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【1787177】未だに靖国神社?

投稿者: そこまで言って委員会   (ID:GbXpJovx0M2) 投稿日時:2010年 07月 02日 20:33

そこまで言って委員会をみてたら、田母神さんが、管さんの奥さんに叱られたと話してました。未だに、戦犯を祭っている靖国神社に参拝してるから当然だけど。彼は面白いけど、子供っぽくって成長しない人だね。

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  1. 【1839447】 投稿者: ・・・  (ID:i4LpG5IFkAA) 投稿日時:2010年 09月 03日 11:00

    あのー、その松岡自身、祖国の世論がそうした出迎え方をするとは予想していなかったのですが。

    それはさておき、国際連盟は日本に対して満州から出て行けといったわけではないですし、既得権益の正当性を否定したわけではもなく、むしろ連盟提案は日本にとってみれば名を捨てても実を得られるものだったのです。まあ、日本はその実を捨てて連盟脱退という選択をしたわけで、それが不可避だったかといえば、政治決断さえあれば不可避ではなかったと思います。

    もっとも、日本が連盟案を受け入れ、南満州での既得権益を維持しつつ、国民政府との協調のもとに満州の自治政府が樹立されたとして、日中間の緊張関係、より厳密に言えば国民党による再統一に触発された反日・排日機運が解消される保証はなく、
    満州をめぐり日中がその後衝突した可能性は十分にあります。あるいは中国のことです。かりに両国が連盟提案に沿って何らかの協定を結んだとして、それを履行、遵守したかどうかはかなり疑わしいです。

    ただし、満州事変を非難し、満州国に対しては不承認の姿勢を示した列国も、日本が満蒙問題を軍事行動によって解決しようとするにいたった背景に中国側の事実上あるいは明白な国際法・国際慣習違反があったという事実までは否定しておらず、同情的な見方すらあったことは忘れてはならないのではないでしょうか。すなわち、かりに再び満州をめぐって中国側が日本との協定を反故にするような行為があり、それが軍事衝突に発展した場合には、かつ軍事行動が満州事変とは違い抑制的なものである限りは、列国は日本に対して制裁ないしは敵対的態度をとることはなかったのではないのでしょうか。

    先の大戦を運命論のような不可避論的視点から見るよりも、むしろ時々の政府・軍の判断が適切なものだったのか、実際にした決断以外の策はなかったのかという批判的検証こそ必要なのではないでしょうか。運命論はえてして負け犬が傷をなめるよな無様な自己弁護になり、敗戦の原因究明や敗戦の国内的な責任論をあいまいにしてしまおうとする分子にいいように利用されるだけかと思うのですが?例えば、石原は将来的な日米の対決を不可避とは考えていても、あの時期での日米戦争を不可避だとは考えていなかったのですけど? 同時代人のなかでは、若槻なども、米英はじめ列国により日本の安全が脅かされるような情勢は存在したいと考えていたわけですけど。

    あえていえば、ソ連でしょうか。かりに満州をめぐり日本が国際連盟の示唆するところを受け入れたとして、また中華民国側も受け入れたとして、スターリンが満州における日中の対立の激化と衝突を望んで画策しようとした可能性は捨てきれないですね。同時にコミンテルンの指導のもと中共がそうしたスターリンの思惑に呼応した可能性は十分にあると思います。でもそれが米英との対決を不可避にしたかというと、疑問の余地は大いにあるかと。

  2. 【1840081】 投稿者: スレ主は勉強不足  (ID:eztNN55aHS.) 投稿日時:2010年 09月 03日 23:54

    一等国からの転落 さん
    ・・・       さん
     
    冷静なご見識が伺えて、ホッとしました。
      
    ここのスレ主さんには、たかじんさんもガッカリでしょう。
    まともな議論ができないですから。

  3. 【1840163】 投稿者: 知ってるつもり  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 04日 01:37

    …さん、
    東京裁判史観では、何か日本が一方的に中国や米国に戦争を仕掛けたように思われますが、日本も、ペリー来航以来、アメリカやロシア、ヨーロッパ列強国の植民地の標的だったことが見逃されているのでは。
    幕末の尊王攘夷思想のうち尊王は王政復古で成就し、攘夷でなく開国したが、攘夷の思想はずっと底流にあり、ついに米英との戦争に至ったとも言えます。
     
