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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4212060】 投稿者: イワサキ  (ID:cUn7wfH1LWk) 投稿日時:2016年 08月 13日 19:07

    冷静にかんがえるとさん

    覚えててくれたんだ。大手町の時空を貫く空間
    将門塚は今でもたまに通りますが、高層ビルの一画で雰囲気が違うよね
    すれ違ってるかもしれません。
    栄転が決まったらカエルの頭を撫で無事を祈願しに行きますよ。

    古代史は最近で、元は戦国城マニア、妻にはキャスラーって言われてました。
    筑紫の大野城は大宰府の周りの小山、平地に水城をつくり連動させた水城と言っても防塁(防波堤)、防波堤で向かい撃ち、山(大野城)から駆け下りて側面をつく戦略かな。実際この防御システムは元寇の時に再構築されたので600年は
    抑止力になったかもしれない。(一度も活用されず)
    水城だから水を引き入れ堤防を決壊させる作戦もあったかもしれない。
    九州邪馬台国説では、大宰府の真下に邪馬台国があったとの論説もあったような
    天穂日命の子孫、菅原道真が好んだ梅、現在も太宰府天満宮の名物、梅が枝餅
    これもすべて懐かしい思い出である。

  2. 【4212111】 投稿者: イワサキ  (ID:cUn7wfH1LWk) 投稿日時:2016年 08月 13日 20:14

    前スレに書いたんだが、神戸に三泊して一日単独行動で
    生田神社(後部生田の森は源平合戦時の平家の本陣)
    花隈城跡(荒木村重が織田信長に謀反を起こし最後に逃げ込んだ城)
    湊川神社(楠木正成祭神、自刃の地)
    明石城
    五色塚古墳に行ってきました。

    いい意味期待を大きく裏切ってびっくりしたのが、神戸垂水の五色塚古墳です。
    播磨で最大の前方後円墳(194M)であるが、きっちり石が敷かれ整備されていた。前方後円墳の中にも立ち入ることができ(管理事務所で几帳する)
    古墳の頂上からの眺めは眼下に明石海峡とすぐ目の前の淡路島、明石大橋を展望しまさに絶景であった。神戸の住宅街の中で保存されていることが、奇跡かもしれない。

    古墳名の由来は淡路島(五色浜から石材が運ばれたから、敷き詰められた石が光の加減で五色に光るなど)らしいが、三段敷の石の二段目以降は淡路島の石の成分と一致したそうである。
    (伝承と一致)
    神功皇后の夫、仲哀天皇の偽の陵との伝承もあり。九州の地で没した仲哀天皇
    記紀では新羅に攻め入ることを拒否しある晩隣の部屋で亡くなっていた
    その際神功皇后のお腹には、応神天皇を身籠っていたとの記載あり。
    (王朝交代、入れ替わっているとの説あり)

    畿内で仲哀天皇王子、籠坂王 忍熊王の兄弟が謀反を起こし、播磨明石に石の陣を築いた説話、または父、仲哀天皇の偽の陵を築き陣築いた説話あり、
    これはこの五色塚古墳のことだと思う。時代が下り壬申の乱の際、近江朝が
    故天智天皇の陵を築くために人夫を集めた報にふれ、大海人皇子は近江朝が兵を集めていると判断し、吉野から伊勢に逃れ挙兵した故事あり。
    当時は陵造営の人集めはすなわち挙兵とみなされていた。
    五色塚古墳の頂上からの見晴らしは明石海峡から淡路島までの3.6KMを見渡せる要衝地ここで九州から戻ってくる神功皇后、武内宿祢を迎え撃とうとした可能性が高い。しかしながら、神功皇后一団は狭い明石海峡は通らず、淡路島を迂回し鳴門海峡を通り、紀伊に入り、籠坂王 忍熊王の兄弟を打ち破った。

    紀伊に入り打ち破るのは、神武東征とそっくりなのだが、
    播磨の首長は籠坂王 忍熊王の兄弟を支援したと思われる、
    時代が下り23代顕宗天皇24代仁賢天皇の兄弟も父が雄略天皇に殺され
    播磨明石近辺に身を潜めていたことから播磨は大王一族と関係深い地域であることがうかがえる(神戸西区に両天皇が祭神の顕宗仁賢神社あり)

