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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【4002333】 投稿者: 二俣川  (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 02月 16日 10:37

    (続き、転載)

    このように、資本制生産において、労働力取引の自由は実質的に自由ではない。市民法的には「契約の自由」の形式※①あるも、実態は労働者の所有する商品である労働力を売り、その対価である賃金を得なければ生活を維持できない地位に労働者はおかれる。
    ゆえに、労働力の買い手である使用者の示す不当に安価で不利な労働条件をも甘受せざるを得ない。これは、上述の労働契約に隠蔽された本質である。すなわち、「自由な契約の建前で以って、真の自由を売り渡す※②」ことになる。

    労働者の唯一の商品である労働力は、売り惜しみ、すなわち有利な条件で販売できるときまで待つことの出来ない性質を有する。しかも、労働力は労働者の肉体や人格とも切りは離すことが出来ない。したがって、労働市場下での取引において労働力の時間決めの使用権は買主である使用者に帰属するけれども、労働力が労働者自身と切り離せない性質上、労働力を売った労働者は買主である使用者の指揮命令下に自己の身体を持ち込んで労働しなければならない。

    ゆえに、労働者にとって労働契約における労働期間等の労働条件は、労働契約の「本質的」内容である使用者からしてする労務指揮権(使用者の指示に従って就労※③)に服す制約として重要な意味を有するものである。

    ※①労働契約の締結は、使用者・労働者の意思の合致(労契法6条参照)とする。
    ※②市民法の原則:「契約の自由」どんな条件でも自由に契約できる。
    ※③労働者は、使用者の指示に従い、債務の本旨に従った履行=労働力の提供をしなければならない。

  2. 【4002384】 投稿者: 自由  (ID:PkaKLZivCeY) 投稿日時:2016年 02月 16日 11:11

    (再掲)

    >自由さん、
    ものすごく近所に書店ができたのでぶらりと立ち寄ったところ、レヴィ・ストロースの本が平積みされていたので購入しました。


    1960年代に無敵だったサルトルをレヴィ・ストロースは論破した。それは、西洋中心主義の進歩史観の否定であった。

    小林秀雄氏が、
    歴史なんて進歩はしない、ただ変化するだけと言ったのは、そのことと相通じる。

    そういう目線で読むと面白いと思います。

  3. 【4002514】 投稿者: 二俣川  (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 02月 16日 13:02

    そもそも資本制生産とは何か。
    マルクスは、『資本論』でもって一般的にそれを解明した。
    すなわち、資本制生産は商品たる生産物を生産するのみならず、剰余生産物を生産し剰余価値を生み出すことを目的とする。この資本の維持・増殖によって生産活動を発展させる。
    他方、資本家は労働者の労働力を利用・消費してこの価値を生産する。

    当然資本家はいっそうの剰余価値増大を志向する。その結果、労働者自身による労働力再生産に必要な日々の維持費以上の多くの労働力を引き出しを画策する。
    すなわち、前述労働者による労働力維持のために必要な生活品を得る労働時間以上の労働を資本家は要求する※①。
    その結果、当該剰余時間が生み出す超過価値を生産手段を所有する資本家が横取りしてしまうのである。

    したがって、仮に資本家が労働者から提供された労働力の価値に応じた賃金を支払った場合であったとしても、前述剰余価値を「合法的に」独占することにできる※②のである。


    ※①奴隷制や封建的身分制を否定した近代ブルジョア法では、「契約による『合意』」を仮装して行われる。しかし、市民法が前提とする契約の前提となるはずの平等が、労働契約においては形式的なものに過ぎないことはすでに指摘した。
    そこに、市民法の原理とは異なる社会法としての労働法学や労働契約の独自性が見て取れる。
    ※②「搾取」である。

    (私の書き込みからの転載)

  4. 【4002522】 投稿者: 二俣川  (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 02月 16日 13:07

    マルクス経済学をもって、「アカ」呼ばわりとは・・・呆
    『資本論』を手にすらせず、批判もできなかろう。

    小保方問題は、社会科学上の重要な論点を提供している。

    (転載)

  5. 【4002599】 投稿者: 自由  (ID:PkaKLZivCeY) 投稿日時:2016年 02月 16日 14:14

    うるさい。

    ここは歴史はロマンスレ。


    アカ爺さんのアジ演説などに用はない。

  6. 【4002764】 投稿者: 二俣川  (ID:.rTUz8674M2) 投稿日時:2016年 02月 16日 16:31

    使用者(資本家)に対する労働者の従属労働を強制する口実となるもの、
    それが「対等な個人が自由なる意思に基づき合意した」との建前で仮装するブルジョア法的市民法としての労働契約である。
    その結果、この自由意思主体=人格のマスクの裏にもう一つの人格が隠されることになる。
    すなわち、剰余価値を生産する生きた賃金労働者との不自由な意思なる主体である。

    このことは、当然ながら小保方氏らの如き知的労働者らにも該当する。
    すなわち、「スタップ細胞」発見に関する研究者らの商品としての労働力(剰余価値)は使用者(理研=アベ政権)に搾取される。
    ゆえに、当該細胞の所有権も使用者に横取りされてしまう仕組みになっていた。
    スタップ細胞の生み出す輝かしい果実、すなわちその膨大な経済的利潤は、
    アベが夢想する『富国強兵』政策の原資に費消される運命にあったものである※。

