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【3728491】憲法改正は必要か?

投稿者: 5月3日   (ID:P4kP71u71gc) 投稿日時:2015年 05月 03日 08:19

今日は憲法記念日。手続き上は国会が衆参両院の三分の二以上で発議できる。

憲法施行後70年近く経って見直し論が強くなってきた。特に前文の自らの生存を他者に委ねるというあたりは絶対に書き直す必要がある。

敗戦当時の丸裸をずっと維持させようというGHQの日本弱体化政策がここまで続くとは先人たちも思わなかっただろう。

18歳以上が国民投票に行ける。これからは子供たちへの憲法教育もしっかりやらねばならない。現行憲法は占領軍が押し付けた憲法であることをしっかり教えよう。

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  1. 【4119321】 投稿者: お花畑さんへ  (ID:JukprfhC0rM) 投稿日時:2016年 05月 21日 10:38

    日本のマスコミではほとんど報道されないが中国では2010年7月1日に国防動員法が制定された。同法は、1997年3月に施行された国防法を補完するものである。中国が有事の際に「全国民が祖国を防衛し侵略に抵抗する」ため、金融機関、陸・海・空の交通輸送手段、港湾施設、報道やインターネット、郵便、建設、水利、民生用核関連施設、医療、食糧、貿易など、あらゆる分野を統制下に置き、これら物的・人的資源を徴用できるとしている。
    実際には、すでに国防法を補完する形で国防交通条例、民用船舶動員法、交通動員法などの条例や法律が作られている。たとえば、民用船舶の動員で言えば、中国軍は90年に瀋陽軍区で、初めて旅客船・貨物船を使用した海上輸送訓練を行なっている。中国は82年に英国がアルゼンチンとのフォークランド紛争で商船などを動員し、兵員の輸送と上陸作戦に活用したことに早くから着目し、民用船舶の動員を軽視できない第2の海軍と位置づけてきた。そのため民用船舶動員法の制定後は、1年のなかで1カ月間は、民用船舶を動員・徴用し、訓練・演習を実施している。中国の軍事力を評価する場合、民間資産(民用船舶等の輸送力)も加味して判断する必要性があるのである(『海国防衛ジャーナル』2011年1月18日号)。一方、「有事」の規定が曖昧である国防動員法について、国防動員委員会総合弁公室主任・白自興少将(当時)は、国防動員法が発令された場合、「日本を含めた外資や合弁会社も法律の適用対象になる」と明言し、国防動員法の条項にある「民間企業には、戦略物資の準備と徴用、軍関連物資の研究と生産に対する義務と責任がある」に該当するとしている。
    国防動員法には「国防の義務を履行せず、また拒否する者は、罰金または、刑事責任に問われる」とう条項がある。この条項も日本を含めた外資企業に適用されるのだろうか。適用されれば、もし中国が日本に対する攻撃を仕掛け、国防動員法が発令された場合、中国に協力する義務が生じることになる。日本企業は、中国に人質にされたも同然となる。さらに厄介なのが「国防義務の対象者は、18歳から60歳の男性と18歳から55歳の女性で、中国国外に住む、中国人も対象となる」という条項だ。現在、日本には68万の中国人が住み、年間約100万人(香港を合わせると約150万人)の中国人が観光目的で日本に来ている。
    これらの中国人に国防動員法が発令された場合には、その瞬間から人民解放軍の兵士として日本国内で一斉に蜂起することが予想される。中国の政治体制から考えれば当然起こりうる行動である。2008年の北京五輪の際に、長野市で行なわれた聖火リレーの沿道に集まった中国人の集団行動(暴動)を思い起こせば、その恐ろしさがわかるはずである。国防動員法が制定された同じ日に、日本では、これまで富裕層に限っていた中国人の個人観光客向けの査証(ビザ)の発給要件が中間層にまで緩和された。年収ベースでは従来の年収25万元(約340万円)程度から、10万元程度まで引き下げられた。要件を満たす人口は世帯ベースで従来の10倍に当たる1,600万人になる計算だ。さらに11年7月1日からは、沖縄を訪れる中国人個人観光客に対して、マルチビザ(有効期限内であれば、何度でも出入りできる査証)が発給されるようになった。日本政府が観光を目的で入国する外国人に対してマルチビザを発給するのは中国が初である。ビザの有効期限は3年間で、ビザ保有者はこの間に何度でも日本を訪問することができる。1回の訪問につき最長90日まで日本に滞在可能で、中国人訪日客の個人観光ビザによる最大日数は、これまでの15日から大幅に伸びることになった。マルチビザ発給は、第1回目は沖縄から入国することが条件となっているが、2回目以降は、日本のどこからでも入国することが可能となっている。また、観光に限らず、親族・友人訪問や遊学などさまざまな活動も、日本訪問の目的として認められることになった。

  2. 【4120492】 投稿者: 二俣川  (ID:yWEwo/5..Dw) 投稿日時:2016年 05月 22日 09:44

    >紙つぶてさん

    あなたまでが、確たる証拠もなく危険な憶測を述べてもらっては困る。
    しかも、それは「敵の出方論」とは異なるものだ。

    少なくとも、私や(デマで中傷される)日本共産党は暴力革命など露ほどにも考えてはいない。
    わが国における社会主義革命とは、民主的に議会の多数派を得た後、国民の理解と承認を得つつ進めなければならないものだ。

    それ以前の喫緊の課題として、先の沖縄での悲劇を惹起する屈辱的な日米安保条約の解消等「対米従属」の是正、アベ政権の弱肉強食の新自由主義路線による経済的・社会的格差の修正がある。

    それらは、社会主義者よりも前に、まず資本制社会を是とする良心的保守層自らが率先して声を上げるべき問題のはずである。
    健全な自由主義の発展を望むのであれば、アベ政権による財界偏重・富裕層擁護の偏狭な政策の変更をまず自身で求めるべきである。

    放置すれば、あの大阪の小ヒトラーの如き極端な確信的アウトロー政治屋の跳梁跋扈を許すだけだ。
    トランプに快哉する米国民らの姿は、我われへの警鐘である。

  3. 【4120537】 投稿者: 紙つぶて  (ID:xdaYbXQY2aU) 投稿日時:2016年 05月 22日 10:24

    二俣川さん、

    あなたが「暴力革命」を望んでいないことは十分に承知しています。万一、日本が、世界が社会主義国家となろうとも、官僚的な統制社会ができあがったなら、頑固で不器用な二俣川さんはやはり戦っているだろうと思いますので。

    日本共産党に関しては、ブラック企業の悪行をあぶり出し、社会問題として提起したことは評価に値すると思いますが(こういうときは、いい仕事をするんですよ)、現実味に欠ける政策案の下で理想を追求するがゆえの「怖さ」を感じてしまいます。イデオロギーの違いといえば、そうなのですが。

