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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3979529】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ  (ID:jT10kvOBYgk) 投稿日時:2016年 01月 31日 19:47

    >往ね



    京大語?


    笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑



    w

  2. 【3979534】 投稿者: 自由  (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 01月 31日 19:48

    ふぁ〜ねむ

  3. 【3979544】 投稿者: 自由  (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 01月 31日 20:03

    >次に白頭山産出の黒曜石が朝鮮半島南部に流通していったという説(?)も、遺跡・遺物の発掘試料の扱いを知らぬ素人的発想である。ひとつの発掘現場から流通経路を比定するなら、白頭山山麗、北朝鮮側よりの試料共有が不可欠である。仮にアクセス可能な中国よりの試料のみをもって、流通経路を特定する乱暴な学説などあり得るはずがない。まして時代層、産出場所を特定するに黒曜石は敏感な試料である。試料履歴の確度を期するには、北朝鮮側の協力、ネットワーク創りが前提となる。これを看過してさも「学会」なるものが認めているなどと、およそ信じられるものではない。



    ホントそのとおりで、

    東三洞遺跡の黒曜石が白頭山産のものだとしたら、
    黒曜石の理化学分析の結果が一致しなければならない。

    それを小学生向け副読本に書いてたからとはお笑いである。

  4. 【3979545】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 01月 31日 20:04

    蘇我氏は、渡来人などではなく武内宿禰の子孫だろ
    最近読んだ、蘇我氏の正体(関裕二)では、出雲大社との関係が記してある。
    出雲大社の前身は出雲熊野大社、宗我神社と関係していると。

    物部氏の祖は石見に入り、石見一宮、物部神社の祭神だが、石見物部神社は、出雲に向かって本殿が建っており、出雲の監視(城塞)であった、そして吉備の国
    吉備津神社も物部氏と関係あり、出雲大社に向かって本殿が建っている。
    この説では、石見と吉備から完全に出雲を監視していることになる。

    古来の日本は、大王家、物部氏、蘇我氏、大伴氏が完全に政権を切り盛りしていたことになる。

    神武東征の際、日向から神武に付き添った大伴氏の祖。そして神武東征以前に先に大和に入植していた、同じ天照大御神の親戚、物部氏の祖、饒速日命
    大王家の親衛隊が大伴氏、大和政権の国軍を司った物部氏、この2氏が
    軍事、そして内政は蘇我氏が大臣として司ったこの配置は間違いないのではないか。

    吉備には、全国で4番目に大きい前方後円墳造山古墳があり、古墳が出来た時点では、河内の古墳を凌ぎ、日本最大であった。

    纒向遺跡の発掘、国立歴史民俗博物館の鑑定結果は240年前後の藤原京に匹敵する政庁であるが、発掘された土器はの半分は、伊勢、尾張の東国、祭事に使われた土器は1割でこれが吉備系、大和政権初期に吉備勢力が大いに貢献した事がわかる。これが物部系であれば、日本書紀に、伊勢神宮と並記された大和、石上神宮(物部氏)も納得が行く事になる。

    前にも書いたが、石上神宮には斎宮が置かれ、平安京に移るまで、天皇家の武器倉庫があった、そして物部氏の祭事が完全に大王家に引き継がれたとの説もある。新嘗祭、大嘗祭の原型。

    最後に付言するが、大和地方の一番古い信仰は、三輪山信仰、山が御神体であり、日本書紀には、三輪山の頂上に出雲神祀った大神神社がある。
    この祭神は大物主神(大国主命と同一)と言われている。

    なぜ大和地方に出雲神なのか、非常に興味を引く
    まさに歴史はロマン、夢膨らむ物語である。

  5. 【3979562】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ  (ID:jT10kvOBYgk) 投稿日時:2016年 01月 31日 20:21

    ファーネム。笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑


    w

  6. 【3979583】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ  (ID:jT10kvOBYgk) 投稿日時:2016年 01月 31日 20:39

    どっから入っても即論破。笑笑笑笑笑笑



    w

  7. 【3979613】 投稿者: 自由  (ID:2P4FYUUxUwg) 投稿日時:2016年 01月 31日 20:57

    >朝鮮征服王朝説

    これは蘇我氏云々ということもあるのかも知れぬが、学問的にというよりも韓国社会において、そのような願望があるかもしれない。

    その背景にあるのは、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫、高野新笠であり百済系であることを根拠にしているらしい。

  8. 【3979632】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 01月 31日 21:08

    日本書紀では武寧王は筑紫、加羅島で生まれたとの記載あり、和種、倭人である可能性もある。前にも書いたが、百済の王子は代々人質で倭国に来ていた。
    もともと和種の可能性も強いので、朝鮮民族征服王朝説は、まゆつばものである。
    武寧王が百済に戻り、死後前方後円墳が作られたが、76mの規模、伝仁徳天皇陵
    486mの6分の1、磐井の乱、筑紫の君磐井の墓、前方後円墳130mの規模より遥かに小さい。

    『日本書紀』雄略2年[458年]、「天皇に仕えるため百済から来ていた池津姫が石川楯と通じたため、天皇の命により二人とも焼き殺された。――百済新撰には、蓋鹵王が即位した年に天皇の使いが来て美女を求めた。百済は慕尼夫人の娘を飾らせて、天皇に奉った。」とある。また、雄略5年[461年]にも「4月、百済の加須利君(蓋鹵王)は池津姫が焼き殺された話を人伝に聞いて・・・弟の軍君に『お前は日本に行って天皇に仕えよ』と告げ、・・・孕んだ女を軍君に与え・・・6月、身ごもった女は筑紫の加羅島で出産した。・・・これが武寧王である。」とある。

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