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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4258928】 投稿者: 暇なおじさん  (ID:6AMnge/8SIk) 投稿日時:2016年 09月 23日 19:31

    イワサキさん

    >古来の信仰では山そのものがもの(神と鬼)であったが、動物も神として祀っている、熊野は狼、八咫烏、秩父武甲山も狼、アイヌは熊を神(カムイ)としておりこの分布図と山窩の分布も重なっているのも興味深い。

    日本だと死者はトンネルを潜り抜けて、八百万の神々が住むあの世へと進んで行く。この異界観は、日本では伝統的で、その起源は縄文時代にまで遡るようです。「古代人は他世界の強い信者であったと私は思う。天には神がいて、そこには先祖たちもいて、人間がしねば、その天にある先祖たちの国に帰るのであろう。しかし、他世界はただ天のみではない。もう一つ、地の底にも他世界があり、それは黄泉の国である。人間は死して黄泉の国へ行き、そこでこの世とは別な生を受ける。」と梅原猛氏は述べてますが、この地母説が強かったのでしょうか。
    ちょうどそこから熊でも出てくれば神となるのでしょうね。

    天夢さま
    有識者会議では、事務方が詳細な資料を作ってそれに沿って会議を進めて行きます。時間をかけて論議をするのですがその資料の方向性から外れて会議が進む事はまずありません。違う方向へ持っていくならその資料以上の材料を用意する必要があり、まず無理です。もともと会議のメンバーは結果の箔をつけるような存在で、あまりな独自の発言をする方もいないと思います。
    まぁ、イワサキさんがおっしゃてたように筋書きはだいたい決まっているのでしょう。

  2. 【4261291】 投稿者: イワサキ  (ID:Z6AzkgxtPSY) 投稿日時:2016年 09月 25日 18:33

    竹取物語の竹取の翁について書き込んだが、
    似たような話で、羽衣伝説がある。丹後風土記、近江風土記に出てる話だが
    羽衣によって天から降りてきた天女に恋する男の話であるが、天女(白鳥)が水浴びをしてる間に、その美しさに心を奪われた男が、羽衣(衣服)を隠して天に帰れなくしてしまう話で、皆さん聞いたことはあるだろう。

    羽衣、衣服に霊力が備わっているとの話であるが、丹後風土記ではこの天女とは
    トヨウケビメであり、後日、伊勢神宮外宮に迎えられる豊受大神なのである。
    天照大神が雄略天皇の夢の中に現れ一人で食事ができないので、等由気大神(とようけのおおかみ)を呼び寄せなさいと言った。

    実は、霊力があると伝説になった天女の羽衣に関する祭祀が未だに天皇即位の大嘗祭で行われている、即位の儀として天皇がお風呂(小忌御湯、おみのおゆ)で身を清めその後、斎服をつけ神と食事をされる。
    この斎服は女性着物のようであり、女装して神と食を共にするらしい。
    伊勢神宮の内宮、外宮ににた、建物(住吉造りか?)で二回やる。

    前に書いた、難波津八十島祭り、文武天皇(697年)から後堀河天皇(1221年)まで、天皇即位の翌年必ず行幸しており(22回)、伊勢神宮斎宮(内親王)も天皇代代わりの際には都に入る前に必ず難波津に赴きお祓いをして身を清める。新天皇の乳母(内侍司典侍)が天皇の衣服を持ち込み琴の音に合わせて揺り動かし、海に祭物を投げ込む。八百万の神霊を衣服に招魂させる祭祀である。

    この衣服を大嘗祭の際に着たと思われる。古来は、ヒメミコ制であり、卑弥呼の時代の、卑弥呼と弟、イザナギとイザナミなど政は男、祭祀は女性で二人一組だったが、遣隋使の際、隋の煬帝にこの話をして遅れていると指摘されている。
    天皇が一人になり、即位の儀(大嘗祭)の時には、女性巫女の霊力を取り込むような祭祀が今でも行われていることになる。
    着物に霊力を招魂するような祭祀は伊勢神宮でも行われている。