  4. 【4122469】 投稿者: 紙つぶて  (ID:vI3xAzOyVQA) 投稿日時:2016年 05月 23日 21:08

    連合赤軍あさま山荘事件

    【事件概要】

     大菩薩峠事件や、「よど号」ハイジャック事件などで幹部の多くを失った赤軍派はもがきながら抵抗していた。やがてリーダーに森恒夫が祭り上げられ、山岳アジトにおいて軍事訓練が行なわれ、過激派・京浜安保共闘と合同し、「連合赤軍」と名乗るようになった。だが、山岳アジトにも警察の捜査の手が伸び、相次いでメンバーが逮捕された。
     72年2月19日、最後まで逃げ続けていた5人が、軽井沢の別荘地内にある河合楽器保養所「あさま山荘」に立てこもった。 →SIDE-B「連合赤軍リンチ事件」

    「連合赤軍」
    坂口弘
    坂東国男
    吉野雅邦
    加藤倫教
    M

    【連合赤軍 ―新左翼史から―】

     一口に「連合赤軍」とは何だったのかを説明するのは難しい。多くの事件の影響と、様々なグループの分裂・合同を繰り返して、たどり着いたものだったからである。戦後からの左翼の動きを簡単にまとめた。

    ▽1945年10月4日、GHQの「人権指令」により、治安維持法などで勾留されていた思想犯など2500人が釈放。出獄した旧共産党幹部により「日本共産党」が初めて合法政党として誕生した。

     ▽46年、第22回国会総選挙で、日本共産党は初めて5議席を獲得。

     ▽49年、下山、三鷹、松川事件起こる。いずれも左翼勢力による犯行という見方が強く、松川事件では大量の日共党員逮捕(後に無罪)。

     ▽50年9月18日、「全学連(全日本学生自治会総連合)」結成。30万人が参加。

     ▽50年7月、レッドパージ始まる。マスコミ関係者を皮きりに、日共中央委員24名、参議院議員7名が公職追放。また人員整理は共産党員を第一に行なわれ、民間企業、各官庁・公共企業体を問わず多くの1万人以上が解雇された。労働界では起こらなかったレッドパージ反対闘争は、学校の教授を守るためにと、学生たちによって行なわれたりした。、
     その影響からか、日本共産党は徳田球一の「所感派」、宮本顕治の「国際派」などに分裂を始める。徳田の「所感派」は「軍事方針」と呼ばれる武装闘争を目指す。

     ▽51年10月、日本共産党、第五回全国協議会(五全協)で「山村工作隊」、「中核自衛隊」を建設。武装闘争方針を具体化した。山村工作隊は農村部でのゲリラ活動(各地の交番火炎瓶焼き討ちなど)を行う部隊。しかし、この方針は世論から批判を浴び、52年の総選挙では全員が落選することとなった。後年、同党は「五全協は一部の極左冒険主義の誤り」としている。

     ▽52年7月4日、共産党、社会党、労働組合の他、知識人、言論界で反対の動きを見せたなか、政府は「破壊活動防止法」を制定。暴力主義的破壊活動行為を行なった団体の規制(活動制限や解放)を目的としたもの。
     
     ▽55年2月、日本共産党は第六回全国評議会で武装闘争路線を撤回。この方針転換は山村工作隊、中核自衛隊として運動していた活動家らに混乱をもたらす。

     ▽56年10月、ハンガリー闘争。首都ブダペストでの反政府(反共産党政権)デモが起こり、ソ連が軍事介入。日本共産党がこれを支持したことで、全学連や学生党員らが反発。離反の要因のひとつとなる。

     ▽57年1月、元・日共党員らが「日本トロツキスト連盟」結成。10月には「革共同(日本革命的共産主義者同盟)」に改称する。革共同はのちに「革マル派」や「中核派」に分派。

     ▽58年12月、日本共産党を除名された全学連主流派の学生党員を中心に「共産主義者同盟(第1次ブント)」結成。

     ▽59年、60年安保闘争始まる。安保条約(日米安全保障条約)の改定をめぐり、国論が二分。史上最大の大衆政治運動として盛り上がりを見せた。

     ▽60年6月15日、安保改定阻止第2次実力行使に総評・中立系580万人が参加、国会構内に突入した。警官隊との衝突の中で東大生・樺智子が死亡。政治闘争での初めての死者だった。
     ▽同6月19日、「樺智子全学連追悼集会」を、「犠牲者を出した責任はトロツキスト指導部にある」とした日本共産党がボイコット。
     ▽同7月4日、全学連第16回大会で、安保闘争の総括をめぐってブントが内部対立し、3つに分裂。第1次ブントは終りを迎えた。

     ▽63年4月、革共同が議長・黒田寛一派と書記長・本多延嘉派の対立から、黒田の前衛党建設を優先する「革マル派(革命的共産主義者同盟マルクス主義派)」と、本多の形成する大衆闘争重視の「中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)」に分裂。革共同第三次分裂。

     ▽65年3月、社会党の下部組織「社青同」から「社青同解放派」が分派。67年10月にその政治組織として「革労協(革命的労働者協会)」が結成される。
     ▽65年4月、「ベ平連」発足。正確には「ベトナムに平和を!市民連合」。作家・小田実らを中心に結成された。戦争反対とアメリカの介入反対を望んだこの運動は、左翼政党や労働組合によるものではない市民の運動で、全国に広がる。
     ▽同7月29日、沖縄・嘉手納基地から飛び立った米軍機52機がベトナムを爆撃。ベトナム戦争である。反戦運動と反安保運動が盛り上がる。なお、この戦争は73年1月、サイゴンに北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線が入り、パリで「ベトナム和平協定」が宣言されて終わりを迎えた。

     ▽66年12月17日~19日、全学連再建大会で「中核派」、「社学同(ブントの学生組織)」、「社青同解放派」の、「三派全学連」が成立。共産党・民青系と革マル系の3つの組織がそれぞれ全学連を名乗ることとなった。

     ▽67年、10・8(じゅっぱち)羽田闘争。三派全学連2500人が佐藤栄作首相の南ベトナム等への訪問を阻止しようと羽田空港に集結、突入する。機動隊との衝突で京大生・山崎博昭が死亡。また、学生運動で初めてヘルメットと棍棒のスタイルがとり入れられ、既成左翼とは違う、新左翼の登場を印象づけた。

     ▽68年1月17~21日、米空母エンタープライズ寄港阻止佐世保現地闘争。北ベトナムに向かう米原子力艦隊に対する野党、学生、労働団体による抗議集会。
     ▽同3月、「警鐘」は「神奈川左派(日本共産党左派神奈川県委員会)」と組織合同。「神奈川~」は中国のプロレタリア文化大革命を支持して日共を除名されたグル―プ。

