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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3981562】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ  (ID:2/CvGUeN1ck) 投稿日時:2016年 02月 02日 10:41

    ここでも自由は哀れな4連投。おまえ、友達いないのか?

    笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑




    w

  2. 【3981800】 投稿者: ひまわり  (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2016年 02月 02日 14:01

    こんにちは。

    ももたん様、お二人の事を気にかけて下さって本当にありがとう。

    私はここでぼちぼちやっていきますね。

  3. 【3981877】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:vKFcxXOhGIo) 投稿日時:2016年 02月 02日 15:37

    ヤタローさん、紙つぶてさん

    >紙つぶてさんの八咫烏の話から、調べたら面白い展開になってきました。
    古墳から埴輪が出土するのは、衆知の事実であるが、その中に水鳥系埴輪なる物が有ります。 烏、カモメ、白鳥、雁など多彩ですが、
    なんと、鵜飼の埴輪が出土してました。鵜が魚を咥え、首には鈴をあしらった紐がまかれているそうです。

    あ、そうなんですか? 動物埴輪といえば犬とか猪の類だとばかり思っていましたが、うーん、、そういえば犬をモチーフにした埴輪にも首輪がついていたようなものもありましたね。形象埴輪は前方後円墳と関係が深いでしょうから、ヤマト王権時には常世思想というものが定着していたと思います。そういった意味で始皇帝の兵馬俑と相通じる埋葬方式の一部とも考えられ、徐福伝承と繋がるのはこの線辺りではないでしょうか。

    >八咫烏

    例のギルガメッシュ叙事詩にも鳩、燕、烏を大空に放ち戻ってこなかったのは烏だけだったという説話があるように、烏というものは不義理の象徴である一方、未開の地を探し求める先兵、水先案内人といったような含意も見出せます。神武東征に絡む八咫烏の先導に結び付ければ、北欧の船乗りたちが用いた鳥放ちの神事とも通じるところ。
    そういえば詳しく覚えていないが、アングロサクソン年代記にも7王国時代にヴァイキングの鴉(烏)の軍旗を奪ったデヴォン民兵たちが、最終的にアルフレッドの勝利をもたらしたといったような記述もあるようで、ヴァイキングを苦しめた嵐とともに「神の御加護」を受けた勝利の象徴をモチーフとしたことは、古今東西変わらぬものといえましょう(時代は下るが、敵を苦しめる嵐は元寇をも彷彿とさせます)。

    神武東征に絡めば、長髄彦(ながすねひこ)軍に打ち滅ぼされた長男の五瀬命の死後、稲飯命、三毛入野命とも海難で果てたことになり、末弟神武が苦難の末、大和入りを成就する。八咫烏は亡くなった兄たちの化身ともいえ、「苦難の末の勝利」、この方程式を司馬遷がどのように捉えていたかはわからないが、徐福伝承に絡み、八咫烏を通じた思想背景は興味津々ですね。

  4. 【3981885】 投稿者: 二俣川  (ID:9ZYzdXTLPWA) 投稿日時:2016年 02月 02日 15:42

    自由=小報告鬼子。
    不想跟傻瓜一般见识。

  5. 【3982090】 投稿者: 幼稚  (ID:DRpBT.lyHbk) 投稿日時:2016年 02月 02日 19:14

    ももさん

    またいつかよろしくお願いします。

  6. 【3982102】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 02月 02日 19:20

    冷静にかんがえるとさん

    神武東征については、個人的には東征というより、入植だった気がしてます。
    大和盆地の一部地域に入植した、8代のちに、盆地外に撃って出た。
    これが日本武尊の東征、出雲への遠征なのではと思ってます。
    大和盆地の中では、物部氏、葛城氏などと同格であり、いずれリーダー格になったこんな感じでは。

    旧唐書は唐が成立する前に、倭国から二人使者が来て、皇帝の前で、我こそ倭国であると言い争った記載があります。
    そして、推古天皇時代の倭国については、前の倭国を統一した国である、また
    壬申の乱で倭国を滅ぼし、日本を称するようになったとの混乱した認識を持っていたらしい。
    この話が元に九州王朝説となるんですが、聖徳太子の日出ずる国の天子との口上は、九州王朝倭国より、さらに東の日出ずる国の天子なのでしょう。

    私は、240年代に大和に初めてに主権国家を築いた纒向遺跡(藤原京に匹敵する政庁規模)大和国家と、九州の邪馬台国は併存したのではと思い出してます。
    宋書倭国伝に記載されている、倭の五王の話は、日本書紀には全く記載されてない。倭の五王は、九州倭国の王だったからかもしれません。

  7. 【3982149】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 02月 02日 19:38

    数年前に世界四大文明の黄河文明より1000年古い、長江文明(7000年前)をその中に加えるべきとの論文が出されている。
    長江文明は、河母渡遺跡を中心に稲作発祥の地であるが、当時の人骨から、長江文明は我々と同じモンゴロイド、黄河文明は白人(コーカサス)との事である。

    長江文明は稲作中心で高床式倉庫、高床式建物に住み、鵜飼など日本と同じ光景のようである、共存共栄の社会で武器はほとんど発掘されていない、
    1000年のちに黄河にコーカサ白人が現れ、武力で制圧され、山々、海に逃げた
    これが今も中国に残る少数民族になり現存、河母渡遺跡からは、日本列島いたるところから、出土している形状耳飾りが出土、中国ではここからしか出ていない。中国江南地方より、直接伝播したものは稲作を含め、様々な風習もそうであろう。

    一般的には、大陸から直接伝播の一方通行を頭に浮かべるが、
    当時の日本列島からは、16500年前の世界最古級の縄文式土器
    9000年前の漆漆器(世界最古)、中国より2000年古いが出土しており、
    列島から江南地方に伝わったものもあるのではないか、形状耳飾り、勾玉(翡翠)
    など、考えると面白い。まさに歴史はロマンである。

  8. 【3982153】 投稿者: ひまわり  (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2016年 02月 02日 19:39

    こんばんは

    >水鳥形埴輪は、鵜飼いの鵜の姿を象った埴輪であることが明らかとなりました。
    群馬県高崎市保渡田八幡塚古墳では、高く挙げた嘴に(ナント)魚を咥(くわ)えている例が見つかり、まさに「ウ飲み」する一瞬の姿を写した鵜形埴輪であったことが判りました。
    しかも、頸部には鈴をあしらった紐が巻かれ、鵜飼の場面を表現した儀礼的な造形であるらしいことも注目されました。 (ヤタロー様)

    京都嵐山の鵜飼いにちなんで山城の古墳群でも鵜飼いの埴輪が見つかっていないのかと調べてみたら、ウィキに
    「鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある[1]。また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭』(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と記されている。」
    「『隋書』に書かれた時代(600年)には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。」
    と書いてありました。それは、日本から伝わったということなのでしょうか。

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