    神戸の方々は遠足などで行くんだろうが、伝仁徳天皇陵などと違い中に入ることができ石が敷き詰められていた様はいにしえの世界にタイムスリップしたかのようであった。

  3. 【4212116】 投稿者: お聞きします。  (ID:x4SUh3VLnE2) 投稿日時:2016年 08月 13日 20:22

    新規スレッドがあってよかった!
    もしかしたら、私と二俣川さんとのやり取りが原因かと思い、何とおわびしたらよいか思っておりました。でももしそうなら、本当に申し訳ありません。
    また、皆さんのお話を拝見して勉強させて頂きます。
    私、勘違いしてたのですが、お二方は歴史を専門になされていると思っておりました。でも、冷静に考えるとさんのニュース版のスレッド拝見して、あら、ご専門は何かしら? とちょっと驚いてしまいました。あ、変な意味じゃなく、単純にスゴイなってことです。
    失礼しましました。

  4. 【4212121】 投稿者: イワサキ  (ID:cUn7wfH1LWk) 投稿日時:2016年 08月 13日 20:33

    お聞きしますさん

    ドンマイでーす。貴方に一発目に長文書いたの削除されてびっくりしましたよ。
    ちなみに、二人は歴史専門ではなく歴史が好きなのです。笑
    本人全く気にしてないと思いますが
    ○冷静にかんがえると
    ×冷静に考えると
    間違えている人多いですが。笑

  5. 【4212519】 投稿者: イワサキ  (ID:cUn7wfH1LWk) 投稿日時:2016年 08月 14日 10:33

    他のスレッドに書いたものが削除されたので、新たに視点を加えて書き込みたい

    神社の屋根に千木、鰹木というものがあるのはご存知だろうか?
    大相撲土俵上にも、千木、鰹木のある屋根があります。
    御柱(巨木文化)を引き継ぐと思われるが、四本の巨木を立てその仕切られた
    空間が神聖な場所(祭祀の場所、死後の神聖な空間)として区切られた。
    この柱に壁をつけ屋根(当然、千木、鰹木のある屋根)をのせるこれが社の原型だと推察する。支配者の死後、殯(もがり)も行った。殯とは、死後に火葬土葬などせず、3年間遺体を安置し、喪に服すことである。(650年皇極天皇代に禁止)
    千木、鰹木は、男神、女神により形状が違う
    千木内削り(地面と水平の切り口)鰹木の本数偶数、女神
    千木外削り(地面と垂直の切り口)鰹木の本数奇数、男神
    神社の屋根を見ただけで、初めて来た神社でも、女神、男神の区別がつくことになる。伊勢神宮内宮外宮とも天照大神、豊受大神と女神なのに外宮は千木外削り、鰹木9本で本当は男神なのではと言われてる所以である。
    大相撲はスポーツとなっているが、元は古事記日本書紀にも記された神事となる。千木、鰹木の屋根のしたの土俵(神聖な空間)相撲の神様は野見宿禰(菅原道真租となる)大相撲の屋根は千木(外削り)鰹木5本となる。

    古来、日本全国に船を引き上げ丘を越え山を越えた地名がある。
    舩越、曳舟、入船、など多数。船を大人数でわっしょい叫びながら綱などで引っ張り最短コースで海にむかった、名残は祭りでの山車(だし)である。長野正孝氏
    この際平地は、船の下に小さな丸太を入れ転がし引っ張ったと推察する。
    丘に引き上げられた船は枕木を何本か置き、そのうえに置かれているはず。

    この船のしたに置かれてる枕木こそが、神社の屋根にある鰹木なのではないか?
    古来、出雲国譲りの際の天の鳥船伝説、饒速日命の天の磐船伝説など船を神格化し、天からやってきたとの伝承が多い。
    神社の屋根、千木、鰹木は空からやってくる祭神の目印になるようにしたのではないか?アステカの地上絵のような空から立体的にみる宗教観念を古代人は持ち合わせていたと推論したい。

    神社の祭神たちが自分を祀る社を間違いないような宗教的な工夫であろう。
    旧暦10月出雲以外は神無月、全国の神様が出雲に集まる(出雲だけ神有月という)神様が自分の社を間違っては困るのである。

    最後に歴史スレッドで書いた、人類学者たちが、古来の船をつくり海洋縄文人として台湾から与那国島に横断する実験がスタートした、船を見たが、草船である。この草船が、出雲大社にある巨大なしめ縄に似ていることを付言しておこう。

  6. 【4216553】 投稿者: イワサキ  (ID:cUn7wfH1LWk) 投稿日時:2016年 08月 17日 20:53

    古来、縄文の人々は、船に神秘性を感じていたと思われるが
    本日の読売新聞には、熊本御船川の精霊流し(熊本地震)の慰霊船の写真がでている。やはり船は現世と死後の世界をつなぎ、見果てぬ地より新たな物を運び、そして新たな地に連れて行ってくれる神秘的なものだったと思う。
    全国の祭りで多くの人に曳かれる山車(だし)、この慰霊船なども名残であろう。