    明治維新以来、世界の列強による帝国主義と植民地支配がアジアに押し寄せる中で、日本は好むと好まざるに関わらず国の存亡をかけて富国強兵に向かわざるを得なかった。
    ロシアが不凍港を求めて南下し、辛亥革命によって混沌とする中国や独立を果たせない朝鮮に進出することが、日本にとってどんなに脅威だったか。もし日本が日露戦争に負けていれば、日本はロシアに占領されていただろう。それがどんなに悲惨かは、ロシア・ソ連による東欧諸国への圧政やユダヤ人迫害の歴史が示している。
    日本は日英同盟を結んでロシアに対抗し、日露戦争で大国ロシアに勝利して世界中から賞賛され、アジアの植民地化された国々に民族自決と独立の気運を芽生えさせた。
     
    しかし、ロシアの南下による太平洋への進出を阻止しようとするアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領から日露戦争のポーツマス講和会議を仲介してもらいながら、中国へ遅ればせ進出を狙うアメリカの鉄道王ハリマンが日本に満鉄共同経営を持ちかけて「桂・ハリマン覚書」を交わしたのを、帰国した小村寿太郎外相が「日露戦争で大きな犠牲を払って獲得した満州の利権を、血も流さなかった米国に分け与えるなど外交の恥だ」と猛然と反対して破棄した。
    アメリカは、日本が中国大陸からアメリカを締め出したと理解し険悪になり、いつか報復することを心に決め敵対していき、その後、対日戦争戦略のオレンジ計画に着手する。
    もし、ロシアを牽制する意味でも、アメリカと満鉄を共同経営して成功していれば、あるいは日米戦争は起こらなかったかも知れない。この時の小村寿太郎の判断の是非は議論が分かれるところだろう。
     
    「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏
    http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe150.html
     
    日露戦争でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満洲の共同経営の約束を破った日本、「ハリマン事件」の実態
    http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe150.html#04
    小村寿太郎と桂・ハリマン覚書
    http://www.geo●cities.jp/michio_nozawa/03episode/episode12.html
    http://www.c20.jp/1905/10kakus.html
     
    中国戦線のアメリカ軍総司令官は語る 「米国は敵を間違えた」
    http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe150.html#ex02

  4. 【1840183】 投稿者: 知ってるつもり  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 04日 02:27

    教科書的には、何か日本が領土拡大や植民地の獲得のため一方的に朝鮮や中国を侵略したかのようだが、そんなに単純ではない。日本人は、大東亜戦争について、当時の日本の状況とそれを取り巻く世界情勢を客観的な事実を元に見つめなおすことが必要だと思う。
      
    朝鮮への出兵は、義和団の変の鎮圧の頃から、歴史を紐解かねばならないが… 日中戦争に話を移すと、
    孫文の辛亥革命で清朝が滅んだシナには、各地の軍閥が群雄割拠し、国民党と共産党が内戦を繰り広げる無政府状態だった。
    中国の反日愛国デモ暴動は、戦前の抗日運動の激しさを想像させたが、当時は、大隈内閣による対華21ヶ条の要求(不平等条約)によって反日感情が悪化し、日本の店が襲われたり邦人が大勢殺され、日本は中国大使館や邦人保護のために派兵していた。
    満州では、ソ連のスターリンの下で強力に近代化が進められるソ連陸軍の脅威があり、ロシア革命の影響を受けた共産主義者達が日本商品不買運動など反日活動を激化させていた。
    そこで、関東軍参謀・板垣征四郎と軍事の天才・石原莞爾は、柳条湖の満鉄を爆破して満州事変を起こし、満州からソ連軍を駆逐して一気呵成に制圧した。そして、清朝(満州族)最後の皇帝の愛親覚羅溥儀を傀儡皇帝とする満州国を建国した。
      
    しかし、国連のリットン調査団が、日本の満州での権益は認めるも、満州国不承認と中国へ返還する対日勧告案が可決したのに対して、日本政府から「もし、満州国建国が認められなければ、国際連盟からの脱退もやむなし」との指示を受けていた松岡洋介外相は、日本は国際連盟の常任理事国であったにも関わらず国連を脱退して、世界から孤立して行った。
    日清戦争の犠牲を払って得た遼東半島を露仏独の三国干渉により清へ返還して臥薪嘗胆してきた日本が、満州の返還など受け入れられなかったのも国民世論だった。
    新聞各社は満州国を支持し、国連脱退論を圧倒的に唱えていた。世論は軍部の威勢のいい言辞に引きづられ、また憲兵隊と特高警察が言論の自由を封じていた。
     
