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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【3947745】 投稿者: 自由 (ID:/qxE6H5xNoM) 投稿日時:2016年 01月 04日 15:58
>日本から半島というルートは、稲作の技術だけならともかく、稲そのものについては、半島にあって日本にないRM1d~hの遺伝子が説明できません。遺伝子を持って稲作伝来のルートを推し量る方法と一貫しないことにもなります。
これを整理すると、
RM1-a 日本○、韓国○、中国○
RM1-b 日本○、韓国×、中国○
RM1-c 日本○、韓国○、中国○
RM1-d〜h 日本×、韓国○、中国○ -
【3947755】 投稿者: 自由 (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 04日 16:14
失礼、書き込みボタンを間違って、押してしまったが、
稲作が、韓国→日本と
伝わったという確証は、
RM1-a 日本○、韓国○、中国○
RM1-b 日本○、韓国×、中国○
RM1-c 日本○、韓国○、中国○
RM1-d〜h 日本×、韓国○、中国○
どこにも無いよね。
論理的には、RM1-a 、RM1-c は、
韓国→日本、日本→韓国、それ以外、いずれもあり得る。
しかし、RM1-b は、
中国→日本としか言いようがない。
以上は温帯ジャポニカの話だが、
それよりはるか以前、6000年前の縄文時代に熱帯ジャポニカが日本に伝わっていた。
しかも、DNA分析によって中国河姆渡と日本の縄文時代のイネが一致した。
つまるところ、日本の稲作は主に中国から伝わったと言える。 -
【3947894】 投稿者: 自由 (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 04日 18:37
「主に」と書いたのは、
もともと6000年前に、中国から直接ルートで熱帯ジャポニカが伝わり、稲作(陸稲)が始まっていたところその後3000年前に水稲が始まり、従来の熱帯ジャポニカに温帯ジャポニカ(※)の混植、交雑種の栽培が始まり、生産量が飛躍的に増えた。
この温帯ジャポニカ(※)は、
①中国からの直接ルート RM1-b、RM1-a、RM1-c
②朝鮮半島からのルート RM1-a、RM1-c
RM1-b だと中国で決定的、その他だとどちらでもあり得る。
日本の稲作は、陸稲は100%中国から伝わり、その後の混植は中国、韓国どちらもありえる。
始まり・・という観点では、中国からで決定的である。 -
【3947899】 投稿者: 自由 (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 04日 18:44
寒冷な朝鮮半島北部での稲作痕跡は、12世紀までしか遡れず、朝鮮半島北部→南部→日本と稲作が伝わった可能性はゼロである。
暖かい朝鮮半島南部を今の日本人が住んで北九州と交流し稲作をしていただけで、今の朝鮮人は関係無いのではないか。
日本の稲作は、中国から伝わったと言ってよい。 -
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【3947971】 投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2016年 01月 04日 20:09
こんばんは、やっと半分まで読めましたぜ。
自由様の連投呟きと遊び様のスケ番刑事が面白くてつぼでした。
えっと、おそらく、ものすごい、恐ろしい数のレスが削除されてますよね?
お手柔らかにお願いします~~~。さすがに4度目の書き込み停止は嫌です。
稲のルーツのお話はとても面白くて、知識の無い私は皆様の書き込みに感心するばかりです。
>歴史とは過去と現代との対話であり、川の水が流れる如く、真実と真実が糸で繋がれ自然に繋がってきたものだと思ってます。
真実と真実が連続性を持って繋がれているため、一つ偽っても前後の出来事から
物事が類推できるでしょう。(ヤタロー様)
歴史にロマンを感じてらっしゃるのは、ヤタロー様が一番かもしれません。
どんなジャンルでも掘り下げると必ず歴史はありますよね。稲でも名前でも長い時間を旅して私達の元に来てくれた、ルーツを調べる事で歴史と対話が出来るなんて本当に素敵な事だと思います。
科学の進歩やさらなる遺跡の発見で教科書は大きく変わると思いますし、それも一つの歴史として私たちが学んでいくべきものだと思います。
自由様がおっしゃるようにバイアスがかかることは許されないんです、前の教科書での従軍慰安婦記述のように。
>また、渡来人とは何者なのか?
