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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【3954497】 投稿者: 暇なおじさん (ID:d9V8L0TGNtk) 投稿日時:2016年 01月 10日 20:46
最近時々話題に出る縄文人の生活は今の人が思ってる以上に豊かだったのではない
かとの話が何となく想像出来るようになりました。古代の遺跡や遺物の発掘や、特
に稲作がずっと進んでいた可能性が高まった事が大きいんでしょうかね。私もあまり
知らなかった縄文人の生活や、想像されていた以上の稲作文化、魚介類などの食
生活が古代日本人のルーツにおおきく影響していた事でしょう。だから日本人は素
直な豊かな文化を作る素材が出来ていたのかと、いろいろ想像は膨らみますね。
多分風土的に稲作にあまり適さなかった半島の人は我慢強さやハングリー精神が
培われたのかな、とも思います。スポーツ等の成績はすばらしいですから。
ずっと昔ですがソウル大卒のエリート(多分)の研修生達と接していた時もありま
したが、少し暗かったですがすごく礼儀正しかったですね、お酌をするのも肘に
手を当て、堅苦しいくらいだったです。正月3日にビルが閉まっていたとクレー
ムを言ってきたのは面白い思い出ですね、休みならカレンダーに記すべきだ、と
一生懸命言ってました。 -
【3954606】 投稿者: 源氏川 (ID:jlTHqg6q/qw) 投稿日時:2016年 01月 10日 22:25
今話題になっておる。縄文時代は、研究が十分進んでおらじゃろ。
わしが子供の頃は、縄文人とは穴居人に近いイメージじゃったが
今は、だいぶ豊かな生活をしておったようだとわかりつつ有る様じゃな。
教科書に書いてることが定説なら今後もその定説も
ころころ変わってゆくじゃろ。
ころころ変わる定説(笑)。つまり仮説と殆ど同じ。(笑) -
【3954841】 投稿者: 自由 (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 11日 08:12
もう一度教科書を再掲して、日本の稲作の伝播ルートの話を整理すると、
1985年発行のものは、「山東半島付近から朝鮮半島の西海岸にわたり、半島南部をつうじて日本に伝わってきたという説」を有力と書いていた。その理由は・・・「インデカが日本にみられないことや、弥生文化の大陸的要素の流入ルート」。
だけども倭国の気候に適したジャポニカが定着しても全然おかしくないし、弥生式文化の大陸的要素の流入ルートもなんだかあいまいである。この記載は、2013年発行のものでは削除されている。
2013年発行のものは、 「弥生時代の水稲耕作の技術が朝鮮半島南部から伝えられたことは、それと共存する各種の遺物が共通することからも確実」と書いている。これは考古学的に朝鮮半島南部と北九州の遺跡の水田跡と石器が似ているからだが、だからといって伝播ルートの可能性は、A.朝鮮半島南部→北九州、B.北九州→朝鮮半島南部の双方のルートがありえるわけで、A.だけを確実とする決定的証拠はない。まあしかし、この教科書の記載は、A.オンリーではなく、A.orB.の双方ルートを否定しておらず、うまく書いている。
また、以上は「弥生時代」の「水稲耕作の技術」の話であって、それに先立つ縄文時代に、「およそ2700前と想定される縄文時代の終りころ、朝鮮半島に近い九州北部で水田による米づくりが開始された」と記載している。
「弥生時代の水稲耕作の技術」をうんぬんする以前に、「佐賀県菜畑遺跡・福岡県板付遺跡など西日本各地で縄文晩期の水田が発見され、水稲稲作がはじまっていた」のである。
当然ながら、この縄文晩期の倭国の水稲稲作、が朝鮮半島から伝播した証拠はない。
「朝鮮半島に近い九州北部」という言葉はなんだか意図的。
これは二俣川のような人物もいるので配慮したのではないか。
しかし、いずれにしても、
以上を踏まえると、
二俣川の言う「通説的見解」なる言葉、その内容は意味不明、支離滅裂である。
【歴史教科書】
①「詳説日本史 改訂版」(山川出版社)1985年3月5日発行
「稲の源流」(16頁)
中国からの日本への伝来ルートについては、大きくみて二つの説がある。
一つは、長江下流域から直接海をわたって伝わってきたという説であり、他は長江下流域から北上し、山東半島付近から朝鮮半島の西海岸にわたり、半島南部をつうじて日本に伝わってきたという説である。