    日本では昭和になって右翼テロや5.15や2.26事件による政治家の暗殺から軍部が台頭し、政党政治が死んで大政翼賛会になっていた。
    しかも、広田内閣で陸海軍大臣が現役武官制になり、軍部が大臣を出さなければ首相は内閣を組閣できず、軍部の意向が首相を決め、組閣を支配するようになってしまった。そして、政府による天皇の統帥権干犯を口実に、軍部が「天皇の名により」と独断専行で軍政を行っていった。
     
    そして盧溝橋事件から日中全面戦争への拡大が、日本を泥沼に引きずり込んで行った。
    盧溝橋事件そのものは発砲した国民党政府軍が正式陳謝して部隊を撤収させることで解決していたが、この事件を機に日本と国民党政府との全面衝突に発展させようとするソ連コミンテルンの策動により、日本軍へ攻撃されたり日本人が大勢虐殺され、日中間で対立が極度に激化した。
    この時、関東軍の牟田口廉也大佐(東条英機の配下)が、日本政府の戦争不拡大方針を破り、中国軍に反撃して日中戦争の端緒を作った。
    満州事変の首謀者だった石原莞爾は日中戦争拡大には絶対反対だったが、後輩達に「あなたが満州でやったことと同じことをしているだけだ」と言われて抗することができず、東条英機と敵対して失脚し予備役になった。
     
    戦前の日本には、中国との戦争に関して、アヘン戦争後、世界から「眠れる獅子」や「東洋の病夫」と言われた中国を奪還し覚醒を促すために戦っているのだという欺瞞的な認識が広くあったと言われる。
    しかし、永田鉄山や石原莞爾は韓国併合に対しても、「朝鮮は今のままでは絶対に収まらないから、なるべく早く日本人に悪感情を持たれない形で独立させるべきだ」と主張する晴眼があった。
     
    一方、陸軍省内では組織に服す統制派と精神主義の皇道派が激しく対立し、陸軍で天才と言われた永田鉄山・軍務局長が2.26事件後に皇道派の掃討を図り、相 沢 三郎中佐に陸軍省内で斬殺された。
    もし永田鉄山が生きていれば、盧溝橋事件で石原莞爾と共に軍部を抑え戦争拡大を防げたかも知れない、彼があれば東条英機の登場もなく、太平洋戦争は起きなかったとも言われる。

  5. 【1840207】 投稿者: ↑何これ?  (ID:Q4tz608/Zzk) 投稿日時:2010年 09月 04日 05:45

    要は何が言いたいのか? 

    しかも、

    >朝鮮への出兵は、義和団の変の鎮圧の頃から、歴史を紐解かねばならないが…

    朝鮮への出兵って、そんなの既に日清戦争以前からあるわけですけど? 「知ってるつもり」ほど怖いものはないという
    一例かと。

  6. 【1840256】 投稿者: 知ってるつもり  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 04日 07:56

    おお、失礼しました。朝鮮への出兵ではなく、清への出兵の書き損じです。眠くなったので。
    朝鮮への出兵なら、壬午事変、甲申事変、甲午農民戦争(東学党の乱)かな。これら朝鮮での事件それぞれが日清戦争にいたる重要な要因だが、日中の近代史からは抜け落ちている。
     
    僕の言いたいこと?
    …さんに対して、それぞれ冒頭に、世界や日本の歴史的な潮流があったということを書いており、当時の政府や軍部がどのようにして日中戦争や太平洋戦争に至ったのかを辿り、果たして、戦争が起こらなかった、あるいは阻止する方法があったのか?という想像を書いた。つもり。

  7. 【1840287】 投稿者: 知ってるつもり?  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 04日 08:39

    さて、日米開戦は避けられたのか?
     
