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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【3952988】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ (ID:QmwxIbpFZfg) 投稿日時:2016年 01月 09日 16:24
>陽が東から昇り、地球が自転する事実にいまさら証明が必要か。
ほんとですよね。笑
ま、陽が実は西から昇る新発見があってもいいが、教科書を書き換えてからにして欲しいものだ。笑
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【3952990】 投稿者: 冷静にかんがえると (ID:sPXieD99c5w) 投稿日時:2016年 01月 09日 16:25
イワンのばか さん
二度目の問いかけなので、それではレスをさせて頂きます。
◇「水稲」が日本人の暮らしを変えた。
◇水稲がどうやって日本にやってきたかについてはいくつかの説があり、そのなぞは完全には解かれていない。
◇朝鮮半島では三千年前も前から水田の稲作りがふつうにおこなわれていた。
◇水稲が朝鮮半島からやってきた証拠とされる水田跡が九州北部(菜畑)でみつかっている。
これがあなたのおっしゃる「通説」ですね?
わたしがこのうち「通説」としてよいと思うのは、2つ目の「なぞは完全に解かれていない」とする部分のみ。以下がその根拠です。
1、稲作が日本人の暮らしを変えた
変えたのは間違いありません。では「変えさせた」のはだれか? 暮らしとは稲作を前提とする農耕文化、つまり農事歴、祭祀と大きな関係があります。農耕文化は生産技術、小規模開墾といった実利的な面と豊穣祈願の祭祀儀礼、あるいはこれを通じた農村生活様式などに及ぶことは以前に書きました。 再掲します。
古来、生活様式全般に影響を及ぼしたとされる祭祀儀礼については、我が国古来の「ニイナエ」が朝鮮半島経由の文化伝来に基づくものとはとても考えられない。むしろ朝鮮半島(現韓国辺山半島あたり)の竹幕洞遺跡出土品で祭祀に用いられたであろう石材は、5世紀を中心に倭国のものであったことが判明している(「歴史書通信」2014年1・2月号、西谷正 九州大名誉教授)。
翻って我が国の新嘗(ニイナメ)の母胎である「ニイナエ」は纏向遺跡出土品より弥生前期にまで遡れる。しかも畿内に留まらず関東、山陰、北陸で用いられた石材が同時埋葬されたことも判明している。
以上から、影響を与えたとするなら伝播ルートはむしろ逆で、倭国から朝鮮半島へと伝播したとみるべき。少なくとも朝鮮民族が「変えさせた」という説を、わたしは採りません。
2、朝鮮半島では三千年前も前から水田の稲作りがふつうにおこなわれていた
仮にそうであったとしても、ここで話をされている朝鮮半島伝来説と結びつくものではありません。既にヤタローさんご指摘済みでわたしはこの見解を支持します。
3、水稲が朝鮮半島からやってきた証拠とされる水田跡が九州北部(菜畑)でみつかっている
これも「恣意的」な書き方ですね。せめて「経由」と書くべきでしょう。稲作自体が、稲作の発祥地を長江中・下流域として朝鮮半島南部からの伝播、長江下流域・江南地方からの直接伝播の可能性にかかることは明らかになっていること。
「朝鮮半島からやって来た」ということと、「朝鮮民族が伝えた」ということは意味合いがまるで違います。
イワンのばかさん、菜畑遺跡に行かれたことはありますか? 末蘆館という資料館があります。なぜ「末蘆」なのか、、この地域が魏志倭人伝の「末蘆国」に比定されているからです。陳寿が「朝鮮人」だったという説は寡聞にして知りません。
さて、翻って先のわたしの引用、
「日本では、縄文時代後・晩期には中国伝来の水田稲作が行われていた可能性が高いことが、近年の研究で分かっています。」
どちらが客観的で学問的に誠実なのか、わたしの答えは明らかです。 -
【3953009】 投稿者: ヤタロー (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 09日 16:40
末蘆館という資料館があります。なぜ「末蘆」なのか、、この地域が魏志倭人伝の「末蘆国」に比定されているからです。陳寿が「朝鮮人」だったという説は寡聞にして知りません。
末廬国→末路国→松浦 松浦水軍を率い、江戸時代も大名として生き抜いている。
そして陳寿は魏からの使節であり、魏志倭人伝の邪馬台国の内容は、魏人である
陳寿の見聞を伝えたものである。
魏志倭人伝では半島南部に倭人、倭種ありとの表現あり。
邪馬台国には、一大卒という、役職あり、伊都国におき多くの国に睨みを利かせていたと思われる。そこに陳寿が逗留した可能性も大いにあり
この一大卒の置かれた場所が、後の太宰府、博多鴻臚館、吉野ヶ里遺跡名等
諸説あり、いずれにしても、魏の国人 陳寿が滞在したのは間違いないと思われる。 -
【3953032】 投稿者: まー (ID:c0hj5yZ.tVw) 投稿日時:2016年 01月 09日 17:01
興味が湧き調べてみました。
後漢から魏の国まで、朝鮮半島に、帯方郡楽浪郡を直轄地として支配してますが、その気になれば、半島全土を支配するのは容易い事だったと思いますが、なぜ支配しなかったのでしょうか?