     ▽69年1月19日、安田講堂事件。18日から東大の安田講堂に立てこもっていた全共闘派に機動隊8500名が投入され、放水などで実力排除開始。19日に屋上に最後まで残った学生が逮捕され終焉。2日間で631名が逮捕される。この事件の後、全共闘は縮小していった。
     ▽同4月12日、「神奈川左派」から「革命左派」が分裂。革命左派は「日本共産党」の名がつくものの、日本共産党は「無関係」と主張。
     ▽同4月28日、4・28沖縄デーに対して、中核派とブントに破防法が適用され、計5名が逮捕される。
     ▽同8月14日、「革命左派」の大衆組織「京浜安保共闘」結成
     ▽同9月、「赤軍派」は、秋季武装蜂起に使う武器調達のため、大阪、東京で派出所や警察署を襲撃。(「大阪戦争」「東京戦争」)
     ▽同11月5日、「赤軍派」が大菩薩峠の福ちゃん荘で、首相官邸占拠のための軍事訓練中、53人が逮捕される。(「大菩薩峠事件」)。

     ▽70年3月31日、よど号ハイジャック事件起こる。赤軍派・田宮高麿(当時27歳)をリーダーとした9名が北朝鮮へと渡った。
     ▽同12月30日、「赤軍派」と「革命左派」が埼玉の旅館で初めて接触。

     ▽71年2月17日、「革命左派」の吉野、寺岡、中山が、真岡市の塚田銃砲店から散弾銃10丁、散弾2000発など大量の銃器を強奪、店主を負傷させた。
     ▽同7月15日、「共産主義者同盟赤軍派中央軍(第2ブント)」と「革命左派」が合同して「赤軍(統一赤軍)」が発足。
     ▽同12月20日、榛名ベースで「青年共産同盟」、日本共産党を離党した毛沢東路線の武闘派新左翼集団「京浜安保共闘」と合同し、「連合赤軍」として正式結成される。

    【闘いのなかで】

     赤軍派が葛飾公会堂で旗揚げ大会を開いた前日の69年9月3日午後9時50分、赤坂のアメリカ大使館の霊南坂に沿った塀にはりつくようにして立っている2人の男を警備の赤坂署員が発見、職務質問のために近づこうとした。その時、男の1人がカバンから火炎瓶を取り出し、マッチで火をつけ、警官の方へ投げつけた。男はさらに道路に投げ、もう1人が大使館の庭に2本の火炎瓶を投げ込み、鉄柵を乗り越えようとした。2人は放火未遂の現行犯で逮捕された。
     その2分後では、1.5km南のソ連大使館正門で火炎瓶を持った男を突進してくるのを立ち番中の麻布署員が発見、男を取り押さえた。火炎瓶は炎上したが、まもなく消えた。
     この当時、新左翼のあいだで、沖縄と北方領土について話し合うため訪米、訪ソする愛知外相の出発を阻止しようとする動きがあった。この男たちも新左翼勢力であるように見られたが、ほとんど何も話さず、正体はしばらくわからなかった。男の1人は「反米愛国」と書かれた布を腹に巻きつけていたので、当初は「右翼ではないか」という見方をする人もいた。この男たちは「京浜安保共闘」とわかり、これが同組織初の過激行動だった。

     先に書いたように京浜安保共闘は、「日共革命左派神奈川県委員会」を母体にするもので、革命左派はこの年の4月に結成された。
     表向きには横浜国立大・石井勝を常任委員長に、妻の石井功子を副委員長にすえていたが、実際は社学同ML派から転向した東京水産大卒の川島豪ら指導していた。他に労対に坂口弘、機関紙に柴野晴彦(上赤塚派出所襲撃事件で死亡)、大衆組織に東京水産大・中島衝平(真岡・猟銃強盗事件で逮捕)が分担していた。この常任委の下には「日本青年共産同盟神奈川県委員会」(青共同)と、秘密組織の「軍事委員会」が置かれていた。
     京浜安保共闘は8月14日に、青共同の行動部門として組織されたもので、青共同の議長を兼ねる坂口が指導者となって、「京浜労働者反戦団」「学生戦闘団」「婦人解放同盟」「反戦平和婦人の会」の3組織に共闘体制をとらせたものだった。さらに救援対策組織として「神奈川人民救援会」があった。京浜安保共闘は赤軍派に比べ、石井、川島の妻や、坂口洋子など、女性の台頭が目立つ組織だった。
     京浜安保共闘に過激路線を吹き込んだのが軍事委員会で、キャップ・内藤(後に脱落)、石井勝、坂口、柴野ら超過激派で固め、「米軍基地などを攻撃目標にして反米愛国闘争をすすめねばならぬ」と、「反米愛国行動隊」が編成された。その中には坂口や吉野雅邦、後に連合赤軍リンチ事件で殺害された寺岡恒一らがいた。米、ソ大使館同時火炎瓶襲撃はその第一戦であり、ソ連大使館を襲ったのが寺岡だった。
     9月1日夜、反米愛国行動隊の10人は東京水産大の寮の一室に集まり、米・ソ大使館襲撃のほかに、外相出発の4日朝には羽田空港に突入するという作戦が幹部から隊員に打ち明けられていた。羽田襲撃には、海から空港へという作戦のため、泳ぎのできる5人が選ばれた。
     坂口ら羽田襲撃組5人は、3日夕方の五反田で開かれた「外相出発阻止前夜集会」に出席、夜になると電車とタクシーを乗り継いで空港近くの平和島に向かった。そこのボウリング場のレストランで食事をとり、昭和島に移動、ここからヘドロの海を泳いで渡って京浜六区に向かった。ここからもう一度滑走路の埋立地に潜入した。そこには土管があり、その中に潜んで浮き袋に乗せて運んでいたリュックから材料を取り出し、20本近い火炎瓶を作った。そして朝まで待ち、襲撃をかけた。「反米愛国」の旗を持ち、外相が乗っているであろう特別機に向かって走り出す。特別機は滑走路に向かってゆっくり移動しかけていたが、火炎瓶の黒煙が舞い上がったために緊急停止。5人は逃げようともせず逮捕された。この闘争で一気に名を挙げた京浜安保共闘には、他の新左翼は一目置いたりもした。この後、川島や石井勝ら幹部が次々と逮捕され、壊滅に近い状態に落ち込んだが、壊滅はしていなかった。残存メンバーは上赤塚交番襲撃事件などに関わり、柴野の死後、石井や川島の妻が地方に追いやられ、永田、坂口、吉野といったメンバーが台頭していった。

     71年、赤軍派は大菩薩峠事件の総括を踏まえ、「PBM作戦」を呼号し、そのなかで特にM作戦に全力を注ぎ始めた。

    ※P作戦・・・・ペガサス作戦。国外要人を略取し、それを人質として塩見議長を奪還するというもの。
    ※B作戦・・・・ブロンコ作戦。アメリカの「ペンタゴン突入」、日本の「霞ヶ関占拠」という2つの闘争を同時に行なう。
    ※M作戦・・・・マフィア作戦。活動資金獲得のために金融機関を襲撃する。

