり血液型性格分析発祥の
    日本は進んでるようですね。血液型の生体に与える影響はそれまで何の考慮の
    なかった西洋でも少しづつ浸透しているようですね、台湾、韓国ではもうポピ
    ュラーなようですから日本からの新しい発信ができるかもしれません。
    歴史にはあまり詳しくないのですが、お酒は得意分野です。獺祭スパークリング
    は、50、3割9分、2割3分にもあるのをご存じですか。去年までは汐留で定価
    で買える酒屋があったので結構まとめ買いとかしてました。外国の知り合いが来
    ると一升瓶の獺祭をお土産にプレゼントしたりしましたが、海外には一升瓶がな
    いようでかなり珍しがられました。
    今日真田丸見てたら六文銭の穴の開いた硬貨が5円玉として残しているのを思い
    出し、日本の伝統文化に対する愛着を感じた次第です。

  3. 【4252921】 投稿者: 暇なおじさん  (ID:j73l5c9wtsc) 投稿日時:2016年 09月 19日 00:07

    天夢さん

    天皇の生前退位は憲法違反との内閣法制局の判断は大きかったですね。
    首相も判断に口を挟めません。皇室典範の規定の改正で対応できるとの
    考えもあったでしょうから、意外な判断だったかもしれません。
    この問題でデリケートな憲法改正問題には持ち込みたくないでしょうから、
    どういう形にするかの議論は難しいものになりそうですね。

    憲法1条では「天皇の地位は国民の総意に基ずく」との規定で、天皇自らの
    関与の文言は一切盛り込まれてないとの判断なのでしょう。

  4. 【4255111】 投稿者: 紙つぶて  (ID:P1Z9x6ieBDo) 投稿日時:2016年 09月 20日 13:37

    イワサキ さん、

    詳しい解説、ありがとうございました。

    ところで、以前書きましたが、バナナパパの本を読んでいた時に「山窩」という言葉に出くわしたのをきっかけに興味を持ち、目下、柳田国男氏の『山の人生』読んでいます。
    そこで、山窩に関係する神社を探しているのですがご存知でしょうか。

    これも以前、ひまわりさんや冷静にかんがえるとさんに?お話ししましたが、私は渓谷(惹かれる渓谷にも条件がありますが)が好きで、渓谷に小屋を立てて住みたい夢があります─熊に食べられるのはゴメンですが。

    なんでも大和政権による中央集権的な統制、公地公民を嫌い、山に逃げ込み狩猟、採集型縄文文化を維持し独自の文化圏を築き上げた原日本人らしいというだけで、実体は謎だらけなのですが。しかし、昔ばなしにも山男(山に住み時おり町に下りてくる山窩)の話が多くあります。山姥もその類いです。今でも日本人は深山に畏怖心を抱き、和魂、荒魂を持つ山神を崇めています。
    小学生低学年の時、夕方暗くなってからも外で遊んでいると、近所の年長者から「ことりが来るよ」と言われ、「小鳥?」と間違ったものですが、柳田国男氏の論説では「子取り」や「神隠し」も山の神に対する畏怖に由来する言葉とのことです。お茶碗をお箸で叩くことは未だに忌み嫌われていますが、これも荒魂の山神を呼び寄せる行為から発祥したとのことです。

    追伸、
    冷静にかんがえるとさん、身辺が落ち着かれましたらいつか投稿してくださいね♪
    皆さんでお待ちしています。

  5. 【4257093】 投稿者: イワサキ  (ID:Z6AzkgxtPSY) 投稿日時:2016年 09月 22日 07:17

    紙つぶてさん

    山窩とはなかなかのお題ですね。柳田国男の遠野物語を数か月前に読み終えたところですが、古代縄文の巨木文化の流れを引き継いでいるかな、それぞれの地域にいた太古の聖職者がある時期からおいやられ卑賎の身に落とされていった。
    太古はもの(和魂と荒魂を合わせたもの)と呼んだ、(もののけ姫)のものです。ものは、災害をもたらす恐ろしいもの(荒魂)だが、祈りを捧げることで、豊穣をもたらすもの(和魂)にも変化する。太古の聖職者はものに関わっていたが、いつしか、ものが和魂と荒魂に分けられ、神と鬼に変化した。
    そして神を独占したのが、藤原不比等、太政官を抑え、神祇官を一族中臣氏に独占させ神祇祭祀は私物化していった。
    中臣氏以外の古来からの聖職者たちは除外され、鬼、祟りをもたらすものとして邪悪な存在に貶められ、卑賎の身においやられた。

    竹取物語に出てくる、竹取の翁(柳田国男氏は卑賎の身であるとした)は鍛冶屋などと同じで、箕作り、箕直し、笊作り
    機織の道具造りなど専門に公の野山に分け入り、神聖と言われた竹(すくすく成長しなかの空洞に神が宿ると考えられた)を細工を施し、仮住まいを転々とする漂白民だったこの人たちがのちの山窩と呼ばれる人になった。
    竹取の作る箕は農村でよく見かけるが特殊技術で、作り方は秘密、穀物を入れるため中が窪んでいるので、穀霊の宿る神座と考えられ神聖視されてきた、これなどまさに縄文太古の信仰の流れだと思います。

