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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3945079】 投稿者: 自由  (ID:o7bhkH5F2g2) 投稿日時:2016年 01月 01日 00:14

    いやいや、私の方が先。

    完全勝利


  2. 【3945118】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 01日 06:42

    スレ主殿、皆様方
    新年明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いします。

    歴史とは現在と過去の対話である。川が流れる如く、真実と真実が糸が繋がるように、連綿と続いてきたと考える。
    一つの事実を都合よく捏造しても前後の事実から、推察する事ができる。
    科学の進歩とともに、真実が解き明かされる年になる事を願ってやまない。

  3. 【3945123】 投稿者: 自由  (ID:o7bhkH5F2g2) 投稿日時:2016年 01月 01日 07:47

    天武のことを単に天皇と表記しており、
    当初は、天武=天皇だったらしい。

    天智のときに唐・新羅軍に敗れた倭国が、
    天武が自らを天皇と名乗り、国号(王朝名)を日本と定め、
    大宝律令へと体制を整えていくわけだけども、

    個人的には、これは易姓革命、王朝交代じゃないかと推察するわけね。
    ゆえに、天智と天武の血縁関係も、本当はどうなのか?と考えてしまう。

    だけども、記紀に天智と天武は兄弟としたのは、天武の意思だから、
    天智までに至る系統の血縁カリスマを無視できなかったということか。

    そのへんが、なかなか興味深い。

  4. 【3945126】 投稿者: 自由  (ID:o7bhkH5F2g2) 投稿日時:2016年 01月 01日 08:10

    もうひとつ興味深いのは藤原氏で、

    天武の時代に、飛鳥浄御原令、天皇、日本、大宝律令と体制を整えていくシナリオを書いたのは藤原不比等ではないかと思わる。

    大化改新で天智から功績を評価され中臣鎌足が藤原姓を受けるが、その従兄弟が壬申の乱で大友皇子につき天武の時代に没落。
    しかし、その後、不比等が頭角を現し再興していく。

  5. 【3945285】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:doT.ilaxj3U) 投稿日時:2016年 01月 01日 12:39

    ひまわりさん、みなさん、あけましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願い申し上げます。

    去年12月よりシドニー・羽田間の直行便がANA、カンタスで運行となり、ひじょうに楽になりました。羽田の国際線からはタクシーも定額運賃で利用でき経済的にも時間的にも負担が軽くなり、日本での初日の出に間に合った次第。去年の乾通り公開、あまりの混雑で紅葉観賞を断念した経緯もあり、明日は数年ぶりに一般参賀に出かける予定です。

    ヤタローさん

    >歴史とは現在と過去の対話である。川が流れる如く、真実と真実が糸が繋がるように、連綿と続いてきたと考える。
    一つの事実を都合よく捏造しても前後の事実から、推察する事ができる。
    科学の進歩とともに、真実が解き明かされる年になる事を願ってやまない。

    おっしゃるとおり。そしてその糸を繋げるものは我々現代に生きる者の知的関心、好奇心であろうと思います。わたしは古代から現在に続く連綿と連なるこの国の在り様を、これからも見つめていきたいと考えているところです。

    >自由さん

    「天皇」号の由来について、わたしは津田左右吉の「天皇考」に従い推古朝30年(622年)天寿國繡帳の銘文に「天皇」が出てくることから、この辺りを上限としてみてよいのかなあと考えていたところ、三回目の遣隋使で小野妹子にもたせた国書、すなわち例の「東の天皇、謹みて西の皇帝に・・」という書紀の記載、推古朝16年(608年)まで遡ってみることが妥当ではないかと思い始めている。「天皇」の称号については律令と冊封よりの自立という二面性があるという前提で自立王権の宣言としてみれば、「天皇」と「王」との峻別に政治的決意と意志を見出したいところ、国内向けの律令とは分けて考えるべきだと思うがどうだろうか? この姿勢は「大化」以降自前の年号を使用しはじめたこととも無関係ではなく、「天授」を唯一の例外として一貫して冊封下王権の下、高麗、李朝を通じて中国皇帝の年号を奉じていた朝鮮「王」朝とは明確に区別されるべきで、冊封体制からの自立、これが重要な意義だと考えるところ。
    一方、「日本」という国号についてはおっしゃるように「倭」からの変更を、飛鳥浄御原令をもって定めたという見方が出来ると思う。具体的には持統三年(689年)ということになるが、「倭国」という語自体は上限を書紀の記事で天武3年(674年)に見いだせるところ、下限を大宝律令(701年)とすれば、この間の何れかの間ということになる。ただ国号問題は大宝元年の遣唐使に重点がおかれ新・旧唐書に依拠する論説が多かったように思うが、この674年から701年の間に遣新羅使を通じて「日本國」が使用された可能性も捨てきれず、持統3年(689年)新羅の弔使の上奏文、「三国史記」新羅本紀(698年)に「日本國使至、王崇礼殿に引見」という記事があるとのこと(「日本の国家形成と天皇」、高森明勅寄稿文、月刊「日本の息吹」平成11年10月号)。
    唐より早く「日本」号が伝わっていたとするなら、上記対外表明の意義からこの間9年間に絞れそうな気もする。