     M作戦の代表的なものに松江相銀米子支店襲撃事件がある。
     71年7月23日、午後1時30分頃、鳥取県米子市の「松江相互銀行米子支店」に、赤軍派4人が盗難車でのりつけ、そのうち3人が猟銃やナイフを持って店内に押し入って行員を脅し、現金600万円余りを強奪した。
     鳥取県警は直後県下全域にに緊急配備を発令、銀行から逃げ去った車両は国鉄乗り換え駅付近に放置されているのが見つかり、犯人達は列車に乗って逃走したものと見られた。
     その後、黒坂署員が県境の最寄駅から列車内検索を行なったところ、逃走犯の1人と見られる男を現行犯逮捕した。他にもタクシーで逃走中の1人も発見された。他の2人も検問にひっかかり、24日未明に逮捕された。4人は「松浦部隊」と呼ばれる実践部隊。これにより赤軍派と京浜安保との共闘が証明された。

     こうした過激派の動きを受けて、71年秋頃から警察の「アパート・ローラー作戦」が展開された。(→関連 「三億円事件」)この作戦で、都内では20万棟のうち85%が調査され、メンバーはアパートのアジトを出ることを余儀なくされた。新たなアジトは丹沢、榛名、妙義山といった東京から比較的近い関東北部の山岳地帯だった。連合赤軍は武装訓練に励むようになった。

     元々、赤軍派は資金力はあったが、武器がなく、大量の検挙者を出して弱体化していたため、豊富な重火器を所有する京浜安保共闘との団結が必要だった。思想的には赤軍派は「世界同時革命論」、京浜~は「反米愛国、一国革命」と隔たりはあったが、「唯銃主義」の貫徹という点で両者は合同した。

     71年に発刊された機関紙「銃火」には次のような一文がある。
    「われわれはすでに武装した。敵から奪った銃を敵の心臓に撃ち込むことできたえられ、敵から奪った銃を味方のぶきとし、団結する軍隊である」

    【追い詰められた連合赤軍】

     72年2月、京浜安保共闘のアジトが群馬県伊香保町の榛名山中の奥地にあることがつきとめられた。14日には群馬県警機動隊が動員され、アジト捜索が開始された。
     この時、指名手配されていたのは同幹部の坂口弘(当時25歳)、永田洋子(当時26歳 強盗致傷、爆発物取締法違反)で、他の有力メンバーもアジトに出入りしていると見られていた。

     榛名山中で発見されたアジトと見られる山小屋は前年暮れから正月にかけて建てられたらしく、若い男女9人ほどが出入りしていた。2月7日未明に小屋を焼いて撤収。

     
     1972年2月16日、山梨・埼玉・長野の各県警が大規模な山狩りを行なった。
     午後、群馬県の妙義山中の妙義湖畔の林道で、ぬかるみにはまって動けなくなったライトバンがトラックで引っ張ってもらっているのを捜索中の署員が目撃し、職務質問した。傍にいた3人の男は逃走したが、残る2人の男女は車の中に閉じこもって、署員の話に耳を貸さずにラジオを聞いたり、食事したり、「インターナショナル」を歌い、果ては女も尻を出して排泄するなどしていた。このため署員は車を押して、500m先の人家のあるところまで運んだ。それから以前にアジトに出入りしていたのを目撃した地元の人を呼び寄せて、2人の顔を見せたところ、どうやらこの男女は赤軍メンバーらしいことがわかった。車内の2人は山小屋を作るのに国有林を切ったとして、同夜逮捕された。男女は連合赤軍のメンバーで横浜国大生・杉崎ミサ子(当時24歳)と慶大生・奥沢修一(当時22歳)と判明した。

     翌日も大規模な捜索は続いた。
     17日午前9時半頃、逃げていた森恒夫(当時27歳)と永田が妙義湖近くの山の岩場にひそんでいるのが見つかり、機動隊員10人が近づくと、森はアイクチを抜いて「近寄ると殺すぞ」と怒鳴ったが、隊員の1人が3発威嚇射撃をすると同時に取り押さえられた。実はその前に洞窟に戻る途中だった2人は機動隊員とばったり出会っていたが、「東京から来た俳優です。ロケに来ました。危ないのなら引き返します」と言って逃れていたが、引き返さずにまたもばったり出会ってしまっての逮捕だった。2人の身なりは汚く、垢まみれで匂いが漂っていた。

     最高幹部を逮捕された連合赤軍は追い詰められ、さらに19日には残党・植垣康博(当時23歳)、青砥幹夫ら4人が逮捕された。
     メンバーの男女4人は午前8時前に軽井沢駅に着き、小諸までの切符を購入した。1人は待合室の売店で新聞とタバコを買ったが、この時店員が不審に思って駅員に知らせた。4人はいずれも若く、薄汚れたアノラックに長靴姿で、顔や手も泥などで汚れていたためだ。
     4人が乗りこんだ長野行きの汽車が発車すると、通報を受けて張りこんでいた警察官に職務質問され、ピース爆弾、鉄パイプ爆弾、猟銃の散弾、登山ナイフなどを持っていたため火薬類取締法違反で現行犯逮捕された。
     
     残る逃走メンバーはあとわずか。組織壊滅の日は近かった。

    【あさま山荘1972】

     2月19日午後2時40分頃、長野県北佐久郡軽井沢の別荘地レイクニュータウンを県警機動隊員5人が捜索していた。そのうち一軒の空別荘の雨戸を隊員の1人が開けると、いきなり中から発砲があり、大野耕司巡査長が顔と、左手に散弾を浴び、3週間の重傷を負った。中にいた数人の男は裏口から山中に逃げ込み、隊員らも後を追ったが、銃を乱射しながらの逃走であったため見失ってしまった。

     逃げたのは坂口弘、坂東国男(当時25歳)、吉野雅邦(当時23歳)、加藤倫教(当時19歳)、加藤の弟で高校1年・M(当時16歳)の5人であり、彼らは空別荘から500mほど離れた河合楽器保養所「あさま山荘」に押しかけ、管理人の妻・牟田泰子さん(当時31歳)を人質にとり占拠した。
     1時間後、雪の足跡を追ってこの寮に近づいた永瀬洋一巡査(当時24歳)が腰に散弾を受け1週間のけがをした。

     「あさま山荘」は敷地630㎡、2階建(一部3階)の建物で、まもなく警察に包囲され、拡声器による説得が行なわれたが、返ってくるのは猟銃の発射音だけだった。

     
    ―20日―
    ・3階バルコニーに畳10枚のバリケードが敷かれる。
    ・泰子さんの夫・郁男さん(当時36歳)が呼びかけ。反応なし。
    ・午後9時過ぎ、警視庁の投光車が到着し、浅間山荘を照らした。メンバーはブラインドを閉めきっていたが、3階から明かりがもれていた。