    世界恐慌後、欧米で黄禍論など黄色人種差別やアメリカの日本移民排斥運動が強まり、世界の植民地ブロック経済化と保護主義貿易によって日本の輸出産業経済は行き詰まり、日本は大東亜共栄圏に活路を求めて、朝鮮や台湾の植民地経営に注力し、中国大陸や東南アジアに進出して行った。
    戦前、石橋湛山(東洋経済社長・後に首相)は、日本が朝鮮や台湾の植民地経営に莫大な投資をして発展させても見返り利益はなく、日本の国力増強と非戦のためにも植民地全てを放棄すべきだという、今にして思えば誠に達観した「小日本主義」の論文を書いていたが、これは戦後に有名になったもので、戦時中には大きく主張はしていなかったようだ。そんなことをしたら軍部に狙われ危なかっただろう。
     
    ヒットラーのナチス・ドイツがポーランド侵攻して第二次世界大戦が勃発し、フランスを占領し、ヨーロッパで快進撃を続けた。
    日本はドイツの勝利を予期して、日独伊三国同盟を結び、石油確保のためドイツに降伏したフランス領の南仏印に進出するが、これによって、ドイツと敵対しフィリピンを植民地とするアメリカとの衝突は決定的になった。
     
    松岡洋介外務大臣は、独ソ不可侵条約が結ばれたため、日独伊三国同盟からソ連を加えた4国協商に発展させて米英に対峙しようと構想して日ソ中立条約を結んだが、ドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が勃発し、「欧州は魑魅魍魎、奇奇怪怪の世界」と翻弄させられた。
    しかも、近衛首相のブレーンだった朝日新聞記者の尾崎秀実は中国共産党と通じてドイツ人記者を装ったソ連(コミンテルン)のスパイ・ゾルゲに日本軍の南進方針を知らせ、スターリンは日ソ中立条約によってソ連軍をドイツ攻略に傾注して勝利した後で、日本へ侵攻を可能にした。
     
    米ルーズベルト大統領は日本へ石油を全面禁輸したため、日本の産業生産はジリ貧になり、後1~2年で石油は枯渇し軍事の遂行も不能となった。日本は、米国務長官ハルが満州や南方からの撤退を要求した最後通牒ハルノートを到底呑めず、対米開戦やむなしとなったのも国民世論だった。
    ルーズベルト大統領は、米国内で世界大戦へ非参戦の世論が強いため、日本から対米開戦の引金を引かせるよう追い込んだのは定説である。ちなみに、ハルノートの筋書きを作ったハルの側近は国際コミンテルンのスパイだったことが、戦後に明らかにされている。
     
    連合艦隊司令長官・山本五十六は真珠湾を奇襲攻撃を作戦し、初戦で米国の太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えて戦意を喪失させ、早期に和平交渉することに望みをかけた。
    しかし、近衛文麿首相に対米戦の勝機を問われ、「結果を考えずに、是非やれと言われれば、初めの半年や一年間は存分に暴れてご覧に入れましょうが、二年三年ともなれば、確信はありません。」と悲観し、近衛首相を震えさせた。「勝てるわけないだろう!」って言ってれば…
     そして、近衛首相は政権を投げ、東条英機首相に変わったが、彼にも軍部の開戦派は抑えられず、ついに日米交渉は決裂した。
     
    1941年(昭和16年)12月8日、「トラ・トラ・トラ、真珠湾攻撃成功せり」
    ルーズベルト大統領は、日本のフィリピン・マニラ基地攻撃を予想していたので、真珠湾奇襲の大戦果に愕然とし、日本大使館の宣戦布告の遅れを卑怯と怒り、“Remenber Pearl Harbor!”を唱えて米国民を対日戦に決起させた。
     
    日米開戦の直前、日本の参謀本部にスウェーデン駐在武官の小野寺信から日米開戦に反対する30数通におよぶ電報が届いた。当時の小野寺大佐は連合国から「ヨーロッパ日本人スパイ網の親玉」と恐れられ、「ドイツはソ連に負ける」という誰も信じなかった予測を小野寺大佐だけが予見していたが、ドイツに傾倒する軍部に顧みられることはなかった。
     
    日本が初戦の連勝を飾り圧倒的優位にあったミッドウェー海戦で、日本の暗号は米国に解読されて、山本五十六の作戦は裏をかかれ、まさかの大敗を喫して連合艦隊は壊滅してしまい、その後は坂道を転がり落ちるように敗退し続けて行った。
    昭和19年夏、サイパン陥落とマリアナ沖開戦での惨敗で絶対国防圏が破られた時点で、和平への道を探るべきだったが、軍部は起死回生の勝利してから講和の機会を期した。
    また、あの盧溝橋事件の牟田口廉也大佐は、その後も、無謀なインパール作戦を命令して多くの日本兵を疫病と餓えで死なせ、当時の大日本帝国陸軍の将官の全体的なレベルの低さを象徴する人物として真っ先に名前が挙がる人物だ。
     
