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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【3955837】 投稿者: 徳仁天皇 (ID:eXotlqbcrMU) 投稿日時:2016年 01月 11日 23:28
逆に考えれば、当時の中国人が農耕のためにわざわざ遠隔地の日本に渡る理由がある?
中国なら国土は広いし農耕に適した温暖な地域へは陸でつながった南方へ移動しようとするだろう。
朝鮮半島であれば温暖な地域を求めて日本へ渡り稲作技術によって彼らは定住するようになったと考えるのが道理である。
日本民族のルーツは朝鮮人なのである。 -
【3955937】 投稿者: 自由 (ID:YRnhZ72jhL.) 投稿日時:2016年 01月 12日 04:58
>逆に考えれば、当時の中国人が農耕のためにわざわざ遠隔地の日本に渡る理由がある?
中国なら国土は広いし農耕に適した温暖な地域へは陸でつながった南方へ移動しようとするだろう。
却下。
それは朝鮮半島も同じ。
朝鮮半島北部は寒冷で耕作に不向きで陸伝いで行く理由がなく、
山東半島から海で行くなら結局同じこと。 -
【3955938】 投稿者: 自由 (ID:YRnhZ72jhL.) 投稿日時:2016年 01月 12日 05:00
>「日本でも紀元4~3世紀ごろ、おもに朝鮮南部から九州北部に渡来した人々によって、稲作と金属器の技術が伝えられ、新しい文化が起こった。このことは、朝鮮南部と同じ形式の石器、青銅器や支石墓が、九州北部で発見されたことからもうかがえる。『日本史B』(東京書籍)17頁」
必死になって、
東京書籍を出されてもなあ 笑
山川出版社の教科書には書いてない。
笑 -
【3955967】 投稿者: 自由 (ID:YRnhZ72jhL.) 投稿日時:2016年 01月 12日 05:37
二俣川
論点にすべきはこの歴史観である。
違う話をして誤魔化すな。
笑
>【3954300】 投稿者: 二俣川 (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:16年 01月 10日 17:18
固有の「文字」すら持てず、
竪穴式住居で暮らしていたに過ぎない縄文人ら。
例えその後の研究で多少の航海が可能だったとしても、
玄界灘の荒波を超えられる船舶建造技術や航海法を有していたとは、
到底考えにくい。
後世の遣隋使や遣唐使らであってさえ、その多くが渡航に失敗しているのであるからして。
>【3951043】 投稿者: 二俣川 (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:16年 01月 07日 17:28
その後の渡来人らの知的レベルの高さから推定しても、当時の縄文人らとは比較にならなかったことは明白だ。
蓋し、大陸に位置する朝鮮は古くから地続きの中国からの影響を受けていたからだ。
中国を統一し、長城を設けた始皇帝の時代、わが国はまだ弥生時代に過ぎなかったではないか。
このように、中国(その影響を受けた朝鮮)とわが国との当時の彼我の文化力の格差は大きかったのである。 -
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【3955979】 投稿者: 冷静にかんがえると (ID:6.NdFGB7BpA) 投稿日時:2016年 01月 12日 06:08
ヤタロー さん
>神話も実話を脚色してて楽しいものです。
おっしゃるとおり。
わたしは幼少時に初めて古事記の絵本に接したとき、伊耶佐の小浜で波の穂揺らめく中、 十掬の剣の切っ先で胡坐をかいて国譲りを迫る建御雷神の描写が目に焼き付いたものです。少し神話的視点から、、
瓊瓊杵尊から日向三代、つまり記紀の神代は海(漁業)、山(狩猟)を統べることで取りあえず終わっている。各部族との政治交渉の末の暫定合意が成立したと解釈できますが、いちばん重要なのが「国(農業)」ではなかったか。この譲り受けに上記のように武力を誇示したか、あるいは出雲の大物主神系統を婚姻によって取り入れることにより、「多元的調和と発展(「この国の生い立ち」高森明勅著、PHP研究所)」を体現した天皇像が出来上がり、神話の終結とともにいわゆる「神格」が完成する。
