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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3949804】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ  (ID:hJ7FDH6yvWY) 投稿日時:2016年 01月 06日 14:48

    >自由様がお詳しいので、


    朝鮮半島では低温で栽培できない程度でよかったのか?笑







    w

  2. 【3950060】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 06日 20:08

    日本最古の陸稲作6000年前、水稲作3000年前菜畑遺跡
    半島からは、3200以上前の稲作後は遺跡は発見されていない。
    これいかに

    1999年4月、岡山理科大学発掘チームが、岡山市津島東の朝寝鼻貝塚から採取していた縄文時代前期初め(6000年前)の地層から、稲作の栽培を示すプラントオパールを約50個、検出したと発表している。同地層は地表から3メートルの深さにあり、縄文時代前期の型式の土器が出土しており、検出したプラントオパールは栽培種の「イチョウの葉」の形をしていたという。


    2005年2月、岡山県の児島半島にある灘崎町の彦崎貝塚の縄文時代前期(6000年前)の地層(地下2.5m)から、イネのプラントオパールが大量に見つかっている。その量は土壌1グラム当たり2000~3000個であった。プラントオパール分析で水田址の探査や検証を行う時の判断基準が3000個/グラムであるとされている。これらからして彦崎貝塚のプラントオパールの量は、栽培方法(陸稲・水田)は別として、縄文前期にイネの栽培が行われていたという証明になると思われる。

  3. 【3950068】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 06日 20:17

    NHK女性デイレクターの執念が実りましたね。菜畑遺跡3000年前の水稲作が
    発見された貢献者である。

    プラントオパール分析により、縄文稲作の可能性が出て来ると、縄文稲作で栽培されたイネが熱帯ジャポニカで、南西諸島を経由して日本に伝わったと、佐藤氏が考えるに至ったと推測する。そしてプラントオパールの形状によって、イネの品種を判別出来ないか、そうすれば縄文稲作は熱帯ジャポニカであったと証明出来ると、本には書いてないが、プラントオパールの形状からは、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが明確には判別出来ないと知ったときには、佐藤氏はさぞガッカリされた事であろう。

    佐藤氏は1983年に静岡の国立遺伝学研究所に移られている。そして、1994年に佐賀県の菜畑遺跡の炭化米から、世界で初めて炭化米からDNAを抽出することに成功している。こう書くと、最初から目算があって行ったように思えるが、実際はNHK佐賀放送局の女性ディレクターの「炭化米からDNAがとれないか」との思いつきから出発したものだそうだ。

    そのとき「炭化米は炭であること、炭は燃えてできたものであること、そして燃えてしまって何千年たったものからはDNAはとれない」と説明したそうだ。それでも諦めなかった女性ディレクターが「菜畑遺跡の炭化米を一粒手に入れたから分析して欲しい」と持ち込んだという。「事実は小説より奇なり。絶対とれるはずのなかったDNAがとれてしまった」と著書「DNA考古学」(1999年)に記載している。

    遺跡から出土している炭化物は、燃えて出来たのでなく、長い年月の間に、土中で自然に炭化して出来たのだと、私は友人の科学屋のFさんから教わった。そのため、芯の部分にはDNAが残されており、DNA分析が出来るのであろう。DNA分析は日進月歩の世界、初めはジャポニカとインディカの区別しか出来なかったものが、今では少しの試料で温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの区別が出来るようになっている。

    佐藤氏は科学研究費補助金を受け、1998年から2001年に「考古遺跡から出土する炭化米の遺伝情報・・・」というテーマで、全国17ヶ所の遺跡から出土した炭化米207粒についてDNA分析をしている。その結果は、古代の日本列島のイネのほとんどがジャポニカであり、またその約40%が熱帯ジャポニカであったそうだ。

  4. 【3950080】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 06日 20:28

    「熱帯ジャポニカが出土した弥生遺跡」は、
    佐賀菜畑遺跡、宮崎平田遺跡、高知田村遺跡 下文遠崎遺跡 岡山佐古谷
    霞の要害遺跡、妻木晩田遺跡 池上曽根遺跡 唐子鍵遺跡 下之郷遺跡 東原田遺跡
    登呂遺跡 大久保遺跡 池子遺跡 不老子笹川遺跡 一之坪遺跡 高樋Ⅲ遺跡