    羽衣伝説の天女は羽衣をつけないと天には帰れないのだが、羽衣を着ると白鳥になり、空高く飛んでいく、白鳥伝説とも呼ばれているが、記紀に出てくる白鳥伝説とは、日本武尊であり、伊勢能褒野で不遇の死を迎える際、4首の国を思う歌を詠み、白鳥となり大和、難波に飛んでいった。(伝承地は堺、大鳥神社、大津、建部神社など)

    天皇葬儀の際には、日本武尊の読んだ歌が必ず詠まれているそうである。(昭和天皇崩御まで)、なお日本武尊も熊襲建を撃ち滅ぼす際には、女装をして衣服をまとい、宴会に忍び込み熊襲建を撃ち滅ぼしていることも故事としては、面白く
    衣服に、霊力を招魂させる由来の一つかもしれない。
    日本昔話から祭祀ま繋がる話は非常に興味深く、
    まさに歴史はロマンである。

  3. 【4261999】 投稿者: 暇なおじさん  (ID:13wG8q.TaPk) 投稿日時:2016年 09月 26日 11:28

    イワサキさん

    そうですか、日本では羽衣伝説はいろいろな繋がりがあって奥深いものに
    なっているのですね。
    羽衣伝説に似た伝説は広く世界中にあり、羽衣を脱いで、入浴する行為は脱皮
    再生を表わすもとの考えもあるようです、特に人いおいては若返りの願望を
    満たす儀式ではないかとの説もあります。
    興味深いのは能における「羽衣」では、天女は羽衣を返してもらって天に帰り
    ます。衣を拾った漁師に天女は「衣を返して下さい」と頼むのですが、漁師は
    「天女の舞を見せてくれることを条件に衣を返す」と言います。天女は「衣が
    ないと舞えないので先に返して下さい」と言うと、漁師は「衣を返すとそのま
    ま天に帰ってしまうのではか」と疑念を表わします。ここで有名なセリフ「い
    や疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」との言葉に感動して漁師は衣を返
    し天女は舞を舞いながら天に帰って行きます。

    去年の明治神宮薪能ではこの「羽衣」が演じられましたが、外で見る天女の舞は
    美しいですね。

  4. 【4267167】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 09月 30日 17:11

    地獄のような、ハードスケジュール9月末中間決算期末でした。
    先週から、仙台、札幌、新潟、富山、金沢、一度東京に戻り、日帰り名古屋
    人使いの荒い会社です。笑
    一つ、東京にいるとわからない話として、北陸新幹線開業後、長岡から金沢まで数多くあった特急が皆無になり、新潟の西部(上越、糸魚川)の人々は不便極まりなく現知事の評判悪く、今回の知事選出馬を見送ったのも理解できます。
    糸魚川、直江津に行くのに新潟から車で3時間半、電車なし。
    新幹線で新潟から群馬(高崎)まで行き北陸新幹線に乗り換える、これが一番早いが、糸魚川の駅は中心部から遠く、新潟西部地方は完全に孤立した感じ。
    トレードオフの関係で、便利になった人達がいる反面、新潟西部の人々は怒ってました。

    小松の近辺には、安宅の関跡があるが、有名な勧進帳の舞台になった先。
    義経が吉野で静御前と別れ、山伏姿に変装して奥州平泉(藤原氏)まで落ち延びる際、関守に見破られ、弁慶一世一代の芝居、義経を何度も打ち付け通り抜けた話。歌舞伎の舞台は安宅の関だが、本当は如意の渡しでの出来事らしい。
    元は能から始まり歌舞伎(勧進帳)に発展したそうなので、暇なおじさんさんが
    詳しいかもしれません。

    山窩と山伏のことを書いたが、山伏のネットワークが熊野から、北陸を経て
    奥州(出羽)まで繋がっているのは、義経の勧進帳から想像がついたが、
    福井も白山信仰があり、熊野、白山、出羽三山と山伏のネットワークで結ばれていたのは間違いないと確信しました。古来の越の国は、越前、越中、越後はとてつもなく広いと実感した次第です。

