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【1787177】未だに靖国神社?

投稿者: そこまで言って委員会   (ID:GbXpJovx0M2) 投稿日時:2010年 07月 02日 20:33

そこまで言って委員会をみてたら、田母神さんが、管さんの奥さんに叱られたと話してました。未だに、戦犯を祭っている靖国神社に参拝してるから当然だけど。彼は面白いけど、子供っぽくって成長しない人だね。

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  1. 【1847799】 投稿者: 知ってるつもり?  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 11日 08:54

    なんだかなぁは、こっちのセリフだよ。
    ただの法学生? こっちは、天皇の戦争責任を学問的に追及などしていない。
    若いの? 親も戦後世代?
    戦前戦中世代の大勢の話を聞いていたら、天皇に責任がないなんて思えないだろう。みんな、天皇の命令だと思って戦争に行って戦って、お国のため天皇のためと思って死んでいったんだよ。当時の世の中の実相や人々の意識と関係なく、空論を語るなよ。
     
    では、時の東大総長・法学部長の南原繁や東大法学部7教授、最高裁判事らの天皇退位論も、間違ったことを言っていたということ?
    誰彼が退位を言ったからではなく、然るべき地位の人達が、なぜ退位すべきと考えたのかが重要なんだよ。それを書いておいただろう。詳しく引用しようか?
    僕は、退位論の理由は尤もだと思ったが、あなたは、法学の最高権威の彼らの認識が妥当でないと思うなら、自分で検証しなさいな。
     
     
    近衛文麿は、東条と軍部に責任を押し付けるつもりだったが、天皇にも責任を負わせたかったんだろうよ。当時の指導者層が降伏の条件とした国体の護持とは、少なくとも天皇制を維持できれば、そのためには昭和天皇個人に責任を負わせる、即ち退位させることも止むを得なかったんだよ。分かってる?
    ただし、連合国側が天皇裕仁を極刑に処すべしと考えていたのを、日本政府は分かっていたのか?は知らない。
     
    皇族で最も強く道徳的責任論を唱えたのは東久邇宮だった。1946年2月27日付「読売報知」に、東久邇宮は「天皇御自身は適当な時機に退位したいとの御意志を洩らされている。これは--もし御退位が実現するとして--天皇が御自身で自己の戦争責任を引受けられるためであって、決して、在位中に万一ありうる戦争犯罪者としての逮捕に先手を打とうとされるためではない。退位に賛成するものは、天皇にたいし“道徳的、精神的な”責任があるとしている」と述べている。
    また、天皇の弟である三笠宮崇仁が2月27日の枢密院本会議で、「現在天皇の問題について、又皇族の問題について、種々の議論が行はれてゐる。今にして政府が断然たる処置を執られなければ悔ゐを後に残す虞ありと思ふ。旧来の考へに支配されて不徹底な措置をとる事は極めて不幸である」との発言があり、天皇退位を示唆した。
    天皇を守るはずの皇族から天皇を見捨てるような発言が出てきたのは、「国体護持」を第一に考えての道徳的退位論だ。「国体」を守るためには戦争に敗れた君主が在位し続けるよりも、退位して新しい君主となった方が国民なども納得し、国体護持のためになると考えたのだろう。天皇制が危機的な状況下にあるのだから、皇族が団結して天皇制を守っていくことを目指したのだが、昭和天皇にはその気がなかったために、皇族たちは失望したのだろう。
     