    2001年、和泉市で行われた日中韓国際フォーラム「見えて来た稲の道」で佐藤氏が講演した資料と著書「稲の日本史」(2002年)、またその後新聞発表されたものをもとにして作成した。弥生時代に熱帯ジャポニカが、日本列島に広く分布していたことが分かる。なお、これらの遺跡の炭化米には温帯ジャポニカ(一部には温帯・熱帯ジャポニカの区別がつかないもの含む)も出土している。現在の在来種(温帯ジャポニカ)に熱帯ジャポニカの遺伝子がある証拠でもある。

  5. 【3950140】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 06日 21:29

    航海の現実性。海峡をはさんで北上・南下いずれのルートについても言えることですが、いまでも事故がしばしば起こる対馬海峡(昨年もありましたよね?)を当時の舟・航海技術で自由に行き来できたとは、容易に納得できないです。どのようにやったのか。また、おそらく事故、死者も多く出たはず。日本列島を海外沿いに行き来するのとは訳が違います。それを押しても渡ろうというインセンティブがどこにあったのかも併せて調べられればと思っています。ヤタローさんからは人口爆発の示唆がありましたが、縄文時代に人口が爆発的な増加とそれに続く急激な減少があったのは東日本(三内丸山が発展途中で放棄されたと見られる理由)であり、西日本、九州ではそのような事情はなかった

    幼稚君この書き込みはいただけない。今まで何度も書き込んでいるが、

    私は人口爆発などの議論を書き込んだ覚えは全くない
    B10000〜5000までの遺跡が
    日本 10000箇所
    半島50箇所 韓国の歴史 河出書房より、韓国学者の見解に基づき書いただけ。

    列島に人がたくさんいたとの客観的事実
    多くの遺跡も、三内丸山遺跡だけでなくさらに古い遺跡も、年代別、出典を明記し書き込んでいる。

    また
    九州産の黒曜石沖縄で発見。
    対馬腰高産黒曜石、釜山東三洞貝塚で発見
    隠岐産黒曜石、ウラジオストクで発見
    糸魚川産ヒスイ、北海道で発見
    糸魚川産ヒスイ、新羅王朝黄金の王冠の飾り付けで大量に使用

    遺跡に年限、東三洞貝塚は6000年前
    半島の学者学が韓国の歴史 河出書房で述べている、朝鮮人の先祖は4000年前に
    来たとの年限より古い遺跡で明確に述べている。

    列島縄文人は海洋民族であったとの明確な証であろう。
    この前提条件を無視した議論ではいささか、自分の持論を通すための強弁のように、感じる。

    これであれば今後の議論は価値のないものと考えるしかない。

    私の肌身の体験、福岡から釜山へ、ビートルフォーバークラフトで2時間半で移動した感覚では、太古の昔より、船で縄文人が移動していた事を実感している。
    最後に付言するが、韓国南部から、内閣府職員がゴムボートで北九州まで、冬の海を渡リ、お亡くなりになっていた事件が去年発生している。
    冬の玄界灘ではなく、季節を選び、対馬、壱岐経由であれば、容易であったはずである。

  6. 【3950260】 投稿者: 二俣川  (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 01月 06日 22:59

    縄文人が海岸近くで漁労していたことは当然だが、
    それをもって荒波の玄界灘をわたって朝鮮半島に出入りできたとは、
    私には考えにくい。
    実際にその後の遣唐使でさえ、その多くが渡航に失敗している。

  7. 【3950265】 投稿者: 二俣川  (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 01月 06日 23:02

    >朝鮮民族が日本の発展に関わったなどと誰も思っておらん。

    渡来人の多くは朝鮮半島からの人々である。
    ちなみに、戦時中に外務大臣を務めた東郷茂徳氏もその末裔として知られる。
    思想的立場はともかく、史的事実は客観的に認めるべきであろう。
    それでは、皇国史観の悪癖の二の舞である。

  8. 【3950269】 投稿者: 自由  (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 06日 23:04

    外国人はスルー


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