    竹取物語は藤原氏によって、卑賎の立場に追い込まれた太古の神職者の末裔による、皮肉怨嗟を現した物語かもしれません。

    この太古の神職者たちは山の民として大和政権誕生時、神武東征時に神武を助けた熊野吉野の集団(山の民)、壬申の乱、大海人皇子を助け勝利に結びつけた、熊野吉野(山の民)、朝廷の信仰が厚かった熊野大社、時代が降り南北朝時代も吉野熊野を頼って南朝ができているので熊野の修験者、山伏たちもそれなりの勢力があったと思われる。山伏修験者たちのネットワークはそれなりにあったようなので、北陸の白山権現、出羽三山などの神社がこれにあたるかもしれません。

    古来の信仰では山そのものがもの(神と鬼)であったが、動物も神として祀っている、熊野は狼、八咫烏、秩父武甲山も狼、アイヌは熊を神(カムイ)としておりこの分布図と山窩の分布も重なっているのも興味深い。

    最後に北海道名づけの親、松浦武四郎(江戸後期から明治初期)は冒険家でもあ紀行家でもありアイヌの風習を数多く書き記しており、山窩と生活を共にしたらしいが、この山窩とはアイヌの人々であることを付言しておこう。
    アイヌには縄文太古の風習が江戸末期まで色濃く残っていたことになる。

  6. 【4257108】 投稿者: イワサキ  (ID:voqBp/C1lKY) 投稿日時:2016年 09月 22日 07:48

    紙つぶてさん

    ことりはことりのように愛らしかったからじゃないですか?
    山の信仰は明らかに、諏訪大社の御柱祭に続き縄文太古の信仰を引き継いでます。山の神は田植えの季節には田の神として麓におりてきて、冬になると山に帰る。山神の恐ろしい側面が鬼であり天狗だったりする反面、五穀豊穣をもたらす恵みの神様でもある。
    そして人は死ぬと山に帰ると信じられた。山の頂上に神社があり、麓にも神社があるこれも山自体を御神体にした。縄文太古の流れでしょう。
    大和三輪山の大神神社は三輪山そのものが御神体
    全国にも、山そのものが御神体の神社は多くあります。
    稲作農耕時代になり、平地にも神社が作られましたが、必ず神社には鎮守の森があります。この森に神が宿り、先祖もそこに集まると考えられたのでしょう。
    山そのものから鎮守の森に変化した、地域の祭りを盛大にやるの理由です。

    縄文太古の時代には、人は亡くなると山に返された、安置(捨てられた)これが風葬だが、人を綺麗にし山に返してくれるのが(食べる)、熊、狼、八咫烏、鷹などであり、これらの動物達が神の化身として死後の世界に誘ってくれると神様として神格化したと思われます。

  7. 【4257828】 投稿者: 紙つぶて  (ID:zrXVqTqpndA) 投稿日時:2016年 09月 22日 19:01

    イワサキ さん、

    わたしたち日本人の山に対する信仰は神話に始まり、時を経て日本中の各地方の言い伝え、奇譚にかたちを変えて残っています。私見ですが、海には進化の過程といったダイナミクスは感じるのですが、ことのほか山には不動の静寂の中に連綿性ある霊力を感じます。鬱蒼とした渓谷の厳と厳の間に立ち、その太枝に他の低木植物や苔の共生を許す巨木、そして人間の想いを悠久の時空に遡らせる巨岩には海にはない神秘性を宿していると思います。現日本人も古代の人々とこの感性を共有していることを確信しています。ヨーロッパの森にはないものです。

    さて、
    >中臣氏以外の古来からの聖職者たちは除外され、鬼、祟りをもたらすものとして邪悪な存在に貶められ、卑賎の身においやられた。

    なるほど、聖職者たちも山窩になったのですね。柳田国男は「山伏姿でなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍・寺百姓以上ではなかった。」と論述しており、山窩となっては原始的であれ生存することが第一目標であったと推察できます。再び私見ですが、班田収受法の下、重い労役と税に苦しみ、区分田を放棄し遁走した多数の農民たちも山窩になったのではと推察しています。

    そして、平地に居住する弥生時代以降の人々との違いは田畑、家畜、定住地を持たないことでしたから、山の動植物を食べ、また、イワサキさんの仰るように竹籠や箕細工の技術に秀でるようになったのでしょうね。

    >~北陸の白山権現、出羽三山などの神社がこれにあたるかもしれません。

    やはり東北ですか。恐らくは、マタギに関係するのでしょうか。マタギの狩猟用語とアイヌの言葉にいくつか共通するものがあるとのことですから。初代マタギは万次万三郎の兄弟などと伝承がありますが、マタギは関東より北に多く存在していたことから考えますと山窩、マタギ、アイヌの関連性が浮かび上がりますね。

    >山の頂上に神社があり、麓にも神社があるこれも山自体を御神体にした。

    日本人には山に関しては木と岩を祀れば神主も必要なしとする大胆さがあります。それだけ山は畏れ多い「もの」なのでしょう。
    イワサキさん、街に立つ巨大な楠も注連縄を張れば御神木になる不思議さ、勿論わたしは感覚を理解しますが、正直少し笑えます!注連縄は日本人を手出し不可能にさせる神通力がありますから。

  8. 【4258608】 投稿者: 天夢  (ID:0z3HEkfQp2w) 投稿日時:2016年 09月 23日 13:16

    横レスですみません。
    天皇陛下の生前退位について、有識者会議のメンバーが決まりました。意外な人選で、議長の今井さんは日米、日中関連団体の重鎮だし、山内さん、宮崎さんは国際関係の専門家で、他は政治史と行政法の学者さんでした。
    もちろん、他の学識者から幅広く意見聴取するみたいですが、暇なおじさんの仰る通り、憲法に関してはあまり論点とならないようで、天皇制の在り方もこれが日本の源というのを国際社会の中で再認識しようということだと感じました。

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