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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3970388】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 01月 24日 17:54

    答えに窮すると、遣唐使遣隋使が容易に渡航できなかったのに
    縄文人が出来るわけないとの詭弁を弄する輩がいるが

    そもそも同じ土台に乗るわけがないだろ、まさに詭弁。
    九州から中国本土、江南航路約1000㎞ 対馬から釜山50㎞
    そして
    遣唐使は19回派遣され12回到着、約1000㎞を半島に寄らず直接大陸へ
    達成率は高いではないか。
    遣隋使遣唐使より6000年前7mの丸木舟で対馬から釜山へ50㎞、
    対馬から釜山は
    肉眼で見える距離であり、余裕であろう。そして対馬腰高産の黒曜石が釜山、東三洞貝塚から発見、熊本の貝面も出土している。

    隠岐の島は出雲から100Km離れているが、縄文人が容易に行ったり来たりしている。新潟糸魚川産のヒスイが半島、北海道から出土
    九州産の黒曜石が沖縄からも発見。

    丸木舟で運んだに決まってるじゃないか。
    縄文人がUFOや飛行機気球を発明したとの知見は私も持ち合わせていない。笑
    対馬から釜山の50㎞など縄文人にとって屁の河童なのである。

    遣唐使でさえも1000㎞の航海を19回中12回成功させており
    年代も5000年以上違い、距離も全く違う話を同じ土台に載せるなど
    笑止千万笑うしかない。

    遣唐使1000㎞の航路を半島に寄ることなく12回成功させた、我々の先祖もたいしたものである。

  2. 【3970416】 投稿者: 呆れる  (ID:t.zY3aenRhs) 投稿日時:2016年 01月 24日 18:14

    2004年7月、長白山(白頭山)の噴火過程を研究していた日中韓の共同研究陣は、長白山の頂上から 東北方向へ 15km離れた地点で、火山から噴出されたように見える厚さ 1mに及ぶ巨大な石を発見しました。 この石の下には、火山灰と砂利が 25cmの厚さに積もり、その中には小さな木切れがありました。木切れに ついて炭素年代調査をした結果、火山が噴出した時期が 10世紀初頭であることが明らかになったのです。
    因みに、938年に噴火した長白山の爆発力は、ローマのポンペイを火山灰の中に埋めてしまったベスビオ火山の数十倍と 推定されています。


    原住民は全滅?

  3. 【3970434】 投稿者: 自由  (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 01月 24日 18:29

    朝鮮半島の歴史は、
    10〜11世紀に一度リセットしたかもしれないね。

    そう考えれば、

    正史の三国史記の完成が、日本よりはるかに遅れて
    ようやく1145年というのも理解できる。

  4. 【3970438】 投稿者: まー  (ID:gbVzO8mlyGA) 投稿日時:2016年 01月 24日 18:33

    朝鮮民族征服王朝説とならびたつ
    ウリナラファンタジーだと思います。

    また、東北大の、友達から聞いたとか、とぼけて明示しませんよ。賭けてもいいです。
    自身の主張を通すために、捏造しだしたらもう終わりです。

  5. 【3970529】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 01月 24日 19:40

    あまり話題になってないが鹿児島耳鳥遺跡24000年前、仁田尾遺跡15000年前
    二つの遺跡から稲のプラントオパールが発見されている。残念ながら年代不詳。
    岡山の6000年前の稲プラントオパールだけで朝鮮半島より、早く陸稲作が始まっている事は間違いないのだが、さらに古いプラントオパールが発見され解析される事であろう。その時代に朝鮮半島には人の住んでいる気配(遺跡)はない。

    【3937445】 投稿者: ヤタロー (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:15年 12月 23日 15:15

    鹿児島県耳取遺跡24000年前、仁田尾遺跡15000年前二つの遺跡から、イネのプラントオパールが発見されている。年代不詳であるが、柳田國男の海の道を通って南九州にやって来た可能性が浮上。これは水稲作ではなく、陸稲作であろう。
    日本では6000年前から陸稲作、3000年前から水稲作(菜畑遺跡)がおこなわれて
    いる。半島の陸稲作は3000年前、水田稲作ではなく、アワ、モロコシ、オオムギと同じ畑から出土している。河川に隣接する沖積地の遺跡でもイネの水田栽培はされていなかった。

    半島北部では水田稲作はできるはずもなく、全て畑稲作、アワ、ヒエ、モロコシ
    オオムギと一緒に植えていた。当然水稲作でなければ大量に米は作れない。

    再掲

  6. 【3970589】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 01月 24日 20:25

    議論に負け捏造する輩が出没してるので再掲する

    【3939452】 投稿者: ヤタロー (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:15年 12月 25日 19:45