  5. 【4267736】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 10月 01日 06:08

    竹取物語、天の羽衣伝説を書き込みましたが、子供時代から慣れ親しむ日本昔話
    これが侮れません。誰でも知ってる桃太郎、鬼ヶ島に鬼退治に行くが
    鬼は北東からやってくるこれが鬼門、平安京の北東(鬼門)は比叡山延暦寺
    平城京の北東(鬼門)は東大寺、時代が降り江戸の北東(鬼門)は上野寛永寺
    その延長線上に日光東照宮(関八州の鬼門)がある、これはすべて鬼門から鬼が入って来ないように鬼門封じに寺院を建造したわけだ。徳川家康は自らの遺言で関八州(江戸幕府)の鬼門の位置に東照宮を立て、鬼に立ち向かった。
    ここでの鬼は、(災い災害を巻き起こすもの)になる。

    羅針盤で考えると北東の一番遠い位置は南西であり、時計の針で言えば、7時、8時、9時の位置、この位置を干支で表せば、戌、酉、申になる。
    鬼が入ってくる一番遠い位置の戌、酉、申が、犬、雉、猿となり、桃太郎の家来にあたる。鬼退治には、犬、雉、猿でなければならないことが理解できたでしょ。

    そして桃、日本最古の中央集権体制の政庁と思われる、纏向遺跡(大和)ここからは2000個以上の桃の種が果肉が付いた状態で竹籠の中に入れられ発見されている、既に掘り返された跡があったので実際には倍以上あったらしい。
    これは祭祀に竹籠の中に桃を大量に入れ使われた痕跡であろう。(竹籠をつくる竹取の翁は神に奉仕する聖職者であったはず)
    時代をさかのぼり、卑弥呼の時代、魏志倭人伝では卑弥呼は鬼道により政治を行ったと書かれているから、纏向遺跡(大和)が邪馬台国とは思わないが、鬼道とは祭祀であろう。桃には、桃源郷伝説がありそこには仙人が住んでいる(大陸)邪悪を追い払うものとして扱われている。
    鬼を退治するのは、桃から生まれた桃太郎でなければならず、家来は犬、雉、猿でなければならない事がお分かりいただけたであろう。

    昔話では、童子(子供)や、翁(老人)が必ず主人公である。
    これも、童子は常世から来たばかりで霊力があると信じられ、翁は常世に近い人で霊力があると信じられた。
    竹も桃も霊力があるもの、これはすべ当時の知識人の常識であり、物語を読むときには上記内容はすぐ頭に浮かんだと思われる。
    昔話も侮れず、時代背景を理解した上で読むと一層興味深いものとなる。

  6. 【4269693】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 10月 02日 18:16

    歴史はロマンスレッドから始まって、書き込んでいくと新たな発見があります。
    古来は西から東へ、全てが伝播していると思ってる人が多いでしょう。
    私もそうでした、縄文時代まで遡ると、三内丸山遺跡5000年前、また越の国のヒスイ、火炎式土器、諏訪地方の黒曜石すべて東国から、海を渡り、逆流していた。
    大和政権は、九州から人々がやってきたと考えられていた、古くは騎馬民族がやってきたなど、しかし、現代科学の進歩すさまじく、従来の仮説を葬り去る発見、鑑定結果が続いている。

    日本初の中央集権体制の都市と思われる。纏向遺跡(大和)鑑定の結果、240~270年の遺跡らしい。当然九州からやってきた人々が中心となった初期国家と思われた、この遺跡から発掘された土器を調べると、尾張、東海地方の土器が50%以上、北陸、出雲、吉備の順であった。吉備の土器は7%だが、形状が違い祭祀に用いた土器と推測されている。九州の土器は全く出ていない
    この初期政権は、東国の人々によって作り出された政権である。
    この時期より、少し時代が降り、吉備地方には、全国4位の前方後円墳(造山古墳)350Mがつくられている、この時代では、大王家の古墳より、わずか10M小さくした、2位の古墳であった。初期大和政権を確立させた立役者が吉備であったことを考えると興味深い。

    古来は、神(和魂)鬼(荒魂)を同じものと考え、ものと呼んでいた。
    災害が起これば(荒魂)に祈り、豊穣を願う、そして和魂になり福をもたらすと考えられた。映画にもなった、もののけ姫これもその名残でしょう。