インデカが日本にみられないことや、弥生文化の大陸的要素の流入ルートを考えると、後者の説が有力である
②「詳説日本史 改訂版」(山川出版社)2013年3月5日発行 2006年3月20日文部科学省検定済
「およそ2700前と想定される縄文時代の終りころ、朝鮮半島に近い九州北部で水田による米づくりが開始された」の脚注(12頁)
最近では、佐賀県菜畑遺跡・福岡県板付遺跡など西日本各地で縄文晩期の水田が発見され、水稲稲作がはじまっていたことが知られる。
「水稲耕作」の脚注(13頁)
弥生時代の水稲耕作の技術が朝鮮半島南部から伝えられたことは、それと共存する各種の遺物が共通することからも確実といえる。
イネは本来、雲南(中国)、アッサム地方(インド)に起源を持つが、中国の長江下流域から山東半島付近をへて朝鮮半島の西岸にいたり、さらに日本にもたらされたと考えられる。
このほか山東半島・遼東半島におよんだとする説や、長江下流域から直接日本に伝えられたとする説、南西諸島を経由したとする説などもある。 -
【3954850】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ (ID:c8VRrGoNGOU) 投稿日時:2016年 01月 11日 08:27
>教科書に書いてることが定説なら今後もその定説も
ころころ変わってゆくじゃろ。
ころころ変わる定説(笑)。つまり仮説と殆ど同じ。(笑)
こいつもよくわかってない。その当時の技術と知識でベストだと考えられているから、その時点で区切って検定となるのだ。医学やIT関連もそうだが、権威付けにはタイムラグが必ずある。そこを踏まえてもらわないとな。
但し、誰かも言っていたが、新発見から20年、30年かかって改定されるのは個人的には緩慢すぎないかと感じている。笑
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【3954869】 投稿者: ヤタロー (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 08:54
再掲載、先祖縄文人達は素晴らしい航海術を持っていた
海洋民族縄文人、彼等が船を造ってた証拠 丸ノミ形石斧が7000年前鹿児島
前畑遺跡他から発見。その後九州各地で発見されている。
40もの遺跡から100隻以上の丸木舟も発掘、長崎伊木力遺跡からは外海用の船が
発掘されており、日本列島で160隻以上丸木舟が発掘されている。
外海を渡る技術を持っていた事は明らかであろう。
港川人から10000年遺跡が出なかった沖縄からも縄文遺跡が発見されており、
出土物から、九州から来た事が推察される。
那覇 伊礼原遺跡(6800〜2500年前)からグスク時代(15〜18世紀)まで続く遺跡
沖縄最古 爪形文土器(6800〜6000前)出土
九州 曾畑式土器(5500〜5000年前)も沖縄各地から大量出土 その後も縄文土器は造られ続けた。
沖縄の22遺跡から出土 黒曜石は全て佐賀県産。縄文晩期には
沖縄8つの縄文遺跡から新潟糸魚川姫川産のヒスイが発見。海洋を渡る1500キロ
の交易路が存在した。
この時代、沖縄からは大陸 半島の土器は全く出土していない。縄文時代から
沖縄は大陸 半島とは無縁であり、沖縄県民の祖は、日本列島にいた縄文人という事になる。付言するが昨年発表したDNA遺伝子解析でも裏付けられている。
縄文人は船を操り外海にどんどん出て行った証であり、九州から半島に渡る事など容易い事であった。
以上の事から、列島にあふれていた縄文人が半島南部に進出したのは当然の結果
という事になろう -
【3954892】 投稿者: 自由 (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:22
ご参考までに、ある考古学者の意見から。
「日本考古学の通説を疑う」(広瀬和雄 洋泉社)2003年11月21日初版発行
「はじめに」
大地からの歴史発見が、考古学の最大の魅力であることは、誰も否定しないであろう。・・・ことにここ二、三十年は、国土開発にともなう発掘調査が、爆発的な勢いで日本列島各地で実施されつづけ、これまでに予想だにしなかった歴史発見があいついだ。
・・・