    ベルリン陥落でヒットラーが自決してドイツが無条件降伏し、連合国が日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が出た頃、鈴木貫太郎内閣・東郷茂徳外務大臣はソ連に和平交渉の仲介を依頼したが、米英ソ首脳のヤルタ会談の密約で対日参戦を決めているソ連は返答を引き伸ばし、日本は返答を待ち続けた。
    そして、1945年8月、日本は広島と長崎に原爆を投下され、ポツダム宣言を受諾し無条件降伏した。
    しかし、日本は降伏文書に調印しなければ停戦にならず、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破って(ソ連は国際法違反の常連)して満州に侵攻し、北方領土を不法占拠した。
     
    以上、日本側から見た歴史です。失敗の原因は後だから言えることだが、今の時代からは想像もできない激動の世界だったと思う。
    日本は、日清・日露戦争までは「坂の上の雲」を目指して、世界の一等国になった。しかし、満州事変から日中戦争への大東亜戦争やアメリカとの太平洋戦争に至る日本の過ちは、世界の潮流を見誤った政治家の無能と、軍部の暴走と無責任のためだ。
    戦争を煽った大新聞や徳富蘇峰や蓑田胸喜のような右翼的思想言論人にも責任があるだろう。

  8. 【1840322】 投稿者: 知ってるつもり  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 04日 09:26

    日米戦争の遠因を。
     
    映画「明日に向かって撃て」(アカデミー賞、名曲「雨に濡れても」)をご存じでしょうか?
    実在した二人のヤンキー強盗ブッチとサンダンス(ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード) が執拗に襲うのが、アメリカ鉄道王ハリマンの大陸横断列車だった。セリフに「ハリマン」の名が出てくる。
      
    100年前の1905年、日露戦争の講和会議が米大統領セオドア・ルーズベルトによって仲介され、ポーツマス講和条約で、日本は中国東北部にロシアが保有していた満州鉄道など利権を獲得した。後に鉄道経営の国策会社・南満州鉄道を設立する。
     
    米国の鉄道王エドワード・ハリマンは満鉄に関心を寄せ、日米による満鉄の共同経営を呼びかけた。日本政府・桂太郎首相や井上馨らは一旦は同意し「桂・ハリマン覚書」を交わした。
    日露戦争に勝利したとはいえ、ロシアによる報復の脅威があり、北満州にいるロシアの大軍が南進した場合、これを迎え撃つ余力は日本に残っていなかった。
    ハリマンも、満鉄経営に米国が参画することはロシアの南進への抑止になると説得した。
    ハリマンの狙いは、満鉄からシベリア鉄道を経て欧州へと繋がる大陸横断鉄道の実現という野望にあった。ルーズベルト大統領が日ロの仲介を買って出たのも、ハリマンのビジネス計画への配慮からだったとの説もある。
    だが、ポーツマスから帰国した小村寿太郎外相の猛反対により、ハリマンが帰国途上に破棄された。
    「桂・ハリマン覚書」を反故にされた時、エドワード・ハリマンは「いずれ日本は後悔する」と、つぶやいたという。
     
    日本の変節は米国の目に、中国からの米国排除の意志の表れと映った。
    事実、その後米国では日本人移民排斥運動が活発化し、日米関係は次第に対立構造をあらわにしていく。
    ハリマン提案の却下こそ太平洋戦争の遠因だとの見方すらあり、 小村寿太郎の判断の是非は今でも議論が分かれる。
     
    セオドア・ルーズベルトが日露講和を仲介したポーツマス会議から約30年後に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、セオドアの甥である。日本は、その彼と戦争することになったのだ。
    そのルーズベルト政権下で駐ソ連大使を務めたのが、エドワード・ハリマンの息子アヴェレル・ハリマンだった。(このアヴェレルの経営する投資銀行の最高幹部を経て上院議員になったのがプレスコット・ブッシュで、その孫がブッシュ前大統領である。) 
    第2次大戦の末期、エドワード・ハリマンの息子アヴェレルはヤルタ会談開催やソ連の対日戦引き込みに尽力し、日本を敗戦に導いた。
    因果は巡るというべきか。

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