最終更新:

5518
Comment

【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

返信する

管理者通知をする

マイブックマーク

  1. 【3954910】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:34

    12月27日NHK教科書が変わる 日本人のルーツを探る旅より

    国学院 小林達雄名誉教授によると、新潟馬高遺跡で発見された縄文土器
    火焔土器は縄文中期5000年前頃の物であるが、土器の中におこげあり。
    煮炊き用土器であったとか、スッポン、牡蠣、猪肉、きのこ いも等で、
    煮炊きしてたらしい。焚き火、炎の中に材料水を入れた土器を置き調理
    スタジオで試食していた。
    素材の味、だしの味とゲストも感想語る。現在我々が食す鍋料理の原形である。

    ロンドンのオークションで土偶がなんと19000万円で落札されている
    5000年前の長野尖石遺跡一帯300ヶ所の縄文遺跡から二体の土偶が国宝になっているが、女性をかたどった縄文ビーナス、顔を仮面で隠した仮面の女神
    いずれも妊婦臨月の土偶であり、生命誕生に神秘を感じ、無事を祈った
    縄文人の豊かな心情が現れ伝わって来るかのようであった。

    日本列島、沖縄から北海道、ウラジオストク半島広く伝わる新潟糸魚川産の
    ヒスイについてである、光をあてると蛍光 緑の光を発する。
    当時としては、神秘であり最高の宝石であった。航海術を持ち合わせた
    縄文人が船で運んだ。
    ヒスイはダイヤモンド並みの硬さであるが、石英というこなを竹の先につけ
    切りのように穴を開け、紐を通し、首飾りにしてたそうだ。

    Natureの論文にも縄文時代が取り上げられる時代になり研究が加速している。
    30000年前に海を渡った縄文人の航海術を再現するため当時の製法で船を製作
    台湾から与那国島100キロを横断する実験が、国立科学博物館海部氏を中心に
    人類学者研究グループがおこなっている。
    考古学者グループは従来の定説にこだわる余り動きは鈍い
    しかし、科学の進歩によるDNA解析、稲の遺伝子解析などの結果
    人類学者が貪欲に最先端のパイオニアとなり、さらなる発見が相次ぐと思う。

    近い将来、番組名、教科書が変わる時代が必ず来ると確信した次第である。

    再掲載

  2. 【3954914】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:36

    NHK教科書が変わる 日本人のルーツを探す旅によると

    愛媛九万高原町で7000年前の埋葬された犬の骨発見。
    慶応佐藤孝雄教授の解析によれば、生前歯を失っていた、
    そして一度骨折して治った後があり、狩りのパートナーであった犬が
    狩りをできなくなった後もペットとして飼い続けていたと語る。
    そして死んだ後は家族として埋葬していた。

    7000年前の我等先祖縄文人は、犬を家族のように可愛がり自然と共存した
    素晴らしい共同体であったようである。
    子孫である我々にも引き継がれていると感じた次第。

    犬や熊を人間の悪口として貶める文化は7000年前の先祖縄文人の時から
    我々日本人は持ち合わせていないのである。

    再掲載

  3. 【3954920】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:38

    12月27日 NHK教科書が変わる 日本人のルーツを探す旅によると

    佐賀 東名遺跡より、8000年前の木で編まれた、網かごが700個以上発掘された
    その中から ドングリの実も合わせて出土。
    木で編んだ網かごは、現在で言えばアジアンテイストのトウで編んだ細長い籠であった。使用方法はドングリの貯蔵。ドングリは保存が効かない、実の中に虫が食いやすい。これを防ぐために籠を水に浸しその中にドングリを多く入れ、地面に穴を掘りその中に細長い網かごを入れ、保存していたそうだ。
    水に浸す事で、ドングリに虫が入らず保存が可能になった。

    また平べったい、酸化した炭のような物が合わせて発見。
    成分分析の結果、ドングリクッキーであった。山芋、蜂蜜の成分も検出
    実際にスタジオでは、ドングリ、山芋、蜂蜜を混ぜクッキーを作成
    出演者が食していた。素朴な甘さで好評であった。

    8000年前の我等が先祖縄文人が木籠を編み、ドングリを保存してクッキーを食べていたのは驚きであった。
    その他出土品は、ムツゴロウの骨、牡蠣、すっぽんであり、自然の恵みをふんだんに取り入れ自然と共存していたのであろう。

    日本列島が一番輝いていたのは、通説定説よりかなり古いこの時代であった
    これが私の感想である。
    自然と共存して力強く生きた先祖縄文人は尊敬に値する人々であった。

    再掲載

  4. 【3954937】 投稿者: 自由  (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:49

    (続き)

    第三章「貧しい縄文」を弥生文化が救ったのか

    「優勝劣敗的な歴史叙述」
    これまでの歴史学界には、生産的の増力につれて社会はたゆみなく発展し、やがては「能力にしたがって労働し、必要に応じて分配される」理想的な社会に到達する、といったマルクス主義の発展段階論が歴史叙述の下敷きにあった。そして、古代から封建社会の中世へ、そして近世を経て近代国家へ至ったという道筋は証明不要の「真理」だ、というイデオロギーが蔓延していた。
    ・・・