それは現在の朝鮮人なのか、日本人なのか。
私は日本人だと思っている次第。 (自由様)
冷静にかんんがえると様にご紹介いただいた秦氏関連の本を読んでいますと、
秦氏とはどこからやってきたのか?なぜ「秦氏」なのか?とずっと考えてきました。どうも始皇帝の子孫だとか機織だとか、そんな薄い理由でもないようです。
渡来人といわれる人々が日本に渡ってきた理由も考えなければならないと思います。
何の史料も根拠もないのですが、日本人は中国から渡ってきた稲や知識を持って
一度半島南部に渡っていて、もしかしてその地は任那かもしれないし、その後何かの理由で彼らは日本に戻ってきたのかもしれませんね、私たちが言う秦氏等の渡来人として。
冷静にかんがえると様、お帰りなさい。
夏から冬への気温の変化、慣れていらっしゃると思いますがお風邪など召しませぬようご自愛くださいね。
一般参賀に行かれたのでしょうか?本当に羨ましいです。
差し支えなければ長和殿のベランダに揃われた陛下や皇族方のお姿をお聞かせ下さいませんか? -
【3948048】 投稿者: 自由 (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 04日 21:26
>>また、渡来人とは何者なのか?
それは現在の朝鮮人なのか、日本人なのか。
私は日本人だと思っている次第。 (自由)
>何の史料も根拠もないのですが、日本人は中国から渡ってきた稲や知識を持って
一度半島南部に渡っていて、もしかしてその地は任那かもしれないし、その後何かの理由で彼らは日本に戻ってきたのかもしれませんね、私たちが言う秦氏等の渡来人として。 (ひまわり君)
かつて斉明天皇は、百済の王子を連れて、わざわざ九州まで来て白村江の戦いに臨むわけだよね。この女帝はこの地で崩御し、戦いはあえなく敗れるわけだけども、倭国の朝鮮半島に対するそこまでのこだわりは何だったのか。
朝鮮半島南部に倭国勢力圏があったとしか思えないのだが。 -
【3948064】 投稿者: んっ。 (ID:ap0UIeFr86.) 投稿日時:2016年 01月 04日 21:50
そのものであったのか、想像以上に深く関わっていたのか
その根底が、今の地域対立の存在になっていると思っています。 -
【3948156】 投稿者: 冷静にかんがえると (ID:lKbk/DvSiSk) 投稿日時:2016年 01月 04日 23:12
自由 さん
>律令制自体は、中国への対抗意識ではなかったか。
機能することを重視していなかったような気もする。
うーん、なるほど。確かに独自編纂ということが重要かもしれない。
統一新羅と比べると、独立自尊を希求する精神というものは看過できないとも思うところ。一方、じっさいの実効性については、いわゆる「格」をもって実情に合わせていたのではないかと思う。四条起請で新羅人の帰化を禁じる一方、交易を存置させるといったような政策にそれが垣間見える。
独立自尊といえば我が国以外の古代国家、唐、統一新羅、渤海が十世紀初頭の段階で消えていく中、国内では「古今和歌集」の撰上が始まり平仮名が定着していくなど、国風文化が芽生えてくる時世。この数世紀間で政治的自立から文化的自立に繋がっていく様は、国制の枠組みが基底で持続する意味で、古代史の重要性を再認識させられるところでもありますね。
>ひまわり さん
新年一般参賀、一回目に合わせていったので三笠宮ご夫妻の元気なお姿も拝見して参りました。人出は覚悟していたけど、思いのほか家族連れが多かったのには驚きました。箱根駅伝観戦と絡めてタイムスケジュールが組み易かったかも、、
それにしてもここ数年、丸の内側の再開発の勢いはすごいですね。思いつくだけでもパレスホテルの改築からJPタワー、永楽ビルなど、そして新たに大手町タワーですか、、皇居を中心としてみると丸の内から祝田橋、虎ノ門に至るエリアと北の丸から半蔵門に至るエリアの勢いが、だいぶ違ってきているような印象です。まあ当該エリアには靖国があるからなあ、、
街並みを見ながら、久しく縁遠かった皇居ランでも再開しようかと思い立ちました(以前は一年弱でギブアップでしたが、、)。
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