    道徳的責任論は当時の知識人によって特に大きく唱えられていた。東京大学総長の南原繁は敗戦翌年の天長節(4月29日)に安田講堂の式典で演説し、天皇には道徳的責任があり、退位すべき、退位されるであろうとの見解を示した。
    「陛下に政治上、法律的責任のないことは明白である、しかしその御聖代においてかくの如き大戦が起こり、しかも肇國以来の完全なる敗北で國民を悲惨な状態に陥れたことについては、宗祖に対し、また國民に対し道徳的、精神的な責任を強く感じてゐられるのは、けだし陛下であらうと私は拝察する……陛下がその御自覚を持たるゝことは、けだし我が国至高の道徳表明であつて、我々が國民の中心として皇室を尊崇してきた所以であり……日本國民統合の象徴としての天皇は永久に維持されなければならぬ、それは單なる天皇制護持ではないのであつて、我が国の長い歴史において、民族が結合の不源において、それを支持して来たものである……象徴としての天皇が自ら自由の原理に基き、率先して國民の規範たり、理想たるべき精神的、道義的の神聖なる御責任をおびさせられるのは當然のことであらう」
    南原は、天長節講演について、「この講演は当時の保守派の言っていた一億総懺悔ということに対する、私の批判でもあった」と述べていた。
    南原は12月の貴族院本会議でも同様の見解を示し、新しい皇室典範に退位規定がないことに反対した。
    同日の議会では、佐々木惣一京大名誉教授も「此の個人的の立場からぢゃなしに國家的見地から、自分は此の地位を去られることが良いとお考になることもないとは限らぬと思ひます、斯う云ふ場合に、國家は之に付きまして何等か考慮しなくて宜いものでありませうかどうか」と述べて、南原同様、退位規定がないことに反対している。
    東京裁判判決直前の48年、佐々木と長谷川如閑、三淵忠彦最高裁長官で鼎談が行われた。佐々木が「天皇が國家のためにということを考えて、やめた方がええと思えば、國民の意思を問うて決してもらうという態度をとるという制度にするのがよいと思う」と述べた後、三淵は「ぼくらはネ、終戦当時陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかつたか、ということを非常に遺憾に思う」と発言した。三淵は「公人としては自分の思慮をもつて進退去就を決するわけにはいかない」と、退位についてまでははっきりとは言及していないものの、天皇の道徳的責任については強く追及している。この鼎談を機に、国内外で退位論が巻き起こり、東京裁判判決後に天皇は退位するであろうとの噂も流れた。
     
     
    知識人たちは何故このような道徳的責任論を唱えるようになったのか? それは南原の言葉が端的に表しているとおり、「象徴としての天皇は、率先して國民の規範たり、理想」であることで、日本国民は「國民の中心としての皇室に尊崇してきた」ということで、近衛や皇族たちの退位論も同じだ。
    戦争に負けるという、あるべき君主としての振る舞いができなかった天皇が、「國民に対し道徳的、精神的な責任を」感じて退位すれば、国民はその姿に感銘し、「國民の規範たり、理想たる」天皇制により近づくこととなり、国民の象徴としての天皇像を強く印象づけることができる。そのために昭和天皇の道徳的責任論を強く唱えたのだろう。
     
    ところで、あなたの考えでは、昭和天皇は近衛の退位論には不機嫌/興味なしだったけど、敗戦後は退位する気になったかも知れない?、でも止めたのですか?
    木戸と同じように変節したということですか?(笑)
    で、あなたは、昭和天皇が戦争の責任を感じていたと思うの?、思わないの?

  2. 【1847832】 投稿者: 最後は「権威主義」ですか?  (ID:PwJPq3/G3gU) 投稿日時:2010年 09月 11日 09:24

    虎の威を借る狐、ここにみつけたり! 私より年長者なんでしょうが、情けないです。権威が言っている、文句あるか!という態度。どこの世界でもそういうのってありますけどね。でも、権威の言い分が後々否定されるとか、反証が出てくるなんてことはいくらでもありますしねえ・・・。

    私は、天皇自身は法的云々ではなく道徳的に責任を感じていらしたと思う。また、国内的には通用しても、「君主無答責」が国際的に通じなくなっている状況であることも当然理解されていたでしょう。マ元帥への責任発言は、そうした国際環境を意識したものではなかったのかと。その点からも政治的な状況にかんがみて、退位せざるを得ないと考えられたこともあると思う。ただ、ぶれがあったのは、やはりこの「道徳」というものが主観によるところが大きいものであるし、その時々の社会状況等によってその主観も変化しうるので、その点を模様眺めされていたのでは。天皇という存在が私人たりえず、その行動のいかんが、国家、国民にいかに影響をあたえうるかということも理解されていた。加えて占領下にあってはGHQの思惑にも斟酌しなくてはならない。であれば、個人としてかりに道徳的なものを感じておられても、「それはさておき」ということで所与の条件のなかで、退位論をめぐる姿勢を模索されていたと推測します。結局、退位されなかったのは、「私」の理由ではないと思いますよ。