    「縄文文化いきづまり・弥生文化救済論」
    縄文文化は、食料を生産せずに、採集・狩猟・漁撈の獲得経済ーーー最近では穀類の栽培が明らかになってきたから、網羅型食料獲得経済とみなすのが実態だーーーに根ざし、共同体の規制が強固で停滞しきった遅れた原始的な文化だ。だから稲作を基軸にした生産経済によって克服されるのが「善」であってそれは自明のコースだ、という歴史観がかつては大手を振っていた。
    つまり、無知と迷妄に覆い尽くされたカオスの原始社会が崩壊し、人間が自然を制御した生産経済への移行で初めて文明への扉が開けられた、との解釈が大筋では了解されてきた。そうした発展史観によれば、縄文文化は自立的な文化とは認識されておらず、そうではなく文明にいたるひとつの「前史」にしかすぎなかった。まさしく止揚されて当然の文化とみなされていたのであった。
    かつては「縄文文化いきづまり・弥生文化救済論」が、弥生文化成立論のパラダイムとして喧伝されていた。ほとんどの考古学者はそこから逸脱していなかった。

  5. 【3954942】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:52

    BC10000年前から5000年前まで
    日本列島には遺跡が10000以上
    半島には約50ヶ所

    縄文時代には日本列島には人が溢れており、半島には痕跡がない。
    そして多くの列島の縄文遺跡を私は紹介して書き込んでいる。
    5000年前新潟 馬高遺跡 火焔土器 煮炊き用

    5000年前長野尖石遺跡一帯 土偶
    5000年前青森三内丸山遺跡 高床式建物、
    7000年前愛媛九万高原町 犬の遺跡
    8000年前佐賀 東名遺跡 木籠700個以上発見
    9000年前 北海道で見つかった漆器 中国揚子江より2000年古い
    7000年前対馬 腰高遺跡 隆起分土器

    半島
    6000年前 釜山 東三洞遺跡 大量の縄文土器と九州産黒曜石 西北九州型釣針
    熊本阿高貝塚で出土した貝面とそっくりな貝面が出土
    6000年前 金海水佳貝塚 黒曜石 対馬腰高産である事判明

    以上日本列島に溢れていた海洋縄文人が半島に渡り出した事を遺跡の出土物
    時系列ですでに書き込んでおる。

    この時代中国北方より、現在の朝鮮人の先祖はまだ現れない。
    北方より表れるのは4000年前である。韓国の歴史(河出書房)
    列島縄文人が北上しやがて、北からの勢力に押し込められるように半島南部に追い込まれた。これを百済、任那加羅、新羅と推察しておる。
    これが220年頃に魏志倭人伝に記された、半島南部に倭人(倭種)がいるとの状況
    と一致している。(出典はそれぞれの書き込みに記載済み)

  6. 【3954947】 投稿者: 自由  (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:57

    以上のとおり、

    二俣川の「朝鮮民族制服王朝説」は何なのかといえば、
    文化の高い弥生人(朝鮮民族)がレベルの低い縄文人(倭人)を征服した
    という個人的な願望にすぎない。

    言うまでもなく、その背景には、
    マルクス主義的唯物史観による縄文蔑視観がある。

  7. 【3954950】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 09:59

    中国南部より一緒に伝わったと思われるもの
    (再掲載)

    伊勢神宮には米は斉の御田から天照大神が持ってきた(斉は現在の中国山東省)
    という伝承と山東省地域には一部部族が日本に渡ったとの伝承あり、
    さらに鵜飼に着目した研究から、楚の国(湖南省、湖北省その周辺)と稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省等中国南方でよく見られる鵜飼、日本でも普通に見られる。
    ところが鵜飼の風習は古来朝鮮半島には全くない。台湾、琉球文化圏でも鵜飼の風習は全くないか。この事から最初に米を日本に持ち込んだのは、中国南部の楚に起源を持つ人たちが経由なしに直接日本に伝来させたと思われる。
    そしてその人達が鵜飼も日本全国に広めたと考えられる。

    民俗学者 大林太良東大名誉教授
    魏志倭人伝に記された倭人の風俗は圧倒的に南方的であり、朝鮮半島の風俗は南方的でない。
    神社建築の千木やかつおき、高床式建物、刺青の風習など日本の風習に多くの南方的要素がふくまれる。

    鵜飼以外では、割竹型木管、げた、納豆、生魚を食べる習慣 味噌等、中国江南の照葉樹林地域と同じ文化要素がある。
    日本の弓は朝鮮半島の弓と異なり、南方に同種の弓が分布している。

    日本語は、確率的には、インドネシアやカンボジアなどの言語と偶然と言えない近い関係で、朝鮮語とは疎遠。
    日本語は朝鮮半島南部と九州に倭人がいて、。そこに南からのカンボジア系などの言語が混合して成立したクレオール言語と考えられる。

    くしくも、12月27日NHK 教科書が変わる 日本人もルーツを探る旅にて
    富山で発掘された91体の人骨のDNA採取で、マレーシア半島北部と中国南方地方のが多いとの結果に符合する。

  8. 【3954968】 投稿者: 自由  (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 11日 10:11

    >【3954300】 投稿者: 二俣川 (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:16年 01月 10日 17:18
    固有の「文字」すら持てず、
    竪穴式住居で暮らしていたに過ぎない縄文人ら。
    例えその後の研究で多少の航海が可能だったとしても、
    玄界灘の荒波を超えられる船舶建造技術や航海法を有していたとは、
    到底考えにくい。
    後世の遣隋使や遣唐使らであってさえ、その多くが渡航に失敗しているのであるからして。

    (再掲)

    二俣川の「朝鮮民族制服王朝説」は何なのかといえば、
    文化の高い弥生人(朝鮮民族)がレベルの低い縄文人(倭人)を征服した
    という個人的な願望にすぎない。

    言うまでもなく、その背景には、
    マルクス主義的唯物史観による縄文蔑視観がある。


あわせてチェックしたい関連掲示板

このスレッドには書き込めません

学校を探す

条件を絞り込んで探す

種別

学校名で探す