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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3999998】 投稿者: 遊び  (ID:mVV5ncP339M) 投稿日時:2016年 02月 14日 21:26

    暇なおじさんさま

    いま、中沢新一の『精霊の王』を読んでいます。「シャグジ」。縄文時代からの流れのある、国家による支配を受けたことのない、芸能を見守る存在。まだ読み始めたばかりで書くのも憚られる段階ではありますが、暇なおじさんさまならば通じておられるだろうと、指針を戴きたい気持ちもこめて・・・

    以前、能は男女の区別なく守られるべきもの、というご意見を拝見したかと思います。読み始めでの未熟な意見で申し訳ないのですが、シャグジが男の子、胞衣が女性であることを考えると、女性は前に出てくる存在ではなく、あくまで男子を守る存在で、芸能を現出する存在としては男子が重視されるのではないかと、期待しつつ読んでいるところです。

    また、世阿弥よりも金春禅竹に関心を持ちました。金春は、シャグジを日本に止めず、遠くローマのシーザーの逸話にまで思いを馳せて、思考しているそうです。次は『明宿集』を読むことができたらなあ、と思っています。『明宿集』は昭和39年に見つかったというお話です。歴史は、妄想、修正、妄想、修正、の繰り返しなのでしょうか・・・

    NHKの番組はいかがでしたか?私は見ることができなくて残念でした。

  2. 【3999999】 投稿者: 自由  (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 02月 14日 21:26

    冷静にかんがえると君

    本居宣長についてほとんど予備知識がなく話についていく実力も無いのであるが、

    家内と高千穂峡→霧島と国内旅行をしたこともあり、図書館で「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」(梅原猛 新潮社)に興味を持ち、借りてきたのだが、旅行でいく道いく道、神話がぎっしり詰まっていることに驚いた次第。
    本に収録されている地図や写真を楽しみなが、古代を徘徊している。

    ご存知のとおり、天孫降臨の場所は高千穂なのか、霧島なのか議論があるのだが、

    本居宣長は、「古事記伝」ではじめは高千穂に天孫は降臨したが、その後、霧島に移ったという説、どちらも正しいと考えていたらしい。

    まだ、冒頭だが、この本はなかなか面白く、

    なんと、あの構造主義の祖レヴィ・ストロースが、わざわざ日向神話の鵜戸神宮を訪ね、その洞窟のなかで山幸彦とトヨタマヒメが結婚したのは、その風景の美しさで感激のあまり「その通りだ!」と感じたらしい。

    私も国見ヶ丘からの素晴らしい風景に、天孫降臨はこの場所だったに違いないと感じたのだが、梅原猛も言うとおり、証明書付き歴史観では限界があるように感じる。






    >投稿者: 冷静にかんがえると(ID:xJEQvVJOzvw)
    投稿日時: 16年 02月 11日 19:22

    本居宣長の思想は、当時の民衆の生活実態に即したリアリティをその根幹に据えている気がする。「カミ」の概念を天地、人間、自然の三層構造に求め、「漢意(からごころ)」を否定し、「大和心」に依拠すべきだとしたのは、江戸前期の山鹿素行の「中朝事実」にいう「天地の恵みは至誠なりて君子もまた同じ、自戒、徳をもってはじめて万民安らけく、天下万国、平穏無事となれりけり」、いわゆる「天上無窮の神勅」に多大な影響を受けていたと考えるところ。
    宣長が著した「秘法玉くしげ」の一説、「下の非はなくして皆上の非より起これり」。つまり宣長にとって天照大神は、「四海万国を照らす太陽」そのものであった(「近代天皇像の形成」 安丸良夫 著、岩波現代文庫)。
    記紀の綿密な解釈に注力していた本居宣長は、そこに思想としての「君徳」を第一義として考えており、後に天皇を「四海万国の中心たる大君」とした、いわゆる復古神道の平田篤胤とは一線を画す。両者を結び付けるものは、後期水戸学、藤田東湖の唱える「狂狷は国の源」という孟子流の湯武放伐であり、これが幕末の勤皇志士らのいわば大義名分となったことは否めない。