    南原や弟宮や東久爾宮(←頭の良い人だとは思うが、個人的には、油断のならない眉に唾したい人物ですけど)の退位論は道徳論的なものでしょう、総じて。

    でも、なんだかなあと思いますね。南原にしても、天皇の道徳的責任を云々する前に、臣民として敗戦責任をどう感じ、臣下としてどうそれを陛下に詫びるのか、また一日本人としてどう自己批判するのか、そこらあたりをやらずに、天皇の退位とは、いやしくも東京帝大の総長として、私はいかがなものかと思いますね。この人こそ、責任感が欠如している。要するに、天皇のことを公にとやかく言うべき立場ではなかった!と思います。あえて、恥知らずとは言いませんけど。

  3. 【1847910】 投稿者: 見当外れ  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 11日 10:32

    > 虎の威を借る狐、ここにみつけたり!
     
    どこまでも頓珍漢なこと言っとるな。当時、天皇退位論など、どの立場の人間が主張できる?
    僕の親父や叔父らが「天皇に責任はある」と言っていたと言えば、納得するのか?
    昭和天皇は仁徳者だったと想像するよ。僕の祖父は戦前に近衛兵として皇居や赤坂御所で仕え、戦後も天皇皇后の写真を床の間に飾って敬愛していた。
    「あなたの親の話など、どうでもいい」と書いていたのは、君じゃなかったのか?

  4. 【1847915】 投稿者: 知ってるつもり  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 11日 10:37

    昭和天皇は退位しようにも、皇族にも天皇に即位する適任者がいなかったろう。
    君が書いたように、明治典範に退位規定がなかったからって問題じゃない。
     
    1946年のA級戦犯裁判の開始を前にして、昭和天皇がGHQの要請で、自身の戦犯免責のための弁明書として語られたのが昭和天皇「独白録」だが、この「独白録」採録の直前に、昭和天皇は当時高まっていた退位論を拒否する立場を明らかにしていた。
    「それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日のような苦境を味わわぬですむであろうが、秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢部にいた関係上、皇太子明仁親王を即位させても摂政には不向き。三笠宮は若くて経験に乏しいとの仰せ」(木下侍従次長の『側近日誌』―吉田裕『昭和天皇の戦後史』岩波新書)
     
    1948年11月に東京裁判の判決が下りたが、昭和天皇は訴追もされず責任を問われることはなかった。ウェッブ裁判長や主席検事キーナンは何としても昭和天皇を法廷に引きずり出そうと考えていたが、マッカーサーが日本占領政策に天皇を積極的に利用するために保護したアメリカの占領政策に阻まれて実現しなかった。
    かといって、ソ連・オーストラリアなど厳しい国際世論や国内の道徳的退位論の中で、昭和天皇が何も責任を取らずにいるのもおかしいという考えは、当時の知識者層だけでなく支配者層の中にも根強くあった。当時の首相芦田均は天皇退位やむなしと考えていたが、昭和天皇自身は以下の理由で退位を拒んだ。
    ・幼い明仁親王では天皇制が動揺する。
    ・摂政となるべき適任者も見当たらない。
    ・何よりもマッカーサーが退位には反対している。
     
