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【2338287】「女性宮家」創設へ

投稿者: ひまわり   (ID:iDWRhTewl0o) 投稿日時:2011年 11月 25日 14:42

宮内庁・羽毛田長官、現行制度では皇族の数が少なくなるとの懸念 藤村官房長官明かす
フジテレビ系(FNN) 11月25日(金)12時2分配信
藤村官房長官は記者会見で、宮内庁の羽毛田長官が、10月5日、野田首相と面会した際、女性皇族が一般の人と結婚すると、皇族の身分を離れる現行の皇室典範制度のもとでは、今後、皇族の数が少なくなるとの懸念を伝えていたことを明らかにした。
藤村官房長官は「現行の皇室典範の制度のもとでは、女性皇族の方は、婚姻によって皇室を離れられる制度で、緊急性の高い課題があるとの認識が(羽毛田宮内庁長官から)示された」と述べた。
そのうえで藤村長官は、皇太子さま、秋篠宮さまの次の世代の皇位継承資格者が、悠仁さまお1人であることを指摘し、安定的な皇位継承を確保する意味では、将来の不安が解消されているわけではないと述べた。
また、女性皇族が結婚後も皇室に残れるよう皇室典範を改正し、「女性宮家」を創設する可能性については、具体的な制度創設や改正などを検討しているということではないと述べた。



とりあえず、の一歩です。
皇室の弥栄を願うものとして、宮内庁には「懸念」ではなく早急な「改正」を政府に求めてほしいところなのですが・・・。
もし話が進んでも、今度はこけないでほしいな~。

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  1. 【3049775】 投稿者: ひまわり  (ID:F.NuWPIwbnA) 投稿日時:2013年 07月 22日 22:59

    八重の桜、昨晩はウルウルしました~。
    「会津の心」を見ることが出来ましたね。
    砲弾を浴びて、ボロボロになりながらも健在だった天守閣は、会津の心の象徴だったんですね。
    たとえ、いくさに負けても「会津の心」は失われていないんです。
    鶴ヶ城の天守閣はその象徴ですね、そして力強さを感じさせる描写だったと思います。

    昨晩は「会津の心」の力強さはのシーンをいっぱい見ることが出来ました。

     官軍を前に、大蔵たちや会津藩士達は、会津の唄を唄います。
    「やめろ!」と言われても歌い続けました。

     会津の女たちは、城を官軍に明け渡す前に、城の中をきれいに掃除します。「これが会津のおなごの誇りだ」と言って。

     時尾は斎藤に「会津はゆっくりとやってくる春が美しい」と話します。 砲弾が山のように飛んで来る中で。

    たとえ、いくさに負けて、城や町がボロボロになっても「会津の心」が失われない限り、会津は負けていないのですね。

  2. 【3050042】 投稿者: 二俣川  (ID:W8J8lwRgv16) 投稿日時:2013年 07月 23日 07:38

    >「朝臣」、将軍は天皇の臣下なのですから、これはあたりまえのことですね。



    違うね。

    「近世における朝廷・天皇は、幕藩制支配の正当性の源泉として権力機構の一部に位置づけられ」ていたとの意味をご再考願いたい。
    ここでの論点は、だれが実質的な支配者(統治者)であったのかということである。

    武力を背景として成立した経緯ある徳川幕府において、自らを「公儀」として位置づけ、その正当性を全国に浸透確認させていくことは喫緊の課題であった。
    そのときに、古代律令制以来の存在であった天皇が利用された。当時の朝廷は、皇室・公家の所領あわせても10万石程度であり、皇室領のみでは「1705年の加増時にようやく3万石に達したに過ぎなかった『教養の日本史』東京大学出版会」。
    また、「武家の官位が朝廷の定員の外に置かれたことは、幕府が朝廷の官位叙任権に制限を加え、武家の任官・叙位の実質的権限を掌握したことを意味した。『前掲書』」。

    このように、当時の朝廷は徳川幕府の都合によってたまたま陽を当てられた存在に過ぎなく、(形式上はともかく)実質的・経済的に何ら実力をもつ存在ではありえなかったのである。
    その意味で、朝廷・天皇はあくまで徳川幕府の権力機構の一部でしかなかった。けっして「臣下」ではない。

    むしろ、1853年にペリーが来航し、驚愕した幕府がこれまでの慣例を破って京都の朝廷に報告し、そのことがきっかけとなりようやく朝廷の発言権が増した結果となったのが事実である。
    これが、その後の薩長による天皇の政治利用につながっていった。「錦の御旗」であろうか。

    以上要するに、徳川時代の朝廷は実質的に何ら権限はなく、将軍の意のままに従う他のない飾りに過ぎなかったのである。これが、学会の通説的見解である。

  3. 【3050157】 投稿者: ふふ・・・  (ID:TfbeHJuF3rE) 投稿日時:2013年 07月 23日 09:26

    >武力を背景として成立した経緯ある徳川幕府において、自らを「公儀」として位置づけ、その正当性を全国に浸透確認させていくことは喫緊の課題であった。

    当時のことはよくわかりませんが、当時の徳川の武力をもってすれば天皇を廃位させ、家康(徳川家当主)自らが国王になることも可能だったのではないですか?(織田信長には「その気」があったかのように語られていますが)
    それなのに何故、徳川幕府は自らを「公儀」として位置づけなければならなかったのですか?
    徳川は、天皇を利用することで武力ではないどんな力を手に入れようとしたのですか?
    それこそが、徳川の武力をもってしても手に入れることの出来ない「民衆を統べる力」であり「権威」であったのではないですか?