支配する価値がない未開地だったからかな
倭国の黒曜石、ヒスイは、当時の中国王朝にも大変珍重されたようですから、そのための出張所と考えた方が良さそうですね。 -
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【3953044】 投稿者: ヤタロー (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 09日 17:11
邪馬台国の使者は、通常は、楽浪郡まで行って挨拶及び、貢物を持参していた
と思われる。
そこから魏の役人に連れられ、都まで行った様子も魏志倭人伝には記されていたはず。その際に新魏倭王の金印を授けたと思われる。 -
【3953077】 投稿者: まー (ID:c0hj5yZ.tVw) 投稿日時:2016年 01月 09日 17:42
前方後円墳の話はまさにその通りですね。大仙古墳仁徳天皇陵の規模はハンパないですね。
これを仁徳天皇陵じゃないと、喜んで書き込む人いますけど、それは論点じゃないですよね。
あの時代に、強力な畿内王朝が中央集権体制を確立して、486mの前方後円墳を作成する、財力、技術、人員を動員できた事実が大事ですもんね。
仁徳天皇でなくても、他の天皇陵である事は間違いないですから
半島の古墳はこの時代から、100年後に出来、規模も76mではかなり小さいですね。
日本倭国から伝わったのは間違いないと思います。 -
【3953085】 投稿者: 冷静にかんがえると (ID:sPXieD99c5w) 投稿日時:2016年 01月 09日 17:52
>魏の国、陳寿
その通り。これが「太陽が東から昇る」ということ。
>魏志倭人伝では半島南部に倭人、倭種ありとの表現あり。
先に書いたが、三国史記の新羅本紀は二代王南解の長女を娶った人物が倭種であることを示唆している。大輔(総理)にまで登用された脱解で、後の四代目王である。彼が王位を継いだ時に大輔に任命した瓠公(ここう)は倭人である。
つまり倭種・倭人が統治する国、新羅ということ。 尚、新羅本紀に登場する九代王伐休も倭種(脱解直系)であるとされている。個々人の業績を描いた列伝の中で唯一、「農業専門家」として取り上げられている人物である。その南方は伽耶諸国、つまり任那。半島南岸に沿って農耕文化が百済に伝播したか、あるいは東から西への直接ルートかはわからぬが、半島内の伝播ルートもまた興味深い。 -
【3953109】 投稿者: ヤタロー (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 09日 18:04
日本書紀には、大伴金村が高句麗に領土を奪われた百済からの要請で任那4県を
割譲した話しが出ている。
大王の次の絶対権力者であった大伴金村であるがこれが原因で失脚している。
その後、物部氏が権力を奪取し蘇我氏へと時代は続く。
魏志倭人伝、宋書倭国伝、広開土王碑、日本書紀、三国史記にはその時代におきた事がちゃんと記されているのである。
一つの出来事を捏造だと偽り葬り去ってもその前後から類推できる。
科学の進歩があってこそである。さらなら真実が次々と明かされるであろう。
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