    講和条約が発効して日本が独立することになり、昭和天皇の去就が注目された。当時改進党にいた若手代議士の中曽根康弘も天皇制擁護と国民感情の側面から天皇退位論を吉田首相にただしたが、吉田は「そういうことを言うのは非国民だと思うのであります」と受け付けなかったらしい。講和を期に昭和天皇が退位したら、既に国民から飽きられていた吉田も、国民や反吉田グループから政権交代を叫ばれただろうから。
    1952年5月3日の講和発効・憲法制定5周年記念式典での天皇の「お言葉」で、退位を明確に否定した。「…この時に当たり、身寡薄なれども,過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただおよばざることを恐れるのみであります。」と。
     
     
    以後昭和天皇は自らの一切の責任を認めることなく、この世を去った。 
    しかし、昭和天皇の「国民への謝罪詔書草稿」があったが、発布されることはなかったのは残念だと思う。(どうせ後で出てきちゃったんだから)
    文芸春秋03年7月号で、戦後新制度の初代宮内庁長官・田島道治の遺品資料の中から発見された田島の起草による昭和天皇裕仁の「国民への謝罪詔書草稿」全文が掲載された。
    「謝罪詔書草稿」(『』内は原文。それ以外は大意)。
    「朕は即位以来二十余年、祖先と国民のことを思って日夜勤めてきたが時の流れに逆らえず、列強と事を構えるにいたり、ついに悲惨な敗戦と今日の惨禍を招くに至った。死者とその遺族に思いを致すとき、真に心痛の念を禁じえない。また産業の不振、物価の高騰、衣食住の窮迫による人びとの塗炭の苦しみは、国家未曾有の災いであり、『静ニ之ヲ念フ時憂心灼(や)クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(は)ヅ』。身は宮中にあっても心は安からず、国民のことを思えば、その負荷の重さに途方にくれるばかりだ。今日の情勢を見るに『希有ノ世変ニ際会シ天下猶騒然タリ』。己を潔しとするあまり、国家百年の憂を忘れ、目先の安らかさを求めることは責任を取ることにはならない。『国運ノ再建、国民ノ康福ニ寄与』することで祖先と国民に謝罪したい。『全国民亦朕ノ意ヲ諒(りょう)トシ中外ノ形勢ヲ察シ同心協力各(おのおの)其天職ヲ盡(つく)シ以テ非常ノ時局ヲ克服シ国威ヲ恢弘(かいこう)センコトヲ庶畿(こいねが)フ」。
     
    天皇は敗戦の責を一身に負い、自己を責め苛み、国民に率直に謝罪しようとしている。しかし、世情騒然たる中で、あくまで自らの責任を果たす覚悟をしているので、国民諸君も協力して非常の時局を克服し、国威を回復せよ。つまり、自分は退位するわけにはいかないと。
    この謝罪詔書草稿が書かれたのは1948年の秋から冬で、東京裁判の判決・死刑執行の時期と平行しており、この時期にこそ、天皇の謝罪の気持ちと留位の決意を国民に伝え、ケジメをつけることが必要だと考えたのだろう。
     
    もし、天皇が国民に対しても責任を感じていなかったとしたら、天皇は日本国民の象徴であり、人格・道徳的な理想像として、尊崇や敬愛の念を持たれ得ないだろう。

     
    しかし、あなたが是認した輔弼という責任なき権限は、日本の政治と官僚制度に受け継がれ、昔も今も日本の無責任な風土そのままだね。あなた?が書いていたように、政治は見事に堕落している。

  5. 【1848249】 投稿者: 壁・・・  (ID:yedI50KvA1.) 投稿日時:2010年 09月 11日 18:24

    本当に「壁」を感じます。

    法律論と道徳論をごっちゃにして、しかも、どうも法律論よりも道徳論だと言いたげな?

