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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3938687】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:.PLMuTFsRbA) 投稿日時:2015年 12月 24日 21:35

    >冊封朝貢

    横レスで恐縮だが、文化的影響を冊封の要素とするのは西嶋名誉教授独特のお考えではないかと思う。一般に冊封・朝貢は宗主国との前近代的な国際関係の形態を指すところ、西嶋先生は国内的秩序がその源泉、つまり君臣関係にその志向を見出しておられる。だから儒家思想における任命(国内では臣下、国外では諸王)が意味を持ち得る(冊記述などの皇帝文書など)のだが、現実的には琉球との朝貢関係をみても、冊封を受けずに国王を全うした者もおり(尚純、尚益)、儀礼的意味合いが強いといえる。

    上記に従えば、君臣関係が儒教思想によって特に江戸幕藩体制の維持に転嫁され、朱子学が官学として採用されていったわけだから、思想的影響をもって「冊封」下にあったと言えなくはない、かも知れない。
    しかし私見だが、統治の正当性として儒教の本質を「仁政」に求めるならば、君臣関係を意味する「任命」、将軍宣下が武家階級のみならず庶民階級にまで浸透していなければ、国家レベルで冊封下にあったとはおよそいえないのではないか。何より国王、つまり将軍宣下の詔勅は天皇によって発布させられる。従い、国内秩序にまで儒教思想を拡大させ、「広義」という文言で冊封下であったというのには無理がある。儀礼行為的性質があるならば、形式的にも将軍宣下の詔勅は中国皇帝によって発せられたということであればまだわかるが、既に我が国は天皇奉戴をもって中国文化圏から外れている、この意味は大きい。
    仮に冊封下であるとするのなら、中国外交史がご専門であった故坂野正高教授の国際関係から見た「冊封」を説くアプローチのほうが、わたしにはすんなりと受け入れられる(専攻が国際関係論だったがゆえ)。当然ながら件のアプローチでも我が国は江戸時代、冊封下であったとはいえないことは言うまでもない。

  2. 【3938902】 投稿者: 自由  (ID:TYiDkfJSBC.) 投稿日時:2015年 12月 25日 06:17

    >何より国王、つまり将軍宣下の詔勅は天皇によって発布させられる。従い、国内秩序にまで儒教思想を拡大させ、「広義」という文言で冊封下であったというのには無理がある。



    同意見。

    日本が清の冊封体制の支配下にあったのであれば、江戸幕府が無断でアメリカと条約締結した際に孝明天皇が激昂した理由がわからない。

    冊封体制は、中華思想の秩序のなかで皇帝→王として封じることを言うのである。

    二俣川は冊封体制の意味を分かってないんじゃないか?


  3. 【3938904】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2015年 12月 25日 06:21

    自分自身が中国共産党に
    冊封しているからであろう。

  4. 【3938962】 投稿者: 自由  (ID:qcD2uoz86H6) 投稿日時:2015年 12月 25日 08:10

    >とくに稲の伝播ルートが日本史で問題にされるのは、稲作が日本の社会のありかたや文化に決定的な影響をあたえたからでしょう。

    >つまり重要なのはイネという植物がいつ伝わったではなく、日本社会に村落のありかたをはじめとする変革をもたらした、耕作技術や農具をふくめた「稲作」がいつ伝わったかでしょう。


    というか、

    その当時、朝鮮半島で稲作を行なったという文献は一切無いわけで、何をもって朝鮮半島で稲作の社会、文化があったと書いているのか意味不明なのだが、

    あくまでも考古学見地として、
    その遺構の発掘結果から、

    おそらく朝鮮半島から日本に伝わったであろう

    という推定であって定説ではない。
    また、当然ながら、「最初に」朝鮮半島から伝わったということも保証しない。

    中国南部と日本で遺伝子が共通する(朝鮮半島には存在しない)イネの痕跡の発見は、考古学でも衝撃をもって受けとめられている。

  5. 【3938966】 投稿者: 自由  (ID:qcD2uoz86H6) 投稿日時:2015年 12月 25日 08:21

    >西嶋定生・東大名誉教授によると、同氏のいう東アジア冊封体制とは、
    単なる皇帝と外国との関係というものでもないらしい。
    すなわち、その理念を支えるものとして「儒教」を指標とした。

    たしかに、清朝による冊封体制に日本は組み入れられなかった。
    だが、問題は相手(本件では清朝)がどのように考えていたのかがポイントの一つらしい(清朝前の明王朝は、朝鮮侵略した秀吉を日本国王に封じようとした)。

    ましてや、同先生は「日本では、江戸時代こそ日本の歴史の中でもっとも中国文化に心酔し、これを高く評価した時代であったことを考えるならば、当時の日本といえども東アジア世界の外にあったとは考えられない。『東アジア史論集』第三巻93頁(岩波書店)」と指摘されている。
    事実上、中国の影響下にあったということだ。

    したがって、わが国も「江戸時代までは中国を中心とした広義の東アジア冊封体制下にあった『文科省検定済検定教科書・社会』(東京書籍)」と言えるのではなかろうか。

    上述教科書の説明は学問的に妥当であった。(二俣川)



    二俣川は、

    どうしても、日本を冊封体制下に置きたいらしいが 笑

    冊封体制をそういう意味でとらえるなら、
    現代の英語圏国家は、イギリス冊封体制下にあるのだろう。


    で、


    それがどうした?

    言ってみろよ。


  6. 【3938972】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2015年 12月 25日 08:27

    半島南部で日本より100年新しい前方後円墳が大量に発見された
    この発見により騎馬民族征服王朝説は否定されることになった

    騎馬民族が半島から大量にやってきて征服王朝をつくったなら
    畿内の前方後円墳より古い、前方後円墳が大量に発見されているはずである。
    そして前方後円墳発見された半島南部は、百済、新羅、任那加羅日本府があった
    場所からである。
    朝鮮初の正史、三国史記によれば、新羅、百済が日本に朝貢していた話が出ている、半島南部は分国であったと考えるべきである。
    百済の王子は常に倭国に滞在、帰国して王になっている。
    新羅4代王脱解は倭人であったとの記載もある。
    魏志倭人伝に記された、半島南部には倭種がいたとの記載もあり、
    半島南部には倭人と同じ言葉を話す人達が住んでいた証になるだろう。

    魏志倭人伝、三国史記は、倭人が書いたものではなく
    大陸人、半島人が記入したものである。

    文化は北から南への一方通行ではなく、南から、北へと伝わったものも多いはず。
    半島南部の、前方後円墳、水稲作はこれに含まれるであろう。

  7. 【3938974】 投稿者: 自由  (ID:qcD2uoz86H6) 投稿日時:2015年 12月 25日 08:38

    >魏志倭人伝、三国史記は、倭人が書いたものではなく
    大陸人、半島人が記入したものである。


    そもそも、

    韓国の教科書には稲作を日本に伝えたという記載は無い。
    それが事実なら、当然、大騒ぎをして主張するはずである。


  8. 【3939072】 投稿者: 音速の貴公子  (ID:f5giDh/aIZM) 投稿日時:2015年 12月 25日 11:01

    犬二匹が見苦しい。もう勝負はついていてイブに勝利の祝杯をあげている。


    笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑




    w

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