    御柱祭などの巨木を敬う風習も未だに残っているが、棺も実は古来の船と関係があるのではないかと考え調べてみた。
    木でできた棺(木棺)、古墳時代の木簡(割竹形木棺)は直径1M前後の丸木を縦に割り、内部をくりぬいて棺をつくり、大人一人の遺骸を収容できるようにした。舟形木棺は棺の長さが5Mから8Mで古墳に埋葬した。

    これ、歴史スレッドで散々書いた、丸木舟の作り方と全く一緒なんだよな。
    古来神様を一柱、二柱と数えたことを考えると、巨木から発展した、御柱祭、
    神社(社)、丸木舟、船、棺(木棺)すべてわれらが先祖縄文人の名残だ思われる。
    自然を愛し、山、川、森を大事にしてきた先祖の情感がなんとも誇らしく
    素晴らしいと感じた次第である。

  7. 【4218027】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:IXfbtDt7e4E) 投稿日時:2016年 08月 19日 07:22

    >この柱に壁をつけ屋根(当然、千木、鰹木のある屋根)をのせるこれが社の原型だと推察する。

    神社建築様式はいくつかに分類されるが、神社の社殿も世界に現存する神殿に遜色ない荘厳な趣がほとんどである。聖書学の碩学、アンドレ・シュラキは世界5大神殿としてエルサレム、マチュ・ピチュ、ギリシャのデルフォイ、北京の紫禁城と共に伊勢神宮を挙げているが、今も活きている信仰が執り行われているのは我が伊勢神宮だけ。もちろん、富士山、三輪山など山それ自体を神体山として古代信仰を伝承する神社は社殿そのものを有さないが、6世紀ごろより神仏習合の影響からか寺院建築による社殿を至る所で見ることができる。
    これらの社殿にも各々違いを見ることができるが、その一つが千木と鰹木の飾りの存在。これはどこの社殿でも見ることができるが、簡略化されていることも多い。もう一つ、伊勢神宮の社殿は現在みるような多くの神社のそれとは違い完全な掘建て式の高床建築であり、また多くの柱が床を支え、その上に板を組み合わせて壁を造る板倉形式を特徴とする。一般に、このような唯一神明造りにおいて柱は腐食しやすいので、一定期間ごとに造替(建て替え)が必要となる。それ故寺院建築のほとんどが礎石式に(最古の神社建築といわれる京都宇治上神社も例外ではなく)移行しているが、伊勢神宮だけはこの掘建て式を継承しており、仏教寺院と一線を画している。出雲大社にも平安時代まで奈良大仏と同じ高さほどの社殿があったとする遺構が発見され話題となったが、その躯体が現存していないことを鑑みると、おそらく多くの柱を並べた掘建て式建物であり、後に自然倒壊したと見るのが自然だろう。これらが寺院の礎石式を踏襲せず掘建て式にこだわったことに何らかの思想的意味があると考えるべきではないか。

    わたしはここに、累々と古代史論者によって述べられている、古代日本人の「永遠観」というものを同様に垣間見る。もちろん書紀神代巻に天照大神の神勅として有名な「葦原の千五百秋瑞穂の国」とあるように、「千五百秋」という語が、観念と言えども永遠性への志向を有していたことは明らかである。だが問題なのはその観念の構造それ自体ではないかと思う。つまり日本人は強固不変の単一物によって永遠性が維持されるとか、表徴され得るという発想は持たなかった。形あるものやがて滅び、生死もまたしかり。その現実を直視したうえで新生と継承を繰り返し永遠成就に至る。古事記の国生み神話、天地開闢で伊弉諾命が「日々1000の命を滅する」としたのに対して、伊邪那岐命が「それでは日々1500の命を生み出す」とした説話があるが、この思想背景も同じ文脈で捉えられる。
    柱は朽ちる。だがそれは消滅を意味するのではなく新生を繰り返すことによってあらたに生まれ変わり、その支えるものは神域で永遠に変わることがない。神道を律する常世思想を継承しているのが伊勢神宮であり、出雲大社であった。

    これらの思想を維持・継承していくことが時間的民主主義、すなわち先人らの想いを忖度することであり、まさに伝統というものである。我が国の皇室制度も同様、この伝統を我々の代で壊すことなど出来るはずもなく(統制的理念)、今後予定される譲位、女系問題に関わる有識者会議発足にあたり、まずこのことを念頭に議論が進捗することを、国民の一人として期待する。

  8. 【4218760】 投稿者: 紙つぶて  (ID:efOwQFZhGzw) 投稿日時:2016年 08月 19日 20:31

    お二人の書き込みには、日本人魂を揺さぶるものがあります。

    とり急ぎレスさせていただきました。

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