    ―21日―
    ・夕方、東京からヘリコプターで駆けつけて来た坂口、吉野の母親がマイクで説得。呼びかけに反応はなかった。 

    ―22日―
    ・吉野と坂口の母親が2度目の説得。

    「マーちゃん、もし中にいたら聞いてちょうだい。私達はね。警察に呼ばれて来たのじゃないのよ。警察のためではないの。誤解しないで。親として見ておれないのよ。私は親だから、どうしても生きてもらいたいの。今のままじゃ、あんた達が浮かばれないと思うの。あんたたちにもプライドはあると思うのよ。格好悪いかもしれないけど、できにくいと思うけど、頼むから出てきて欲しいのよ、マーちゃん。私はあんたたちの一途な気持ちが誤解されるのが悔しいのよ。このままじゃ凶悪犯人と同じじゃないの。世の中、社会を思って、自分を犠牲にして一生懸命やってきたのじゃないの。世の中を良くするためにやってきたんじゃないですか。このままでは、あなたたちが浮かばれない気がするの。せめて最後は凶悪犯と違うところを見せて欲しいの。このままじゃ誤解されっぱなしよ。母親は子どもが生きてさえいればどこにいてもいいの。でもね、私はあきらめたわ。どうか最後は立派に死んでちょうだい。雅邦、私がこんなところで大きな声を出すのが、あなたのプライドを傷つけるかもしれない。かんべんしてちょうだい。でも、もう気が狂いそうなの」(吉野の母)

    「申し上げます。これ以上、無理をなさらないで。みんな心配しています。命を大切にして下さい。いさぎよく武器を捨てて、奥さんを返して下さい。代わりが欲しければ、私が行きます。まわりはみんな囲まれているのよ。親はただ、子供の命さえ助かればいいいんですから」(坂口の母)
     これに対して2発の威嚇射撃があった。

    ・さらに午前12時7分、新潟市のスナック経営者・田中保彦さん(30歳)が、人質身代わりと人質への果物差し入れを志願して近づいたところ、後頭部を狙撃される。
     田中さんは赤軍派とも、管理人夫妻とも、もちろん警察とも関わりはなかったが、報道で事件を知り、義憤を感じて説得にかって出ようとしたという。病院に運ばれたが、8日後の3月1日に死亡した。のちのMの証言によると、田中さんは次のように接触を試みたという。
    「赤軍さん、赤軍さん、私も左翼です。あなた方の気持ちは、判ります。中へ入れてください。私も昨日まで留置場に入っていたんです。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。私は医者をやっております。新潟から来たんです」

    ―23日―
    ・5日目に入っても膠着状態は続く。
    ・午後2時半頃、長野県警警備車が前進。偵察班は三方から進んだ。警備車は玄関先へ近づくと、「人質をわたしなさい」と説得したが反応はなかった。
    ・この日は警察のライフル銃部隊、大型警備車4台、高圧放水車2台が初めて配備された。

    ―24日―
    ・夜明けから郁男さんの呼びかけが続く。
    ・午前9時ごろ、滋賀から到着した坂東の母(当時50歳)が呼びかけ。

    「国ちゃん、母ちゃん心配してやってきたで」

    「みんな、みんな、いい子ばかりや。人を痛めたら自分も痛めつけられんならん」

    「あんたらはエエ子ばっかりや。立派なところもあるし、けっして悪いことばかりしていたのではありません。みんなよくわかってるんやから。・・・・みんな良い人ばっかりです。悪くなったのも、ハタ(傍)が悪かったんです。政治が好きなら、世間を騒がせるようなことはやめ、政治家になればいいんや。あんた達が考えていたように、世の中も変わってきています。中国とアメリカのニクソンさんが握手してたんやから、あんたらの主張するようになった。あんたたちの役目は終わったんやから、早く家に帰ろう。あんたたちを温かく迎えるように警察の方々と約束できています。お母ちゃんと一緒に自動車で家に帰りましょう。ネコ、イヌ、タヌキ、クマのように、よく耐えて苦労したね。その勇気があれば世の中を渡っていける。鉄砲を撃つのは野蛮です。警察の人も、撃つのは野蛮な人です。両方が怒って喧嘩したら、喧嘩両成敗や。両方ともアホやなあと思います。アホなこと言うとると思ったら、見下してちょうだい。泣いたり、笑ったり、おかしいわ」

    ・午後4時25分、高圧放水開始。さらに騒音テープによる「音攻め」を行なう。山荘の内部にはかなりの水が入ったと見られ、反撃の発砲10数発。さらに屋根への投石、発煙筒が投げ込まれる。

    ―25日―
    ・幹部会議で泰子さんの健康状態を考慮し、27日以降の突入をする方針を固めた。
    ・現場では午後から土嚢積みが始まる。

    ―26日―
    動きなし。

    ―27日―
    ・吉野の母親と、寺岡の父親が最後の訴え。
    ・山荘南側には3台の警備車が横づけされ、土嚢も二重、三重に積み重ねられた。また輸血用の血液も近隣の病院に運び込まれるなど、突入の準備が進められた。

    ―28日―
    ・午前5時頃、騒音テープや屋根への投石開始。
    ・同5時50分頃、郁男さんと警察隊の呼びかけが始まる。
    ・同6時40分、山荘周辺に融氷剤が撒かれる。
    ・同10時7分、15分、山荘内から発砲。
    ・同10時35分頃、放水開始。
    ・同10時53分、クレーン車から吊るしたビル解体用の巨大鉄球が3階を直撃。50cmほどの穴が開いた。その穴に向けて、放水が続く。
    ・同11時15分、1階階下に機動隊12人が潜り込む。
    ・同11時29分、「決死隊」が突入開始。赤軍メンバーは3階と屋根裏から銃撃や手榴弾で応戦し、警視庁特科車両隊の高見繁光警視と、警視庁第二機動隊隊長・内田尚孝警視の2人が死亡。警察側の攻略は一時中断。
    ・同12時47分、SBC(信越放送)のカメラマン(当時36歳)が右足を撃たれる。

     日が暮れた頃、警察による山荘攻略は再開された。
     メンバーは放水とガス弾によって「いちょうの間」に追い詰められた。布団の中から発砲し続けていたが、午後6時15分にようやく全員が取り押さえられた。救出された泰子さんはメンバーから貰ったという「善光寺」のお守りを握りしめており、予想以上に元気だったという。
     泰子さんの証言によると、はじめの2日間は手足を縛られていたが、それからははずされたという。食料についてはメンバーが作って持って来たが、最後の3日間は食べ物が尽きたため、コーラで我慢させられた。またメンバーらは「アサマ(坂口)」「フジサン(吉野)」「タテヤマ(坂東)」「アカギ(加藤兄)」「キリシマ(M)」などと山の名前で呼び合っていたこともわかった。この事件というと、この日にハチマキを巻いて山荘から顔を出す坂口と吉野の写真がよく見られるが、坂口はこの時初めて目の前の浅間山を見て、山荘の名前を納得したという。

     結局、この「あさま山荘」事件では、3人が死亡、16人が重軽傷を負った。(この死者は、連赤側の誰による発砲によるかはわからないが、山荘が破壊される当時、屋根裏の銃眼から坂東と加藤倫教が警察と対峙していた)
     坂口は警官2人がすでに死亡したというラジオニュースを聞いて、前線で戦う他の4人に「やった!警官を殲滅したぞ」と伝えた。