  6. 【3945296】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 01日 13:00

    レベルが上がった内容は大歓迎です。

    実は、推古天皇の話は承知していたが、これが事実なら証明できると考えていた

    法隆寺の金堂に安置されている国宝の薬師如来像の光背銘には、「天皇」銘が3ヶ所刻まれている。その内容は「用明天皇が病気になられた時、丙午の年(586年)に推古天皇と聖徳太子を召して、病気平癒のため寺を造り薬師像を作ることを請願されたが、それがかなわぬまま亡くなられた。そこで、推古天皇と聖徳太子が、丁卯の年(607年)に作り奉った。」とある。用明天皇は「池辺大宮治天下天皇」、推古天皇は「小治田大宮治天下大王天皇」「大王天皇」、聖徳太子は「太子」「東宮聖王」と刻まれている。

  7. 【3945303】 投稿者: 自由  (ID:o7bhkH5F2g2) 投稿日時:2016年 01月 01日 13:47

    >「天皇」の称号については律令と冊封よりの自立という二面性があるという前提で自立王権の宣言としてみれば、「天皇」と「王」との峻別に政治的決意と意志を見出したいところ、国内向けの律令とは分けて考えるべきだと思うがどうだろうか? 

    >この姿勢は「大化」以降自前の年号を使用しはじめたこととも無関係ではなく、「天授」を唯一の例外として一貫して冊封下王権の下、高麗、李朝を通じて中国皇帝の年号を奉じていた朝鮮「王」朝とは明確に区別されるべきで、冊封体制からの自立、これが重要な意義だと考えるところ。


    すなわち、天皇号、元号を通じて冊封体制からの自立の萌芽が推古朝16年(608年)まで遡れるとのこと、たしかに百済救済をめぐる天智の姿勢を見ても、その強い意思が伝わってくるようである。

    そのように考えれば、日本・天皇という作品はなにも天武が作ったものではなく、歴代の大王からの時代の連続性のなかで生まれたことは疑いようがない。

  8. 【3945356】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 01日 16:07

    大化改新で天智から功績を評価され中臣鎌足が藤原姓を受けるが、その従兄弟が壬申の乱で大友皇子につき天武の時代に没落。
    しかし、その後、不比等が頭角を現し再興していく。

    古代史を考えた場合、邪馬台国はもちろん、いろいろ話題は尽きないが
    日本の歴史2000年と考えた場合、前半1000年の明らかな勝者は、藤原氏だ
    大王家、蘇我氏、物部氏が鼎立状態で日本の政治歴史を動かし
    藤原氏の前進中臣氏は、蘇我 物部のはるか後塵の神官。
    物部氏が消え、蘇我氏が消え、大宝律令の後、450年間は時代の主役であった。
    (平清盛武家の台頭まで)

    陰謀渦巻く時代 物部氏と蘇我氏のつぶしあい、蘇我氏滅亡、壬申の乱を生き抜い
    ただけはある、
    長屋王、橘奈良麻呂、伴善男 、菅原道真等何人陰謀に巻き込まれ葬り去られた
    天皇の外戚になり、祈りの象徴権威に祭り上げ、政治の実権を握った
    執念を感じさせる。藤原氏の台頭である。

    藤原不比等により律令、国史の編纂は、蘇我氏を全否定、藤原氏を有利にする編纂が行われた事は間違いない事であろう。

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