最終更新:

5518
Comment

【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

返信する

管理者通知をする

マイブックマーク

  1. 【3955065】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 11:23

    ヒスイ製勾玉

    ヒスイ製勾玉(ヒスイせいまがたま)は、勾玉のうちヒスイ(翡翠)でできているものをさす。

    日本産のヒスイを、日本の工房で加工した物とされる。北海道の美々4号遺跡、ヲフキ遺跡、青森の三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡、新潟糸魚川の長者ヶ原遺跡、長野の離山遺跡などから出土しており、縄文中期(BC5,000年)頃から作られていた。特に長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっている。蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており、縄文人が広い範囲で交易していた事実を示すと考えられている。

    朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されている。このことから、戦前の日本の考古学者は、倭国の勢力範囲を示すモノと解釈していたが、戦後に至り、一時期、朝鮮から日本へ伝来したものという新解釈を提唱する学者も現れた[1]。

    しかし、勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる事、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるものが見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、倭から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなった[2][3][4]。

    中国の『後漢書』では「"出白珠青玉"(倭では真珠と青い玉が採れる)」と記されてあり、『魏志倭人伝』によると、「壱与が魏に2つの青い大きな勾玉(孔青大句(勾?)珠二枚)を献上した」と記されている。また、『隋書81巻 列伝46』 によると、「新羅と百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭へ使いを通わしている」と記しており、勾玉とくにヒスイ製勾玉が交易品として重要な意味を持っていたことがうかがわれる。

  2. 【3955088】 投稿者: 自由  (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2016年 01月 11日 11:41

    三国史記って12世紀だよなあ。

  3. 【3955092】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2016年 01月 11日 11:44

    鉄器が出てる前の刃物として黒曜石は広く使われた。
    生活には欠かせないものであり、広く日本列島で取れ使われていた。
    先祖縄文人にとっては欠かすものできないも、交易品でもあった。


    黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の櫛目文土器時代の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。また北海道では十勝地方も産地として非常に有名で、北海道では現在でも「十勝石」という呼び名が定着している。

    上述の通り、石器時代において、その切れ味の良さから石器素材として広く使われた。刃物として使える鋭さを持つ黒曜石は、金属器を持たない民にとって重要な資源であった。現にヨーロッパ人の来訪まで鉄を持たずに文明を発展させた南アメリカは、15世紀頃まで黒曜石を使用していた。メキシコのアステカ文明などではマカナなどの武器を作り、人身御供で生贄の身体に使う祭祀用メスもつくっていた。一説にはアステカが強大な軍事力で周辺部族を征服し帝国を作れたのは、この黒曜石の鉱脈を豊富に掌握していたからだともいう。

  4. 【3955207】 投稿者: んっ。  (ID:YOr4p7K.GEA) 投稿日時:2016年 01月 11日 13:41

    お米って、食糧(主食)、文化の域を超えてしまっているような感じが
    してきました。日本そのものというのか、お米が日本を造ったといったら
    いいのか・・
    例えば、伊勢神宮の内宮と外宮、出雲大社の大国主大神の袋の中身は、喜びや
    悲しみが詰まっており、それってお米そのものじゃないのか
    口分田により、農地が民衆へ支給される以前、朝廷が全て管轄していたのは
    当然なこと、安定的に収穫できたその時代だったからこそ、全国に馬鹿でかい
    古墳ができたのか、古墳って本当に日本独自のものなのか、凄すぎる。
    神話が現実になった出雲の巨大柱・・本当にロマンである
    ひまわりさんに感謝。

  5. 【3955281】 投稿者: ひまわり  (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2016年 01月 11日 14:50

    こんにちは。

    ヤタロー様

    >マスコミと一緒で、一部の機関、学者が情報を独占的にして、操る時代は終わった、教科書も我々国民の声で変わっていくはずである。(ヤタロー様)

    仰る事、よくわかります。
    慰安婦問題などが教科書検定に通った過程など、今考えると、あれはいったいなんだったのだろうかと思います。
    1014年の時点ではまだかなりの教科書で慰安婦記述が残っており日本軍に連行されたとの記述になっているものもありました。
    今年の新年度の教科書はどうなっているのか、毎年各自治体で教科書の閲覧が出来るそうですので、今年は見に行ってみようかと思っています。

    んっ。様

    >お米って、食糧(主食)、文化の域を超えてしまっているような感じが
    してきました。日本そのものというのか、お米が日本を造ったといったら
    いいのか・・

    お米を守るために水を守って、水を守るために山を守って、
    それってお米は命の源ですよね。
    瑞穂の国というのは瑞々しい稲穂の国ということで、瑞々しいお米が採れるということは山や海や水が守られているという事です。
    国土を大事に守りお米を作る事を先人から親から子へ大切に大切に繋がれていました。
    食事の前に手を洗い清め「いただきます」と感謝して手を合わします。

