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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3982176】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 02月 02日 19:53

    中国大陸、歴代王朝は全て同じ民族と考えないほうがいいです。
    隋は、北方騎馬民族、鮮卑の末裔。
    江南地方の風習には疎かったのではないか。
    日本列島の鵜飼は鵜の首に紐をつけ、人間が紐を操るが
    中国江南地方の鵜飼は、紐を付けず獲物を捕ったら直接戻って来るそうです。
    華北、華中、華南では全く、民族が異なったと考えるべきでしょう。

    漢民族の王朝は意外と少ない。清(女真族)、元(モンゴル)
    黄河文明6000年前の人骨は、白人コーカサス(遊牧民)に似てるそうですよ。

  2. 【3982184】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 02月 02日 19:59

    ひまわりさん
    中国から日本列島への一方通行ではなく
    逆のベクトルも考えなければいけないと最近思うようになりました。

    固定観念を捨てるといろいろな可能性が出てくる。
    歴史はロマン、楽しいものですね。

  3. 【3982210】 投稿者: ひまわり  (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2016年 02月 02日 20:11

    ヤタロー様

    >江南地方の風習には疎かったのではないか

    あっ、そうか、なるほどですね。

    >中国から日本列島への一方通行ではなく
    逆のベクトルも考えなければいけないと最近思うようになりました。

    私もそう思います。日本人が商いをしていたとの記録があるそうですから、一方通行ではなく双方の交流があったほうが自然ですよね。
    最初は中国から船で日本にやってきたことが交流の始まりだったと思います。
    当然当時の日本人もその船を見て造船技術や航海術を知っただろうし、その船で大陸まで渡ったことも考えられますね。

  4. 【3982723】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:t8K11S7Wywg) 投稿日時:2016年 02月 03日 06:51

    ヤタローさん、レスありがとうございます。

    >私は、240年代に大和に初めてに主権国家を築いた纒向遺跡(藤原京に匹敵する政庁規模)大和国家と、九州の邪馬台国は併存したのではと思い出してます。

    わたしも以前に田中卓説を引用して、北九州から畿内への東征を二回に分けて考えると整合するようだと書きましたが、崇神王朝における融和策が取られ畿内支配が確立したころ、北九州にあった元々の「ヤマト」では卑弥呼を中心とした邪馬台国が隆盛していたが、この「ヤマト」が狗奴国によって制圧されたのを神功皇后と仲哀天皇が征討したといったような流れではないかと思います。

    つまり卑弥呼にいう邪馬台国は北九州の女性酋長を奉じた地方豪族であり、既に金印を用いるなどして文書行政に長けていた、有力氏族であったのではないか。とうぜんながら文字文化もいち早く取り入れられており(「親魏倭王」という称号も読めなければ意味がありませんから)、数ある氏族の中でも唯一、外交が出来る氏族ということで魏に重用されていたのではないか(再掲)と考えているところです。

    >神武東征については、個人的には東征というより、入植だった気がしてます。

    水稲作を携えた勢力が大和川に沿って初瀬川流域に環濠集落を形成した(唐古・鍵遺跡)。ここからは紀元直前の造営と見られる建物跡が、鳥型笠飾りのついた壺と共に見つかっている。とはいうものの、畿内首長を埋葬した方型周溝墓には目立った副葬品もなく、場所も墓地群の中に埋没している。つまり九州に比べると未だ「縄文型首長」からの脱皮が不完全であり、先進性が北九州、畿内において逆転したのは、箸墓古墳、西殿塚古墳などにみられる造営規模が、福岡県の石塚山古墳などのそれを上回った頃ではないか、つまり3世紀中~後半ということになります。
    畿内説に立つ寺沢薫氏は「神武東征」を否定しており、田中卓説が幾たびに及ぶ北九州勢力の畿内進出の伝承としているのに対して、朝鮮半島との緊張から日向勢(イト倭国連合)への軍事依存が増して、それが天孫降臨、神武東征の伝説を生んだとお考えのようですね。
    じっさいのところはどうなんだろう、、
    ひとつ言えることは、いわゆる実証主義に立つ反記紀史観というものが、実は記紀史観の裏返しに過ぎぬものではないかということ。寺沢薫説も採り様によっては田中卓説と矛盾はしない、とも考えられます。

  5. 【3982751】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 02月 03日 07:38

    冷静にかんがえるとさんの書き込み通り、邪馬台国は外交上手で強かだったんでしょう。親魏倭王の称号、志賀島で発見された漢委奴国王金印

    当時の中国王朝は、金印、銀印、銅印を周りの国に与えているが、金印は倭国、
    大月氏など数えるほどで最上級の待遇であち、半島には銅印しか与えていない。
    魏志倭人伝に記載される、邪馬台国の貢物、生口100人が有名だが、最も喜ばれたのが、勾玉(翡翠)のようである。それも僅か3つだけ、翡翠は不老不死の言い伝えもあり大変珍重された、天皇家の三種の神器にも勾玉が含まれている。