    ものは古来の森羅万象を現す言葉である。このものを現す古来のスーパー祭神と氏族がいるんだが、想像がつくであろうか?
    オオモノヌシノミコト(大物主命)、奈良大神神社の祭神であり、出雲国譲りの大国主命の和魂と呼ばれている。
    もの(森羅万象)に大きいをつけた神だから、葦原中津国を統治していた素晴らしい支配者であった事が名からわかる。

    ものは、もののふ(武士)ものぐ(武具)を現す。これを支配した部族
    これこそが物部氏である。石上神宮には、天皇家の武具倉庫があり、物部氏あるいは、末裔が石上神宮で管理していた。

    物部氏の本拠となった、大阪八尾近辺からは、吉備系の土器が大量に発見されている。纏向遺跡(大和)から発見された、吉備系の祭祀に使われる土器、これは
    物部氏先祖、饒速日命ではないかと疑っている。饒速日命(子、宇摩志麻遅命)が神武天皇の前で、十種神宝を献上して、舞い祭祀を引き継いだ。皇室祭祀の鎮魂祭であり、皇室以外では、物部氏と関連の深い、石見物部神社、大和石上神宮、越後弥彦神社だけで鎮魂祭がいまでも行われている。
    元をただせば、物部氏租、饒速日命の祭祀を大王家に譲り、軍事政事は物部系で独占したのではないかとの考えに至りました。

    出雲国譲りの、経津主神(物部系)武御雷神(尾張氏物部系)と考えると、吉備が出雲をいじめ、石見物部神社、越後弥彦神社から出雲と越の国(北陸)を挟み撃ちににして監視したと思われてならない。

    神武東征などは大掛かりではなく、祭祀を司る人間を九州から呼び寄せた、これが神武なのではないかと思いを巡らせている。
    まあ古を想像するのは、楽しいことである。
    更なる科学的な発見を待ち望む一歴史愛好家として、それでは

  7. 【4277315】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 10月 08日 09:06

    天夢さん

    天皇陛下の御譲位に関する有識者会議についてだが、
    現在の有識者会議ではなく、昭和から平成にかわるドタバタの中でどのように
    元号が平成に決まったか、平成記 青山繁晴著 幻冬舎文庫 これを読んでみたらどうでしょうか?
    昨日新幹線の中で読み終えました。2、3時間で読めるでしょう。

    昭和天皇崩御の際の世間の息遣い、参議院議員になった青山繁晴氏の記者時代の取材をもとにして書かれ、日本国政府は用意周到に昭和天皇崩御のはるか10年前より、元号法を改訂し水面下で用意していたことが読み取れます。
    有識者8人と、衆参両院の正副議長合計12人で有識者会議開き、電光石火で元号、平成を誕生させてます。
    修文、生化、はローマ字の頭文字が昭和とおなじSになるので不都合だという意見をだしてもらい、平成に決定です。全部で7つあったらしい元号案、京都の学者が出した、文思、天章、光昭など、政府は用意周到に、昭和天皇崩御10年前より、数人の学者から案を募っていたと思われる。

    御譲位の運びは当然として、元号も水面下では、決まっていることでしょう。
    いずれにしても興味のあるところです。

  8. 【4277684】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 10月 08日 15:24

    元号につき興味がわき調べてみました。
    慶応、明治、大正、昭和、平和と続いているが、江戸時代は徳川幕府が全て奏上してきたが、幕末に幕府が孝明天皇に従う意見書をだし、江戸幕府創設以来の改元制度の終焉した、孝明天皇がいくつかの候補から慶応を選んだ。(いくつかの候補の中に平成があった)

    明治は江戸時代だけで8回、計10回候補にあがり、11回目で初採用、明治天皇がみずから抽選した。
    大正も過去4回候補にあがり、5回目で採用
    昭和は64年続いたが、歴史上60年以続いた元号は清の康煕(61年)乾隆(60年)、昭和は最長で、戦前、戦後と激動の時代であった。

    天皇陛下の諡号のに直接関係する年号、ローマ字表記のK、M、T、S、H
    を除いたもので、過去に候補になった元号案を調べてみるのも面白いかもしれない。
    平成が幕末に候補になり、二度目候補となり採用されるまでに124年を経た。
    今上天皇陛下が即位し125代目の天皇になったのも、歴史にまつわる何かの因縁かもしれない。

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