この流れを現実的に当てはめてみると、海人族、狩猟族統合時に既に農業族というものが独自の文化圏を形成していたことになる。わたしはこの文化圏というものが、先に記した縄文期に巨木文化等によって継承されていた日本海側の文化圏であったとみています。この文化圏のルーツは大陸から対馬海流によってもたらされた中国文化であり済州島を経由したか、あるいは直接山陰地方に伝播したか、いずれも半島本土を経由せずに我が国に上陸したことになる。例の徐福伝承に伴う「史記」の記述とも整合する。その中国文化が別に黒潮によって太平洋側に上陸したという二系統であったとしたら、太平洋側の各地伝承とも整合する。
その中で日本海側文化圏の権益を手中に収めるための政治交渉のひとつが、ご指摘の出雲大社に関わる交換条件だったと思います。その意味では黒曜石等の通商に伴う利権、稲作栽培のノウハウ、小規模開墾、灌漑工事の技術を「国=農業」という擬制により手中に収めていったという見方が、「神話」によって編まれたのではないかと考えるところ。
ちなみに「新羅本記」にいう稲の初出は186年、唯一の農業専門家として列伝に登場する九代王伐休は倭種。「朝鮮半島経由」は自らの「正史」が誤りだと認めるようなもの、それならそれでどうぞご自由に、といったところでしょうか。
我々日本人の関知するところではありません。 -
【3955988】 投稿者: ヤタロー (ID:drRz2YYVFPI) 投稿日時:2016年 01月 12日 06:38
冷静にかんがえるとさん
新羅4代王脱解は、倭人であり倭国の東北一千里のところにある多婆那国から
来たと1145年編纂、朝鮮半島初めての通史国史である、三国史記には書いてある。編纂者の金富軾が新羅王室に連なる門閥貴族であったために、新羅の項目でわざわざ不利になる事、嘘を書くわけがないのである。
そして実際の記載内容は、多婆那国(但馬、丹波説あリ)から、新羅沿岸に金色に輝く卵が流れ着き、そこから生まれたのが脱解だと記載されている。
1145年編纂なので、日本国での古事記、日本書紀の語り内容そっくり、1145年当時には、日本国内で編纂されていた、竹取物語、吉備地方の伝承、吉備津彦をモデルにした桃太郎伝説、川から桃が流れてくる描写をパクっているのである。
日本書紀、古事記に遅れる事450年後に編纂された三国史記、1280年編纂され日本のそれより580年の三国遺事の語り口、描写は、我が日本初の国書を参考にして理論展開した事は間違いない。
但馬、丹波から流れ着いた新羅4代王脱解、隠岐産の黒曜石、糸魚川産のヒスイ
縄文式土器が伝播したルートと同じ海の道を通り新羅に到着した。
そして新羅の王冠には糸魚川産のヒスイが大量に散りばめられている.
また、但馬丹波地方には日本最古のたたら製鉄所遺構もあり
黒曜石。ヒスイ、鉄器のルート海の道が存在したのは間違いない。
その海の道により、稲作も北上したのは当然の論理となる。 -
【3955997】 投稿者: ヤタロー (ID:drRz2YYVFPI) 投稿日時:2016年 01月 12日 07:10
三国史記より
朴氏の始祖説話に登場する瓠公は倭人であり、これが朴氏初代の朴赫居世ともいわれる[4]。
初代も倭人なら、新羅はまさに倭人国家である。
魏志倭人伝に記載されている、半島南部には倭種がいる
まさに符合するのである。
邪馬台国まで来た可能性のある、魏の国 陳寿
新羅王族の系統に繋がる編纂者
歴史の真実、点と点が線になり、面となった瞬間である。
一つの事実を捻じ曲げ否定しても、前後の事実によって
真実はあぶり出される。
まさに過去と現在との対話であり、歴史はロマンである。 -
【3956008】 投稿者: 徳仁天皇 (ID:eXotlqbcrMU) 投稿日時:2016年 01月 12日 07:34
>朝鮮民族征服王朝説
ではないか。
征服ではなかったとしても、それまで狩猟と採集で細々と生計を立てていた日本民族が朝鮮から渡ってきた農耕文化によって日本の生活水準は格段に向上した。
私たち日本人は朝鮮人に感謝しなければならない。
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