したがって、掘り出された「もの」と「もの」の関係をどう読みとるか、言いかえれば、「もの」に刻印された時間と空間の文脈をどう構築していくかが、次の課題になってくる。そこにこそ人間とはなにか、人間と人間が織りなす社会とはなにか、といった問いにたいする解答が秘められているからだ。
ところが、そういった体系的な研究はなかなかできないから、そうした局面にいたると、それらの代替物として、とたんに既往の通説・定説が登壇してくる。
つまり、掘り出された遺跡や遺物を見て、それらが「昔のものだ」までは誰もが了解できる。ところがそこから一歩ふみこんで、いつの頃のもので、なにに使われたかはともかく、それらが生命をもっていた時代はいかなる性質をもっていたのか、日本の歴史のなかでどのように位置づけられるか、となるとにわかに説明はできない。だから、どうしても広く流布されている通説・定説にもとづいた通俗的な説明になってしまう。
・・・
その結果、「教科書を書き換える大発見」があいついだはずなのに、日本史教科書はいつまでもほとんど変わらない、という情況ができあがってしまう。つまり歴史の大きな枠組みは変更しないわけだ。したがって、国民の歴史意識への変更も要請されない。これはおかしい。
現行の考古学研究のパラダイムを形づくっている通説や定説ーーー通説とは、これといった論証もされていないのに、一見実証不要かのように敷衍されている言説をいう。定説とは、有力な論文があって、それにたいするさほどの反論もなく定着をみた学説をいうーーーは、ほとんどがいまとは違って、資料の少ない時代に形成されたものである。
だからこそあらためて指摘するまでもなく、急増してきた考古資料との整合性をそれらがもつのか、早急に検証する必要がある。 -
【3954895】 投稿者: ヤタロー (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:25
再掲載
韓国の歴史(河出書房新社2002)韓国文化広報部海外広報館 在日本韓国大使館韓国文化院 韓国の世界日報 韓国の25博物館も協力し上梓されたによる。
韓国の歴史によれば、
旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、直接の先祖は約4000年前の新石器時代人からである。そう推定されている。
実はさらっと凄いことが書かれている。旧石器時代人とは日本列島からの渡った人、新石器時代人とは北方中国系だからです。
下記は沖縄から九州に渡ってきた海洋縄文人の流れを記しとく
36000年前 那覇山下町 人骨と石器出土
30000年前 宮古島 人骨出土
30000年前 種子島横峯遺跡 石器群と共に調理址が出土
30000年前 種子島大津保畑遺跡では狩猟用落とし穴が発見(世界類例のない発明)
24000年前 鹿児島耳取遺跡
人々がこの地までやって来た事を物語っている。柳田国男 海の道である。
18000年前 沖縄 港川人骨 その後10000年以上沖縄人の気配が消える
旧石器時代に落とし穴による狩猟が行われ、局部磨製石斧が作成され
とくしつは、土器のないはずの旧石器時代、世界最古級の土器が下北半島
太平山遺跡で作られ、それを使い調理をしていた。九州でも同年代の土器が発見され、日本列島至るところで土器が製造されていた。
北海道の垣の島遺跡からは世界最古の漆器9000年前が発見。
半島など問題外で、中国より2000年も古い漆器である。
卑弥呼の時代より3000年古い高床式建物も青森三内丸山遺跡で発見。5000年前
つまりこの時代日本列島には縄文人が溢れかえっていた。
この縄文人達が半島南部に進出して行ったと推察できるのである。 -
【3954906】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ (ID:c8VRrGoNGOU) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:31
>現行の考古学研究のパラダイムを形づくっている通説や定説ーーー通説とは、これといった論証もされていないのに、一見実証不要かのように敷衍されている言説をいう。定説とは、有力な論文があって、それにたいするさほどの反論もなく定着をみた学説をいうーーーは、ほとんどがいまとは違って、資料の少ない時代に形成されたものである。
検定は当時のものが続いているのだから、改定されるまでは検定済のものを使って構わないではないか。
何をクズっているのだ?笑
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