    でも、道徳論って、何度もいいますが、水掛け論が関の山なんですよ。しかも、法治社会において法論を軽んじる言動は自己矛盾です。そもそも、あなたの発言自体、言論の自由が法的に保証されて可能になっているわけですから。

    まあ、昭和天皇が敗戦の道義的な責任を感じておられたのは間違いない。ご先祖様にもお詫びされているわけですし。
    でも、当時の国民がどれほど陛下に敗戦の責任を感じていますかねえ? 天皇との関係が君臣のものとして規定されていた以上、臣民すなわち国民無答責こそ、問題が大きいのでは? 臣民として皇威を辱めた国民は、決して戦争責任という点にいおいて無辜ではない。その自覚がどこまであるのか、はなはだ疑問です。

    ところで、
    >昭和天皇は退位しようにも、皇族にも天皇に即位する適任者がいなかったろう。
    >君が書いたように、明治典範に退位規定がなかったからって問題じゃない。

    質問ですが、適任者がいないという判断、何時誰がしたものですか? 史料的裏付けを示していただけますか?
    まさか、あなたの勝手な推論じゃないですよね。推論、推測はもういいです。これも所詮水掛け論にしかならないですから。

    あのーかりに適任者がいても、規定がないという事実があくまでも事実である以上、典範改正という手続きを取らない限り、
    退位は無理だったのです。で、退位を実現するための典範改正の議論はあったんですか? 推測ではなく、史料的にそれを示すものはあるのですか?

    歴史を論ずる以上、史学的な手続きは踏んでくださいね。時代小説家みたいな「空想」のは(あえて井沢元彦的とは言いません)、歴史認識をめぐる議論には邪魔でしかないんですから。

  6. 【1848508】 投稿者: 知ってるつもり  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 11日 23:28

    昭和天皇の戦争責任については、誰も彼も道義的責任だと言ってるじゃないか。(旧・社会党の土井たか子党首が「天皇に法的責任があると言っていたなら、彼女と論争して来なよ。彼女も法学者だろ。)
    僕は、太平洋戦争の開戦については、昭和天皇に責任はないと思うが、戦争の長期化と被害・犠牲の拡大については責任があると思う。
    ミッドウェー海戦の大敗で形勢逆転してからは負け続け、サイパン陥落で絶対国防権が破られ本土空襲が始まり、日本の敗戦は確定的になっても終戦の方向に踏み出さない東條首相が総辞職しても、高松宮や近衛元首相などの終戦和平交渉の勧めを拒み続けた。ポツダム宣言の受諾に至っては、ご聖断を早く下すべきだったと思う。
     
    > まあ、昭和天皇が敗戦の道義的な責任を感じておられたのは間違いない。ご先祖様にもお詫びされているわけですし。
     
    国民にも詫びておられたと思うが。
    昭和天皇本人が道義的責任を感じていても、君は「天皇に責任はない」と言う。そりゃ主観の問題だわなぁ。 僕は昭和天皇に共感するが、君は天皇と気が合いませんね。
     
    > でも、当時の国民がどれほど陛下に敗戦の責任を感じていますかねえ? 
     
    君が何度も書くことだが、これは何を意味しているの?
    天皇の臣下たる政府首脳が責任を取るのは分かるよ。
    太平洋戦争で日本の戦死者230万人と民間人死者80万人の犠牲を払って、国体・天皇制護持だけを条件に無条件降伏したわけだが、生き残った戦死者の家族や日本人が、天皇に対して敗戦した責任を感じなければならないってこと?
    テレビで、終戦時に皇居前で土下座していた人達の映像がよく流れますが、(やらせ映像でなければ)当時の国民の意識だったのではないの? 日本人が「一億総懺悔」したのではダメなの?
    戦後、天皇の下で国民はまた一丸となって日本の復興に努力したんじゃないの?
    う~ん、これは僕の常識を超えるので、誰か他の人に尋ねて下さい。
     
    では、どうすれば良かったのですか?
    日本は米国にあくまで徹底抗戦して本土決戦・一億玉砕することが天皇への忠孝だったということ? そうしていたら、原爆を何個も落とされて、天皇も日本人もほとんどいなくなっていたハズだが。
     
     
    > 質問ですが、皇位適任者がいないという判断、何時誰がしたものですか? 史料的裏付けを示していただけますか?

