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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【3962574】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ (ID:/yVAwUAC5EE) 投稿日時:2016年 01月 17日 21:18
>要は、新発見によって、
縄文時代晩期、弥生時代始期がどんどん時代を遡っているのに、
私の心の内は別として、子供に教えることはない。そういうものである。笑
w -
【3962617】 投稿者: 暇なおじさん (ID:d9V8L0TGNtk) 投稿日時:2016年 01月 17日 21:57
すみません、訂正です。
周囲40キロ→外側の城壁周囲6キロ、内側の城壁周囲3.6キロでした。
大変失礼しました。 -
【3962908】 投稿者: 自由 (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 01月 18日 08:30
>縄文=狩猟採集、弥生=農耕という単純な図式は変えていかなければならないのではないかと思いますね。
むかしは、BC4世紀頃に弥生時代に渡来人が稲作技術をもってやってきたと丸暗記していたものが、菜畑遺跡の水田稲作の痕跡がBC10世紀のものと分かり、縄文時代晩期・弥生時代始期は一気に
BC4世紀→BC10世紀
と遡るわけだよね。
こうなると、いままでBC4世紀を前提に説明してきたことに矛盾が生じるわけで、その頃に春秋戦国時代の余波で、渡来人が日本にやって来て稲作技術を持ってきたというシナリオは根底から覆ることになる。
日本の水田稲作の起源が500〜600百年も遡るのだから、渡来人の存在があったとしても大量に日本に来た訳でなく、少数の渡来人が数百年をかけて徐々に中国文化を伝えたというシナリオが見えてくる。
北九州と朝鮮半島南部で共通の水田と石器の痕跡があるのは、この中国文化の直送ルートにより長い時間をかけて共通のものが育った・・そのように考える方が自然だろう。 -
【3962942】 投稿者: 自由 (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 01月 18日 09:02
さてさて、
そのBC10世紀の菜畑遺跡の水田跡についてだけども、そこから発掘される石包丁が朝鮮半島南部のものと一致する。
これは石包丁が朝鮮半島南部→菜畑遺跡と伝わったものと考えられているが、
しかし、不思議なことにそれ以外の生活用具は縄文人が使う物であって渡来人の影響は全く無い。
これがなぜなのか?
という問いに対する想定の答えのひとつは、縄文人が朝鮮半島に渡り水田稲作の技術(石包丁ほか)を北九州に持ち帰ったというシナリオである。
それを裏づける証拠として、前にも書いたとおり朝鮮半島南部の東三洞貝塚では佐賀腰岳産の黒曜石が出土しているし、大量の縄文土器も発見されており、日本→朝鮮半島南部との交易は間違いない。
つまり、BC10世紀に日本に水田稲作の技術を伝えた渡来人は、実は、縄文人自身なのだろう。
ちなみに
この時代、韓国の高校教科書によれば、朝鮮半島の歴史は、檀君朝鮮の神話の世界である。 -
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【3962998】 投稿者: んっ。 (ID:upygSBBaFwM) 投稿日時:2016年 01月 18日 09:45
技術を伝えた渡来人は大陸からで、縄文人が半島に渡って・・
その石包丁を伝えた可能性はないのですか。
一致するからといって、縄文人自信であっても半島からの前提に
なっていると思うんですが・・
あくまでも、それも一つの可能性として
そー思ったんですが。 -
【3963017】 投稿者: 徳仁天皇 (ID:pBTXqdRvw/s) 投稿日時:2016年 01月 18日 09:57
陸が繋がっていることから考えて中国大陸→朝鮮半島→日本、と考えるのが普通だろう。
日本の稲作は、朝鮮半島からもたらされたものであり逆はあり得ないのである。
私たち日本人は朝鮮人に感謝しなければならない。 -
【3963028】 投稿者: まー (ID:SXDph1uxl/U) 投稿日時:2016年 01月 18日 10:02
半島南部に住んでいた、海洋縄文人が、再び日本に戻ってきた可能性は十分あります。
でもこの縄文人は、倭人ですけど -
【3963061】 投稿者: 自由 (ID:jlejl9AQtvM) 投稿日時:2016年 01月 18日 10:23
>半島南部に住んでいた、海洋縄文人が、再び日本に戻ってきた可能性は十分あります。
でもこの縄文人は、倭人ですけど
そうそう。
これは今の日本人ではないかと。
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