  6. 【3955312】 投稿者: ヤタロー  (ID:drRz2YYVFPI) 投稿日時:2016年 01月 11日 15:34

    日本=稲作であり、稲作=天皇であり、日本古来の風習に欠かせないのが
    五穀豊穣を願う、新嘗祭、大嘗祭であり、それを願い奉るのは天皇である。

    日本書紀には、豊葦原千五百秋瑞穂國(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)という記載がある。

    高天原から下界に降臨した先が瑞穂の国であり、稲穂がみずみずしこうべを垂れる様子をよく現しているのではないか。

    天皇が五穀(中心となるものはコメ)の収穫を祝う新嘗祭(「勤労感謝の日」として国民の祝日となっている)は宮中における最も重要な祭祀であり、天皇即位後最初の新嘗祭である大嘗祭は、実質的な践祚の儀式と認識されている。

    出雲大社の神職は食事の前後に、斎庭之神勅(ゆにわのしんちょく)という祝詞の一種を食礼として奏上する。「掛巻母畏伎高天原之斎庭之稲穂乎青人草之食志斗乎須穀津物斗下志給比志大御恵斗嬉美忝美奉里手謝毘奉羅久斗恐美恐美母白寸」というものだが、「米は高天原から賜った有難いものだ、嬉しく、かたじけなく、感謝申し上げる。」と言う意味を含む。

  7. 【3955352】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:29jxpnqaiAg) 投稿日時:2016年 01月 11日 16:20

    >神話が現実になった出雲の巨大柱・・本当にロマンである

    出雲大社で2000年に発掘された「三本柱」は、縄文時代に行われていた巨木文化を継承しているという。古事記の国譲り神話では「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が州羽に追放されると記されているが、州羽、つまり長野県諏訪郡の諏訪大社の「御柱」もこれとは無関係とは思えない。四隅突出型方墳(出雲から富山県)、巨木文化(出雲から真脇遺跡ー能登半島を経由し寺地遺跡ー新潟県糸魚川市でいずれも縄文後期)の伝播ルートをもって、畿内を中心とした瀬戸内、太平洋側の文化圏とは別に、日本海側においても別の伝播ルートがあったとみなすことが出来る(「古事記を読み直す」三浦佑之著、ちくま新書)。

    四隅突出型方墳といえば高句麗との関係を想定せざるを得ないが、九州大学の板橋義三教授によると比較言語学の立場からは、いわゆる高句麗語と日本語に史的関係を見出すなら、それは地理的接触ではなくひとつのホームランドを起点として、朝鮮半島の付根の部分から中国東北部一帯に位置していた高句麗語と、日本列島に位置した日本語が新石器時代、つまり縄文時代のある時期に南方から北に向かって移動してきた集団が 、途中で日本列島に流入し、もう一方は中国東北部に北上したと考えるのが最も理にかなった推測だとしている。朝鮮語とは全くの別系統であるという(「高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語 ・日本語との史的関係をさぐる」、国際日本文化研究センター所収、2003年 )

    このことからもある文化(縄文後期に比定される稲作と同時代)が朝鮮半島を経由せず、直接我が国に流入してきたという蓋然性が、極めて高いことが伺える。

  8. 【3955380】 投稿者: ヤタロー  (ID:drRz2YYVFPI) 投稿日時:2016年 01月 11日 16:44

    「三本柱」は、縄文時代に行われていた巨木文化を継承しているという。古事記の国譲り神話では「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が州羽に追放されると記されているが、州羽、つまり長野県諏訪郡の諏訪大社の「御柱」もこれとは無関係とは思えない。

    冷静にかんがえるとさん、神話も実話を脚色してて楽しいものです。

    建御名方神は大国主の二人息子であるが、国譲りの神話に中で、国譲りに猛反対して、討伐され最後諏訪に閉じ込められた事になっている。
    この話は実は事実であるが内容が違うのではと個人的に考える。
    諏訪大社の近辺は、日本最大の黒曜石の産地である。
    諏訪湖の周りは縄文時代からの遺跡が数多くある。

    つまり、国譲りの条件に大神殿 出雲大社を造営する事。
    日本最大の交易品である黒曜石の利権を渡す条件で国譲りが行われたのではないかと推察している。この黒曜石は糸魚川産のヒスイとともに、海洋縄文人により
    沖縄、朝鮮半島、北海道、に運ばれている。諏訪大社一体は、糸魚川、和田峠と
    当時の最先端交易品を生み出した拠点とかんがえるとなかなか面白い。

    また神木文化であるが、出雲に古墳がない理由はこれではないか
    出雲では死者を弔う習慣が一風違う、今でもそうらしいが、出雲国造が亡くなった跡には、葬式は行わず、一切死者から隔離され、後継は身を清める。
    何日か祈りを捧げ、世襲する。
    古代には、大きな大木に竹籠のようなものに亡骸を入れ、数年放置、その間に、鳥、烏、鷺などがそれを綺麗にしていく。だからこそ、神話では鷺、鳥になって天に召されたとの表現がされている。
    そしてその大木は神に召された神木となる、非常に面白い話である。

あわせてチェックしたい関連掲示板

このスレッドには書き込めません

学校を探す

条件を絞り込んで探す

種別

学校名で探す