    木下侍従次長の『側近日誌』(吉田裕『昭和天皇の戦後史』岩波新書)から、天皇が退位は難しいとする発言を引用したが、自分で読んで下さい。
    現天皇の明仁親王(1934年・昭和9年生まれ)は終戦当時まだ11歳ですが、即位してやっていけるのですか? 近衛元首相の退位論は高松宮が摂政になることだったが、昭和天皇は好まなかったかな?
    僕が「天皇は日本が占領から独立後にでも退位すべきだった」とした場合で、明仁親王はやっと20歳前後です。
     
    NHKアーカイブ「秘録・高松宮日記の昭和史」H8/6/23放送
    http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/067d64a4a1b9204d2783e88837f4e8d6
    昭和20年1月26日 京都近衛文麿の別邸陽明文庫で内談したが、内容は不明。
    前日、近衛文麿は米内光政、岡田啓介らと、退位した天皇を京都に住まわせることを協議した。
    連合軍が陛下の責任を追及した時は、先例に倣い陛下を仁和寺にお連れし、出家を願ってはいかがかと考える。裕仁法皇として迎える計画だった。一年前には高松宮は「ご退位は歴史にも度々あることで、お上がそのお気持ちならすぐ出来ると思う」と言っていた。

  7. 【1849274】 投稿者: ?  (ID:w8/6C7olpKE) 投稿日時:2010年 09月 12日 21:26

    皇室典範の改定に拘りますね。天皇自ら退位の意思があり、周囲の皇族も望んでいれば、退位規定の改正は可能ではないですか? 帝国議会の議決は要せず、天皇だけが改正できたのでは?
      
    旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範第62条)、この手続きに帝国議会の協賛又は議決は要しないとされた(大日本帝国憲法第74条)。これは、現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義の表れといってよい。
     
    旧皇室典範第六十二条は、「将来此の典範の条項を改正し又は増補すべき必要あるに当ては皇族会議及枢密顧問に諮詢して之を勅定すべし」と規定していた。
    明治憲法第七十四条は、「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず」と規定していた。明治憲法第七十五条は、「憲法及皇室典範は摂政を置くの間之を変更することを得ず」と定めていた。
    伊藤博文著「憲法義解」の75条の解説
    恭て按ずるに、摂政を置くは国の変局にして其の常に非ざるなり。故に摂政は統治権を行うこと天皇に異ならずと雖、憲法及皇室典範の何等の変更も之を摂政の断定に任ぜざるは、国家及皇室に於ける根本条則の至重なること固より仮摂の位置の上に在り、而して天皇の外何人も改正の大事を行うこと能わざるなり。
     
     
    また、東京裁判で、岡田啓介(元首相・海軍大臣)は、天皇や重臣の多くが太平洋戦争の開戦に反対であったことを強調しながら、彼らが陸軍と正面衝突までして阻止しなかった理由についても説明し、もし陸軍との正面衝突になれば、陸軍が天皇に退位を強要して全権を掌握する可能性があったとしている。また、荒木貞夫陸軍大将が陸相時代に天皇を退位させ、〝ヤング・プリンス〟を即位させる計画をもっていたとも供述している。

  8. 【1859083】 投稿者: そこまで言って委員会  (ID:60sBX80SH1g) 投稿日時:2010年 09月 22日 20:22

    >僕は、太平洋戦争の開戦については、昭和天皇に責任はないと思うが、戦争の長期化と被害・犠牲の拡大については責任があると思う。


    被害・犠牲の拡大については大きな責任があるでしょう。
    騙されて、爆弾つんだ戦闘機や潜水艦に詰められて、殺された若者は一杯いるからね。
    嫌だといえば、「家族・親戚一同全員非国民のレッテルを貼るぞ」という脅しもあった時代だ。


    今の時代もアルカイダで薬漬けにされたり、洗脳されて人間爆弾にされる少年少女がいるけど、昔の日本も同じことやってたんだよね。


    時の権力者は極悪非道の犯罪者集団だったということでしょう。
    今のオサマビンラディンと同じで、信者からみたら英雄だけど、客観的に見れば、どうだかね。

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