    南方系(シンガポール、ボルネオ島など)の類話では、この鰐の背渡りはことごとく成功しているのに、我が国の古事記では失敗譚としているのはなぜか。
    八上姫をめぐって争った八十神の間違った教えに苦しむ兎を救う大国主命を登場させるためではないか、ということ。つまり「君徳」の体現者として大国主命を描くに、この背渡りは一度、失敗させる必要があったというわけである。

    その通りで、神話ひとつとってもその背景に当時の人々の思想、史実(海人族との軋轢)など、諸々の時代背景を窺い知ることが可能となる。
    既に神代記から「君徳」を見出していた宣長は、やはり秀逸な思想家であったというべきだろう。

  3. 【4000024】 投稿者: 遊び  (ID:mVV5ncP339M) 投稿日時:2016年 02月 14日 21:39

    自由さん

    中沢新一氏は、網野善彦氏と縁続きでした。ネットって凄いな。図書カードで文献を探していた時代では、なかなか行き着かない情報に数秒で辿り着く。

    中沢新一氏は、私が学生の頃はホープでした。
    人生、いろいろあるのですね・・・

  4. 【4000056】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 02月 14日 21:57

    冷静にかんがえるとさん
    安曇族と徐福(亀山勝)を読み終わりました。紹介ありがとうございました。
    その中で、強く印象に残ったのは
    対馬〜釜山の間の対馬海流は、大河の流れのように大きな流れがあり
    対馬から釜山までの航路は、8時間前後で横断できるが、
    現代の実験でも、釜山から対馬航路は、渡りきれずにリタイヤしているとの事実
    釜山から対馬の航路は、対馬海流に流されてしまい、隠岐の島から出雲、越地方へ流される可能性があることが、よくわかりました。

    シーカヤックの横断実験で、対馬から釜山、7時間で到達、釜山から対馬に向かった実験では全員リタイヤ。
    1975年に倭人伝研究会があり実験航海、長さ16.5m幅2.2m 漕ぎ手14人
    (水産大学カッター部員)船速2ノットの船、釜山を出て対馬に向かうが流れが早く渡れず。

    マンセー史観の人間達は、半島から対馬は渡れるが、その逆は無理との見解だったが現実は真逆の結果となった。
    私の主張通り、縄文人が6000年前に、対馬から釜山に進出し、東三洞貝塚に九州腰高産の黒曜石、縄文式土器、貝面を持ち込み、それらが出土したと確信した次第である。

    自由さん、冷静にかんがえるとさん、との意見交換は非常にレベルの高い事が納得出来た、誰かが監修してくれれば、本にもなろう。

    最後にもう一度言おう。
    対馬から釜山への丸木舟を使っての横断は可能、7時間もあれば到着
    一方、釜山から対馬の横断は、対馬海流に妨げられ、到着は難しい。
    これこそが自然の摂理であり、現実である。

  5. 【4000065】 投稿者: 自由  (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 02月 14日 22:03

    >中沢新一氏は、私が学生の頃はホープでした。

    いま、本棚をチラッと見たら、

    「チベットのモーツアルト」の文庫本があったよ。


    流行ったよね、

    ポストモダン。

  6. 【4000072】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ  (ID:vSaoLOPenX.) 投稿日時:2016年 02月 14日 22:08

    >現代の実験でも、釜山から対馬航路は、渡りきれずにリタイヤしているとの事実


    そりゃキミ達がそうなるように手を抜いてっからだろ。


    笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑


    w

  7. 【4000411】 投稿者: 今聖徳太子  (ID:eAg3PM10aac) 投稿日時:2016年 02月 15日 02:54

    大体、地味が痩せた朝鮮半島では大きな丸木舟が作れるような大木が育たない。対馬日本列島に渡るにしても舟が無い。逆に対馬日本列島は地味が肥えて大木が沢山育つ。大きな丸木舟を幾らでも作れる。

  8. 【4000412】 投稿者: 今聖徳太子  (ID:eAg3PM10aac) 投稿日時:2016年 02月 15日 02:56

    韓国朝鮮の寒々しい山を見てみよ。

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