     連合赤軍の5人が玄関から出てくると、報道陣や機動隊から「この野郎、部長を返せ!」「人殺し」「なんでおめおめ出てきたんだ」という罵声が飛び出した。

     この日の8時間前後の攻防は、NHKが連続放映、民放局も番組を変更、CMを削減し中継。視聴率の累計は最高で98.2%に達した。日本じゅうがテレビの前に釘づけとなっていたことを意味する。また現場には1200人ほどの報道陣が詰め掛けていたと言われる。
     ちなみにあさま山荘はその後10年ほど観光名所となり、観光バスのコースにもなるほどだった。

     また「あさま山荘事件の最後の被害者」とも言うべき死者が、救出直前の午後6時前に出ている。滋賀県大津市に住む坂東国男の父(51歳)である。父は中継のテレビを消すと、部屋から出て、裏庭の物置で首を吊った。

     彼らがあさま山荘に立てこもった日と同じ2月19日、すでに逮捕されていた永田洋子が弁護士に「山で大変な闘争があった」「森さんにあの事は言ってはならないと伝えてくれ」と話した。
     まもなく、事件の前後に逮捕されたメンバーの自供から大量のリンチ殺人が行なわれていたことが発覚した。

    →「連合赤軍リンチ事件」

    外国勢力がつくり利用する日本共産党
    志位 正人(しい まさと、1889年10月22日 - 1945年5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は砲兵。
    (親族)
    二男 :  志位正二(陸軍少佐)
    五男 :  志位明義(日本共産党船橋市議会議員)
    孫   :  志位和夫(衆議院議員、日本共産党委員長、志位明義の息子)
    志位 正二(しい まさつぐ、1920年1月1日 - 1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。

    終戦後シベリア抑留にあい、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受ける。

    1948年11月、シベリアより復員。しかし帰国後の志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中国の地誌を作成していた。1950年6月、GHQの取調べを受ける。

    1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。

    その後
    ユーリー・ラストヴォロフがアメリカ合衆国に亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。

    その後、海外石油開発株式会社常務となる。
    1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラスDC-8型機の機内で死去した。日本共産党の志位和夫は甥にあたる。

  5. 【4122554】 投稿者: 事実が真実  (ID:/rT068Znv2I) 投稿日時:2016年 05月 23日 22:15

    南沙諸島の中国による軍事基地建設
    ソ連の北方領土侵略占領
    中国のチベット、東トルキスタン侵略征服
    北朝鮮の暴力による国民支配
    中国による、尖閣諸島に対する日米安保対象か否かの確認

    日米安保が無ければ尖閣は中国に実効支配されただろう。
    憲法9条なんか持っているから、沖縄に米軍をおいて幾度となく米軍兵士に婦女子が強姦されるのだ。

    憲法9条を改正し、核武装をして米軍を沖縄から撤収させるべきである。
    第二次世界大戦の戦勝国は皆そうしている。

    戦争で負けたから、防衛能力も永久に奪われ、基地がある我が国の婦女子が強姦され続けて良いわけがないのだ。

  6. 【4122656】 投稿者: 思う壺  (ID:o.G4VuuvkEg) 投稿日時:2016年 05月 23日 23:15

    キッシンジャーと周恩来の極秘会談録公開

    (産経新聞朝刊 2002/08/06)

    「日本の経済発展を後悔」われわれに日米同盟必要ない

    ニクソン大統領の訪中準備のため一九七一年に行われたキッシンジャー米大統領特別補佐官(当時)と中国の周恩来首相(同)の極秘会談録が公開され、米中国交正常化交渉における中国の関心が日米同盟解体とともに台湾独立の可能性にあったことが明らかになった。

    こうした思惑に対し米側は冷徹な駆け引き で応じているが、「日本の経済発展を許したことを後悔」などと同調、将来の日米安保解体にも言及するなど、日米から米中へと東アジアの枠組みが変身する可能性のあったことを示唆している。

    この会談は一九七二年二月のニクソン訪中の前年十月二十二日に北京の人民大会堂で行われた。会談は中断はあったものの約四時間に及び、日本、台湾のほか朝鮮半島、南アジア、ソ連などがテーマとなった。このうち日本問題は四十分以上にわたって協議された。

    キッシンジャー補佐官が「最も気になる問題から始められてはいかがだろう」と水を向けたことから日本討議が始まっている。

    周首相はまず「日本の経済発展がこのレベルで続くと、いずれは日本を押さえられなくなる心配がある。そうなれば憂慮すべき事態となる」と、対日警戒感をあらわにした。

    そのうえで「中国は報復の政策をとらず、平和と友好で接したが、対照的に日本は挑戦的だった。第二次大戦の賠償金も払わず戦後二十五年間、国防支出の必要もなかったのにいまは(経済発展とともに)国防支出が増加している」とし、日本の非武装中立化の必要性を強調した。

    これに対し、キッシンジャー補佐官も「中国は伝統的に世界的視野があるが、日本は部族的で視野が狭い」と述べ、周首相も「その通り。日本は偏狭で島国根性の国民だ」とうなずくなど厳しい対日観で一致、日本の軍事力制限の必要性でも同意していた。

    ところが、周首相が「日本は米国の『核の傘』に守られている。巨大な力と同盟関係にあるからこそ経済発展と軍備拡張が可能なのだ」と日米安保条約破棄を暗に求めたのに対し、同補佐官は「中立とは強い軍事力を背景にしたものか、あるいは周辺国に保証されてしか存在しない。日本を(中立で)解き放てば手に負えなくなり、後悔することになる」と日米安保が日本を抑制する役割を果たしているとの見方を示してはねつけた。

    また、同補佐官は「日本が過度な再軍備を行えば(第二次大戦前のような)伝統的米中関係がものをいうだろう」と、日本封じ込めに米中関係が有効との見方を披露したほか、日米安保についても「核戦争の時代に条約は意味をなさず、他国を防衛するとすれば条約のためではない。(米国の)国益のためだ。日本は軍事的に貢献しておらず、われわれは条約を必要としない」と、将来の条約解体の可能性にも言及していた。

    一方、台湾問題について周首相は「(米中の)友好とは台湾を中国の一部と認めることだ」とし「いずれ台湾独立運動という動きが起きたとき、日本がまずそれを支持し、米国がそれに続くことも考えられる」と日米が独立運動に関与することに強い懸念を示した。

    キッシンジャー・周恩来 極秘会談録 詳報

    (産経新聞朝刊 2002/08/06)

    ≪危険な日本≫

    キッシンジャー

    最も気になる問題から始められてはいかがだろう。

    周恩来

    現在の日本の経済発展を止めることは困難になっており、必然的に海外の先進国や開発途上国にも影響が出てきている。

    開発途上国に対しては植民地化を進めている。日本には第二次大戦の教訓から平和と中立の道を歩んでほしい。現状の資本競争の政策を続けるなら、早晩問題が生じる。経済発展を望む者がいれば、その発展を許容せざるをえない者が出てくるからだ。