    プロ・レーバー法学の泰斗、沼田稲次郎・元東京都立大学総長はこの労働契約の本質につき、
    次のように述べておられる。

    「(前略)労働力の使用過程=労働過程における他人の命令指揮への従属という一般的類型に含まれている。機械体系や工場体制による組織的な労働力処分=命令指揮への従属はもとより典型的従属形態であるが、手工業や商業における労働者においても、また家内労働者においてもその労働過程において、封建的従属の要素をすら混入せしめ、他人の指揮命令への従属が実現せられているのである。

    労働法が労働の従属性としてとらえるものは、まさにこの様な他人の指揮命令への人格的従属、即ち、労働力の使用者は労働者自身ではなく雇主乃至使用者であるという事実に他ならない。これは資本制社会における雇用労働の一般的な形態であろう。『労働法論序説』162頁」(勁草書房)

    ※その報酬として両者事前に談合済みであった理研への法的特権付与の企みを見よ。

    (私の書き込みからの転載)


  7. 【4002937】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:ciLNYI09E3s) 投稿日時:2016年 02月 16日 19:19

    ヤタローさん

    >安曇族と徐福(亀山勝)を読み終わりました。紹介ありがとうございました。
    その中で、強く印象に残ったのは
    対馬〜釜山の間の対馬海流は、大河の流れのように大きな流れがあり
    対馬から釜山までの航路は、8時間前後で横断できるが、
    現代の実験でも、釜山から対馬航路は、渡りきれずにリタイヤしているとの事実
    釜山から対馬の航路は、対馬海流に流されてしまい、隠岐の島から出雲、越地方へ流される可能性があることが、よくわかりました。

    ああ、よかったです。入手したにも関わらず忙しさにかまけて、わたしはまだ読了していません。
    そういえば民俗学者でフィールドワークを信条として古代船、漁法を研究されていた故宮本常一氏は、丸木舟のみならず船梁を用いた筏舟が、実は縄文時代中期ごろより用いられていたのではないか、という仮説を立てられています。いわゆる船住まいを可能とする海上民の存在ですが、かつて香港、マカオを中心として水上生活を営む蛋民(たんみん)の源流となるもの。
    いわゆる日本海文化圏も沿海文化というものの一態様で、「船を以て家と為す」記述は既に漢書五行詩にも見られ、東シナ海沿岸域を中心と交易に早くから着目したのは米国人類学者のヒルドレッド・ギアツ(プリンストン大学)だそうです(「海人の伝統 ー日本の古代(8)」大林太良編、中公文庫)。
    沖縄のサバ二、山陰のソリコが各々、南洋、北陸へ船足を伸ばしていたことに鑑みると、居住性を有した「家船」の存在は漁労海域の広さにも結び付き、東シナ海に向けて出港したならば対馬海流に戻される形で、かつての耽羅王国(済州島)を経由して朝鮮半島南岸に向かうことも可能だと考えるところ、その逆ルート、つまり江南、海南から耽羅王国、日本海ルートが例の徐福伝承と重なるのもひじょうに興味深いと思っています。

  8. 【4002945】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:ciLNYI09E3s) 投稿日時:2016年 02月 16日 19:24

    自由さん

    >本居宣長についてほとんど予備知識がなく話についていく実力も無いのであるが、
    >家内と高千穂峡→霧島と国内旅行をしたこともあり、図書館で「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」(梅原猛 新潮社)に興味を持ち、借りてきたのだが、旅行でいく道いく道、神話がぎっしり詰まっていることに驚いた次第。

    いやいや、ご謙遜、、それにしても共働きの我が家にとっては、国内旅行と言えどもなかなか実現せず、うらやましい限り。
    本居宣長は「紫文要領」で、例えば源氏物語を真に理解しようとするならば、これと同じ文章が書けなければならない、頭で理解するのみならず心で理解するべきと説いたというが、そういった読みの深さ、経験の沈殿が彼の自信となって顕れているのではないかと考えるところ(小林秀雄の原文主義もこれと通じるものがあろうが)。
    いったい、30年近くも鈴屋に籠って古事記の研究に赴かせたエネルギーの源泉は何だろうか、、
    そこには「万葉集」の研究に生涯を費やした師、賀茂真淵の遺志というものもあるかも知れないが、やはり徳川幕府が林羅山以降重用した、儒学への対抗心というものが第一義的にあったのだろう。
    とはいうものの、「皆善悪の神の御はからひ」として仏教、儒教の活用、当時流行の西洋書物輸入について否定するわけでもなく、そこには徳川治世に対する現実的な「配慮」というものも伺える(もちろんこれによって、彼の思想価値というものが減殺されるわけではないが)。当時の社会実態に即したリアリティを擁護するものだったのだろうと思う。

    >あの構造主義の祖レヴィ・ストロースが、わざわざ日向神話の鵜戸神宮を訪ね、その洞窟のなかで山幸彦とトヨタマヒメが結婚したのは、その風景の美しさで感激のあまり「その通りだ!」と感じたらしい。

    レヴィ=ストロ―スの神話分析は二元論的な対立項を前提にこれを中和、あるいは超越する「何か」を見出すことに主眼が置かれていたと思うが、そこに普遍的な「何か」を求めるならば、どうしても比較論的にならざるを得ないと考えるところ。余談となるが思い浮かんだのはアランドロン主演の「太陽がいっぱい」のラストシーン。つまり「お天道様がみているぞ」という人類共通の性善的な深層心理。本居宣長のいう「四海万国を照らす」というのはこのような意味合いも包含しているのだろうか。仮にこれを普遍的な「何か」とするならば、孟子流の「漢心」を観念論として批判していた宣長自身が、実はその思想形成の影響を受けていたのではないか、あるいはこれを「日本流」に説き起こそうとしたところに、古事記研究のエネルギーの源泉が垣間見えるというのは穿った見方だろうか。

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