  4. 【3050816】 投稿者: ざまぁ  (ID:wO1eT69Rp0.) 投稿日時:2013年 07月 23日 20:27

    イギリスの継承者は男児♪

  5. 【3050847】 投稿者: ひまわり  (ID:F.NuWPIwbnA) 投稿日時:2013年 07月 23日 20:49

    二俣川様

    >天皇が利用された。
    >このように、当時の朝廷は徳川幕府の都合によってたまたま陽を当てられた存在に過ぎなく、



    なぜ、徳川は「利用」したのですか?
    ふふ・・・様が、先のレスでおっしゃったことが答えなのではないですか?

    「徳川の武力をもってしても手に入れることの出来ない「民衆を統べる力」であり「権威」であったのではないですか?」(ふふ・・・様)

    それ以外に「利用」された根拠があるならば教えてください。

    何度も申し上げますが、当時の皇室に実質的な権限はありませんでした。
    しかし、形式だけでも徳川は皇室を重んじたのです。
    その意味をお考え下さい。

    どうして形式のみでも家康は「朝臣」と名乗っていたのか?
    そうして天皇上皇が死去死去すると「鳴物停止令」が全国にだされたのか?
    暦の元号の改元理由はどのように説明がつくのでしょうか?

    「将軍の意のままに従う他のない飾り」にこのような定めがどうして続けられたのでしょうか?
    あなたさまは「飾り」とおっしゃるが、それは言葉が間違っていると前にも申し上げました。
    それこそが徳川が持ち合わせていない、欲しくてたまらない「権威」なのです。

  6. 【3051227】 投稿者: 二俣川  (ID:W8J8lwRgv16) 投稿日時:2013年 07月 24日 07:56

    >それなのに何故、徳川幕府は自らを「公儀」として位置づけなければならなかったのですか?


    申すまでもない。権力基盤が脆弱だったからだ。当時は、衰えたとはいえ、西国には毛利や島津といった雄藩が健在であった。
    それゆえ、幕府の正当性を訴えるために徳川は腐心した。「源氏の子孫」との虚偽を公言したのもその表れである。朱子学を奨励し、体制の合理化も図った。
    天皇を利用したのもその延長線上にある。
    ゆえに歴史家は、当時の天皇や朝廷は、「権力機構の一部に位置づけられ」ていたと述べているのである。そこには、あなた方が期待する「(幕府に対する)権威」などは存在しない。
    換言すれば、徳川は利用できる要素はすべて利用したということだ。

    それは、その後の幕末における薩長土肥の反乱軍やその後の明治政府が、その革命勢力としての本質を正当化するために歴史的に長州となじみであった天皇や朝廷を表看板としたことに通じる。
    むろん、伊藤博文のような低い階級出身者のものにとって、朝廷のあの若造を君主として表舞台に祭り上げる芸当は不可欠であったのであろう。伊藤は欧米列強の状況も参考にしたはずだ。
    このことは、旧ソ連軍朝鮮人部隊の一将校に過ぎなかった青年を「金日成」として朝鮮に送り込みカリスマ化した、ソ連のあの統治のやり方と同じである。そして、彼らも「抗日パルチザン伝説」を
    でっち上げた。

    伊藤ら明治の元勲らが創出した「皇国史観教」も同じ発想である。これにより、元勲らは西南戦争や自由民権運動として盛り上がった反政府運動の鎮圧化をもくろんだ。
    そして、同時に行った朝鮮や中国に対する国権主義的な強硬外交路線とワンセットにして、元勲らは国民からの不満をそらせることに成功したのである。

  7. 【3051234】 投稿者: 二俣川  (ID:W8J8lwRgv16) 投稿日時:2013年 07月 24日 08:05

    ☓ 鎮圧化
    〇 鎮静化


    なお、当時の多くの国民が「天皇って何?」という認識であったことは間違いない。
    それゆえ、明治政府は皇国史観教を学校教育で子どもたちに教え込む必要があったのである。
    したがって、あなた方が信じたい天皇の「権威」なるものは、実は作為的に作り上げられたものであった。

  8. 【3051943】 投稿者: ひまわり  (ID:F.NuWPIwbnA) 投稿日時:2013年 07月 24日 21:00

    え~い、この石頭め!(-_-”)


    >申すまでもない。権力基盤が脆弱だったからだ。当時は、衰えたとはいえ、西国には毛利や島津といった雄藩が健在であった。
    それゆえ、幕府の正当性を訴えるために徳川は腐心した。「源氏の子孫」との虚偽を公言したのもその表れである。朱子学を奨励し、体制の合理化も図った。
    天皇を利用したのもその延長線上にある。
    ゆえに歴史家は、当時の天皇や朝廷は、「権力機構の一部に位置づけられ」ていたと述べているのである。そこには、あなた方が期待する「(幕府に対する)権威」などは存在しない。
    換言すれば、徳川は利用できる要素はすべて利用したということだ。


    あなたが書いておられることは、
    結局は、徳川が天皇を利用した「理由」は、天皇には権威があり、それが必要だったと言っているのと同じではないですか!
    権力のない天皇を「権力機構の一部に位置づけ」する理由は何なんですか?
    幕府の正当性を訴えるために、どうして権力もない天皇が必要だったのか?

    二俣川様はどうも
     民衆は天皇を知らなかった
     天皇は権威がない
    という話で、天皇を否定したくてならないのでしょうか?

    人間は、好むと好まざるとにかかわらずに何時の時代も権威から解放されることはないと思います。
    人間の生活だけに権威は必ず存在すると思います。
    国や時代によって形は違いますが、わが日本国は今も昔も天皇という権威が存在しているのですよ。

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