    経済発展が拡大すれば、自衛という名であろうと軍備拡張へとつながるだろう。

    第二次大戦後も日本はこの五十年間と同様に中国に挑戦的な向きがあるが、中国は報復ではなく平和と友好の政策をとっている。

    日本の政権に挑戦的な向きがでたのは大戦後、日本が恩恵を受けたからだ。他国に賠償する必要はなかったし、この二十五年間、国防支出の必要もなかった。

    現在は経済発展によって第四次防衛計画で国防支出も増えようとしている。中国は日本との敵対関係を望まず、日本政府の拡張政策が見直され平和政策が推進されれば、状況は変わるだろう。

    キッシンジャー

    率直な日本観を示す。これは米政府全体の見方ではないが、ホワイトハウスの代表的な見解だ。

    中国と日本を比較した場合、中国は伝統的に世界的な視野を持ち、日本は部族的な視野しか持っていない。



    日本はものの見方が偏狭で、全く奇妙だ。島国の国民だ。英国も島国だが。

    キッシンジャー

    日本と英国は違う。日本は自国の社会があまりに異質なので、社会を適合させ、国の本質を守ろうとする。

    日本は突然の大変化も可能で、三カ月で天皇崇拝から民主主義へと移行した。

    日本人は自己中心で他国に対する感受性に欠ける。

    日本の経済発展の方式は自身のためで、そこに特性が具体的に示されているという首相の意見に全く同感だ。日本に対しては何の幻想も抱いていない。

    首相が示した「日本を中立化するのが望ましい」という見解について意見を述べるが、一億二千万人の人口がいる世界第三位の工業国にとって何が中立かを認識するのは難しい。

    歴史の中には、二種類の中立しかない。ベルギーのように他の国々に(中立を)保障された国と、中立を宣言し独自の強力な軍隊で防衛するスイスやスウェーデンのような国だ。

    日本が独力で国防を行えば、軍備拡張で周辺諸国にとって脅威となるだろう。

    現状の日米関係は実際には日本を束縛しており、もし米国が(日本を解き放す)皮肉な政策をとれば日中の緊張を引き起こす。

    日本との関係を緊密にせずに自立を促して米国が日中双方と関係を結ぶのはあまりに短絡的で、米中はいずれも犠牲となるだろう。

    日本が太平洋にある米国の従順な身内だと考えるような米国人はお人よしだ。

    日本は独自の目的を持ち、ワシントンではなく東京でそれを実行している。日本びいきの向きがある人たちは日本を利用しようとするが、それは危険だ。

    米国は対日基本政策として、核武装に反対し、自国防衛のための限定的な再武装を支持し、台湾や朝鮮半島への軍事的拡張に反対している。



    日本の核武装を望まないというが、米国が日本に核の傘を与え、他国への脅威になっているのはどういうことか。日本は大きな力と同盟関係にあると感じるからこそ、経済発展や軍備増強を遂げているのだ。

    キッシンジャー

    核の傘は日本に対する核攻撃に備えたもので、米国が(攻撃に出る)日本のために核兵器を使うことは自国のために使うこと以上にありえない。しかし、実際には日本人は迅速に核兵器を製造する能力を持っている。



    それは可能だろう。

    ≪日本再軍備と日米安保≫



    日本の防衛力を制限することは可能と考えるか。

    キッシンジャー

    確信していないことを断言したくない。日本が現在の米中関係に反発して、ナショナリズムが再度台頭するというような主張以上に防衛力を制御する方策の場があると信じている。

    日本のアジア支配を回避するために第二次大戦を米国が戦ったのに、二十五年後には日本を支援しているというような見方は適当でない。

    私は米国がこうした疑問を提起してこなかったと個人的に信じている。もし、日本に強力な再軍備拡張計画があるならば、伝統的な米中関係が再びものをいうだろう。

    日本を自国防衛に限定するよう最善を尽くさなくてはならず、日本の拡張阻止のため他国と共闘するだろう。



    日本の経済力で軍備増強を可能にし、日本を勝者にしようとする大きな力がある。日本人を平和と中立に向かわせることはなぜよくないのか。

    キッシンジャー

    当然、日本が平和政策を進めることを問題視はしていない。日本が中立を目指すことは、軍備増強の結果をもたらすと考えているのだ。

    戦術的に中立になるだろうが、日本は以前はそうだった。



    日本は米国のコントロールなくしては野蛮な国家だ。拡大する経済発展を制御できないのか。

    キッシンジャー

    軍事的側面以外では完全に制御はできない。

    核の傘に関しては日本との間にその拡張で条約を結ぶ必要はない。

    核時代には国が他国を防衛するのは条約のためではなく、自国の利益が問われるためなのだ。

    日本は軍事的には米国に何も貢献していない。もし極東地域で米国が積極的戦略を描くならば、日本を必要としないだろう。日本に基地は必要とせず、日本以外でも基地は持てる。



    日本の軍国主義が復活するのは望ましくない。日本をここまで経済発展させたのは米国だ。

    キッシンジャー

    それは本質的には事実だ。しかし、日本の経済発展が現実にあるならば、米中は太平洋の両岸で何をなすべきかを決めなければならない。

    米中は愚鈍な楽観主義者でもないし、首相は現在の様相の中で、状況を見つめなければならない。



    日本はすでに豊かな国に育った。今問題なのは、日本の多くの人々が日本の米軍基地撤退を要求していることだ。沖縄をはじめ日本の米軍基地の今後の役割についてはどう考えているか。

    キッシンジャー

    日本人が駐留軍の撤退を望むならいつでも、米軍は撤退する。

    首相はその日が来ることを喜ぶべきでないと思う。米国が日本を経済大国にしたことを今日後悔しているように、中国もいつの日かそのことを後悔する日が来るからだ。



    それは二つの異なる問題だ。米軍撤退は友好関係の中だけで可能であり、敵意の中ではできない。

    キッシンジャー

    その通りだ。もし、日本が安保条約の破棄を申し出れば一年以内に駐留軍を撤退させる。

    ≪台湾問題≫

    キッシンジャー

    米国は日本が台湾に軍事拡張したり軍事的影響を与えることを支援せず、反対する。また、日本の台湾独立運動支援の企てを阻害する影響力が米国にはある。

    米国は台湾問題の平和的解決と中国との関係正常化を支持する。首相がどうこの問題をとらえているかを理解しており(ニクソン)大統領も首相や毛沢東主席との会談で、こうした米国の認識すべてを再確認するだろう。

    中国は台湾問題を国内問題と位置付けていることは理解している。米国はそれに反対しようとは思わない。



    台湾問題は第二次大戦後に浮上し、すでに解決済みの問題だ。

    戦後に満州同様、台湾も日本は降伏文書で放棄しており、確定したことだ。

    日本が台湾を占領したのはわずか五十年間だった。英国政府は、台湾が中国の一部であるという中国政府の立場を認識している。認識と承認は国際法上異なるが、それははっきりしている。(中略)米国のトルーマン大統領は、台湾は中国の人々に返還され、米国は台湾に領土的野心はないと表明した。