    実は半島はBC10000年から5000年までの旧石器時代の遺跡が極端に少ない。
    どれくらいだと思います、なんと50ヶ所
    日本列島からは、10000とも言われる旧石器遺跡が発見されている。
    この結果は衝撃である。
    半島の面積219000㎢そこに50ヶ所だと10000㎢に対して2.3ヶ所強
    日本の国土380000㎢そこに10000ヶ所10000㎢に対して263ヶ所
    相対的に見ると日本は100倍以上、半島はほぼ無人状態であった

    韓国に新石器時代人たちがやって来て住み始めた時期は中国黄河流域と近い時期の紀元前5〜4千年と推測されている。韓国の歴史(河出書房新社2002)韓国文化広報部海外広報館 在日本韓国大使館韓国文化院 韓国の世界日報 韓国の25博物館も協力し上梓されたによる。

    12000年前 南九州独自の縄文文化貝文文化展開
    9500年前 南九州に定住集落 上野原遺跡
    7000年前 無人半島に縄文人が渡っていく
    6000年前日本列島で熱帯ジャポニカ米が栽培される
    4000年前縄文人の住んでいた半島に北方より人々侵入してくる。
    3000年前菜畑遺跡水田稲作

    半島は12000年前〜4000年前まで空白の時間なのである。
    九州ではないが、青森 三内丸山遺跡では5000年前の環濠集落
    栗など木を植え栽培したことも分かっている。

    南から人が渡り、北から南下し当然半島南部は倭人の先祖だと私は考える。
    北からの侵入で帯方郡、高句麗
    南からの人々、魏志倭人伝に出ている倭種、つまり倭人と推定される。

    再掲

  7. 【3970607】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 01月 24日 20:40

    冷静にかんがえるとさん
    下記内容のあなたの見解を御教示願いたい。よろしくお願いします。

    紀元前1000年前に、周王朝に倭人が朝貢に来たとの話が、論衡に記されている。
    当然やって来たのは船で半島からは陸路であろう。
    半島下半分が勢力地であったならば容易いと思われる。
    菜畑遺跡水田跡が3000年前だとわかった今、再考するべきではないか。
    従来は笑い飛ばしていた事象が、事実であった事は数多し。

    【3968502】 投稿者: ヤタロー (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:16年 01月 23日 10:09
    魏志倭人伝より古く倭人を記した書物は有名な、教科書にも出てくる
    漢書の一節。
    楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国を為す。歳時を以って来献す、と云う。
    これは前漢の武帝紀元前141〜87の時代である。

    同じ漢代の書 論衡に下記の記載あり

    周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯ソウを貢す。(巻八)
    成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す。(巻十九)

    越はベトナムこれと並んで倭人が登場、周二代天子、成王(前1115〜1079)
    年代的にあり得ないと決めつけられていた。
    しかし、菜畑遺跡水田跡3000年前が国立歴史民俗博物館の鑑定によりわかってからは、そうとも行かないだろう。

    3000年前に周二代天子成王は、ベトナムから貢がれた、雉を食べ
    倭人から朝貢された、鬯草を服用していた事実が記されていた。
    京大人文科学研究所図書館より

    再掲

  8. 【3970841】 投稿者: 自由  (ID:ZgBFFGN4UAc) 投稿日時:2016年 01月 24日 23:21

    >そもそも三韓以前の古朝鮮というものは、東濊以北扶余までの地域を指すのが一般的。長江流域から北上、山東半島を経由して渤海を回り朝鮮半島を南下するといった、いわゆる地続きによる伝播ルートはおよそ現実的ではない。山東半島を経由するなら海上ルート、つまり遼東半島経由を想定するべき。鴨緑江流域で稲作が伝播していったとしても現在の平壌より北側の地域にあたる。稲作伝来の基礎を構成するほど発展していったとは、気候条件ひとつとってみても考えられない。従い、この話に地続きによる朝鮮半島の先駆性を持ち出すことは見当違いであることを指摘しておく(再掲)



    まさしく、おっしゃるとおりで、

    古朝鮮の支配地域と、菜畑遺跡の水田稲作が問題となるBC10世紀という時代背景を踏まえたら、どうしても朝鮮半島南部を通過しなければならない根拠なんて無いわけで、

    そのあたりは日本の水田稲作が従前の定説から、5〜6百年遡っている衝撃を踏まえて、よくよく考えないとトンチンカンな話になる。

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