    翡翠は強度は6.5、鉄5.5、鉄より硬度が高い、一つの勾玉は、石英ガラス粉で二年かけ研磨し出来上がる。新潟糸魚川翡翠は、縄文人が6000年前から、研磨して翡翠に穴を開け、紐を通し、首飾りにしていた。邪馬台国の時代まで、匠が受け継がれていたことになる。

    この勾玉が、親魏倭王との称号につながったんでしょう。
    楽浪郡帯方郡、直轄地は、倭国から勾玉を手に入れるための出張所だったと思われてなりません。

    邪馬台国はしたたかな外交上手だったことになります。

  6. 【3983414】 投稿者: イワンのばか  (ID:Dvs2.tq/hcQ) 投稿日時:2016年 02月 03日 16:22

    ももさん お声をかけてくださりありがとうございました。ではまたどこかで。

  7. 【3983555】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:4RzCI7b/TsM) 投稿日時:2016年 02月 03日 18:20

    >邪馬台国は外交上手で強かだったんでしょう。親魏倭王の称号、志賀島で発見された漢委奴国王金印

    外交を担っていた氏族と言えば海人族として志賀海神社の阿曇(安曇)氏を抜きには考えられないところ、「倭」というものの実態が彼らと重なるようにも思えます。つまり朝鮮半島南部、日本海、瀬戸内海を活動領域とした海人族を含み要した部族。
    魏志倭人伝にいう倭人の入れ墨の風習、「其の道理を計るに、まさに会稽の東冶の東にあるべし」、「有無するところ、儋耳(たんじ)、朱崖と同じ」(「日本史探訪1」宮本・和歌森対談記事、角川書店)。会稽は今の浙江省、儋耳、朱崖は海南島のこと。B.C.6世紀よりの春秋時代から戦国時代にかけて中国東南部沿岸地帯に入れ墨の風習があったことを伺わせる内容ですが、この地域、徐福一行の出航地とも目されるところ。
    古代の海人集団には二つの系統があって、宗像系とわだつみ系で信仰伝承、海女系と突漁(銛など)に分けられるそうですが、阿雲氏は記紀に従えば後者(綿津見神の子、穂高見命の子孫ということになりそうです。
    彼らははすぐれた航海術と稲作技術を持ち、古代の海人族の中でも最も有力な氏族でした。連(むらじ)という高い身分を大和朝廷から受け、中国や朝鮮にもたびたび渡っていたとも言われており、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、安曇比羅夫(あずみのひらふ)が大軍を率いて朝鮮にわたり、陣頭指揮にあたっている(関東農政局「安曇族の開発」ー農と歴史ーより引用)。

    余談ですが、長野県安曇野市の穂高神社では海との関連がないにも関わらず「御船祭」というものがあるらしい。子供の頃、明科町の長峰山にオートキャンプによく出かけていたが、そこは天平の森、地元では「あまったいら」と称されていた。町村合併で今の名称は分らぬが、四賀村五常から山道を登って行ったところです。天平文化との関連も伺わせ、何か一本の糸で繋がれているような気も致します。

  8. 【3984015】 投稿者: ヤタロー  (ID:CTb2civ7ctE) 投稿日時:2016年 02月 04日 00:38

    冷静にかんがえるとさん

    安曇氏は、興味深いです。安曇野は地図で見ると、諏訪大社と翡翠の産地糸魚川の真中ですね。上杉謙信が武田信玄に敵に塩を送った塩の道、糸魚川街道なんですが、出雲の国譲りの神話で、大国主命の次男が国譲りを拒否して、諏訪に逃げ込み恭順した神話がありますよね、その監視役で安曇野に送り込まれた可能性があるんじゃないでしょうか。
    そして、諏訪大社の周りに和田峠の黒曜石、糸魚川産翡翠の利権を管理する役目だとの推論が頭に浮かびました。

    隋書か、唐書で、倭国の王の姓は、阿麻氏との記載があったと記憶してます。
    対馬の西岸に、 阿麻氐留神社 があります。祭神は天照大御神ですが、口伝伝承で、出雲の神有月に、天照大御神は最後出雲に行き、真っ先に帰ってくる逸話があるそうです。季節風で舟で出雲に行く合理性があるそうです。この話では、出雲の筆頭の臣下が天照大御神で、国譲りで立場が逆転した、そして国譲りの際に、大国主命の次男外交諏訪大社に逃げ込み、その監視役が安曇氏だと連想しました。
    どうでしょうか、歴史はロマンですよね 笑

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