    しかし、朝鮮戦争が起きるや、大統領は第七艦隊と顧問団の派遣を決め、台湾と台湾海峡は米国の保護下にあると宣言した。大統領は核兵器に言及し、現にそこにあった。

    日本とのサンフランシスコ平和条約で、トルーマン大統領は(台湾をめぐる)宣言に沿うように奇妙な基本原則を利用した。

    それによれば、日本は本州、北海道、四国、九州以外の領土問題を再度出してきた。

    サハリン南部やクリール諸島、沖縄を含む琉球諸島のほか、台湾や南沙(スプラトリー)諸島などもその問題に含まれている。サンフランシスコ条約はこれらの領土がどの国々に属するのかを特定していない。誰がこうした構図を描き出したのか。

    キッシンジャー

    ダレス(米国務長官など歴任)だ。あなたの古い友人だ。



    その後、個別の条約が日本との間で結ばれたが、その時台湾は米国の保護下で蒋介石(総統)がただ一人の小さな代表者となっていた。

    蒋介石は(米国に)言われたようにだけ行動でき、日本が放棄したというだけで、どの国に台湾が返還されるのか特定されていない条約下で、台湾に君臨していた。蒋介石を売国奴と呼ぶ理由はたくさんある。

    キッシンジャー

    蒋介石は一つの中国だけがあり、台湾は存在すると主張している。



    米国が沖縄を含む琉球諸島を日本領土とすることで日本と合意したとき、蒋介石はなぜ中国に返還しなかったのかを問いただした。歴史上、沖縄を含む琉球諸島は明朝や清朝が支配してきた。台湾と澎湖諸島は日本との平和条約で支配権が示されておらず、破棄すべきだ。

    蒋介石はこの問題を提起せず、その後ダレスから保護が示されたため、もう条約について言及しなくなった。(中略)台湾独立運動が起きる日を確実に考えているからだ。そうした観点を同様に持っているのは第一に日本で、第二に米国だ。

    はっきりさせたいのだが、米国は台湾がすでに返還され中国の一部になったとみなしているのか。中国人民はどのように台湾問題を解決すべきだと考えているのか。

    キッシンジャー

    明確に答えを出したいが、首相のようなはっきりした考えは示せない。中国は一つであり、台湾は中国の一部であるとの中国の一貫した政策には反対しない。(近藤豊和)

    安保枠組み変質に言及「部族社会」「見方偏狭」厳しい対日観示す

    (産経新聞朝刊 2002/08/06)

    米中国交正常化三十年目に公開された中国の周恩来首相とキッシンジャー米大統領特別補佐官の極秘会談録は、東アジアの安全保障が結局のところは日米中三カ国の「力のバランス」によって形成されていたという現実を改めて見せつけた。

    米中接近は冷戦下で最大級の外交ショックといわれたが、そのショックは「米国の日本離れ」、さらには「日ソ接近」といった全く新たな枠組みまで引き起こそうとしており、そうした現実政治の力学をこの会談録は見事に描きだしている。(前田徹)

    米国は当時、西側の代表国として冷戦の最前線におり、対する中国もこの時点ですでに第三世界のリーダーとなっていた。その両国を代表し、希代の戦略家といわれた周首相とキッシンジャー補佐官が米中関係回復の条件を探り合うわけだから、当然ながら世界情勢を知る上で非常に興味深い史料となっている。

    だが、それ以上に興味深いのはわずか二十年前に朝鮮半島で戦ったばかりの両国がソ連という共通の敵を前に何が利益で何が障害かを本音レベルで互いに確認しあっている点だろう。その意味で、会談録の最大のテーマが日本と台湾に絞られ、将来の日米安保の解体まで話し合われたことに目をひかれる。

    実際、周首相は「日本の経済発展は再軍備につながる」として「米国は日本を押さえ込むべきだ」と持ちかけ、日米同盟の存在こそが米中関係の障害であることを再三にわたって伝えようとしている。

    これに対し、キッシンジャー補佐官も日本人の視野の狭さを指摘して「日本は自らの文化しか理解できず、他文化への感受性に欠ける」とまで言い切るなど同調し、日米より米中関係の重要性を強調していた。

    もちろん米国側はこうした中国の要請に対し「日本の軍事大国化を防ぐにはむしろ日米同盟でコントロールすべきだ」-という“瓶のふた論”を展開して同盟維持と沖縄の米軍駐留を認めさせているが、同補佐官が最終的には米軍が日本から撤退する可能性を示唆したことが気になる。

    果たしてキッシンジャー補佐官の本音はどこにあったのか。便法として日米安保解体に言及したのか、それとも日米から米中へと東アジア安全保障の枠組みを将来、変質させることを本気で考えていたのだろうか。

    キッシンジャー氏はユダヤ系ドイツ人移民で、第二次大戦でドイツと同盟関係だった日本に対し嫌悪感を抱いているとされ、そのことは「日本は部族社会」という表現からもうかがえるが、米中接近に対抗して日ソ接近を心配する周首相に対し、「場合によっては戦前同様、米中が協力して日本を牽制(けんせい)できる」とまで述べた点が注目される。

    対日重視政策をとる現ブッシュ政権の元高官は「将来、不安定要因となる可能性のある中国を牽制するには日米同盟の強化が不可欠」と明確に米国のアジア政策を説明しているが、米中戦略家が本音で語り合った会談録が示すものは、米国には常に米中強化という選択肢を持っていることといえるだろう。

  7. 【4122825】 投稿者: 事実が真実  (ID:/rT068Znv2I) 投稿日時:2016年 05月 24日 05:40

    これまで米は日本を警戒し、中国支援をしてきた。
    為替によって日本の技術力を中国に移転させようと、極端な円高を創出した。
    特に中国よりであった民主党時代が顕著である。

    ところが、漸くその誤りに気が付いたと言うのが実情である。
    危険な存在は日本ではなく中国だったのだ。
    そして米国にとって日本こそ東アジアのなかで、最大の信頼できる友人なのだ。

    周恩来は良き中国人を体現している。
    孔子に代表されるような大人然とした中国人もいる。

    しかしそれで中国共産党を見間違えた。
    中国共産党に支配されている中国という現国家は、孔子や周恩来とは全く違う組織である。
    その怖さは中国国民が一番良く分かっているのだ。

  8. 【4122836】 投稿者: パナマ文書  (ID:o.G4VuuvkEg) 投稿日時:2016年 05月 24日 06:02

    「パナマ文書」で浮かんだ中国「革命家族」の「巨大利権共同体」

    アメリカ人の名前がないパナマ文書
    一番占めるのが中国そしてロシア・・・北朝鮮

    誰が何を標的にしているのかがわかる

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