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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【4005126】 投稿者: 自由 (ID:jOwNRk2gMcw) 投稿日時:2016年 02月 18日 08:21
(再掲)
小林秀雄氏の言説から、
『世の中に進歩するものなんてありゃしないよ。全てのものは変化するだけさ。その変化を君達が「進歩」と呼びたければ呼んだっていい。しかし、それは只の変化であって、僕には進歩なんてものじゃない。』
明らかに、西欧中心主義への疑義、東洋思想への傾斜が伝わってくる。 -
【4005153】 投稿者: 自由 (ID:jOwNRk2gMcw) 投稿日時:2016年 02月 18日 08:38
冷静にかんがえると君
>余談となるが思い浮かんだのはアランドロン主演の「太陽がいっぱい」のラストシーン。つまり「お天道様がみているぞ」という人類共通の性善的な深層心理。
ちょっと脱線だが、
卑弥呼の没年は一説には248年とされているが、
その年に皆既日食があったらしい。
天岩戸伝説の源か。
だとすれば、邪馬台国は九州にあったに違いない。 -
【4005164】 投稿者: 二俣川 (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 02月 18日 08:47
>きゃりー神ゅ神ゅの本日の午前。
働けよ、お前。
マルクスは次のように述べている。
「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する『ドイツ・イデオロギー』」(合同出版)。
すなわち、その人が「なんであるか」の本質は、その方の属性や身分、立場が決定的要素ではないということだ。
要は、「かれらがなにを生産し、またいかに生産するか」、
換言すれば、その方が「何をするか」が重要なのである。
生業の有無、まして何の仕事をしているのかは、本質的問題ではない。
要は、何をするか、ということである。
どんな恵まれた職にあろうと、反動的所業あれば評価・尊敬とは無縁である。
(私の書き込みからの転載) -
【4005173】 投稿者: 自由 (ID:jOwNRk2gMcw) 投稿日時:2016年 02月 18日 08:54
スレ荒らしゆえ、再掲。
二俣川他、つまらんスレ荒らしは御免被りたい。
(再掲)
>>あの構造主義の祖レヴィ・ストロースが、わざわざ日向神話の鵜戸神宮を訪ね、その洞窟のなかで山幸彦とトヨタマヒメが結婚したのは、その風景の美しさで感激のあまり「その通りだ!」と感じたらしい。
>レヴィ=ストロ―スの神話分析は二元論的な対立項を前提にこれを中和、あるいは超越する「何か」を見出すことに主眼が置かれていたと思うが、そこに普遍的な「何か」を求めるならば、どうしても比較論的にならざるを得ないと考えるところ。余談となるが思い浮かんだのはアランドロン主演の「太陽がいっぱい」のラストシーン。つまり「お天道様がみているぞ」という人類共通の性善的な深層心理。本居宣長のいう「四海万国を照らす」というのはこのような意味合いも包含しているのだろうか。仮にこれを普遍的な「何か」とするならば、孟子流の「漢心」を観念論として批判していた宣長自身が、実はその思想形成の影響を受けていたのではないか、あるいはこれを「日本流」に説き起こそうとしたところに、古事記研究のエネルギーの源泉が垣間見えるというのは穿った見方だろうか。
さすが、冷静にかんがえると君の知性は違う。
こういった知的な話題をこのスレでやりたいものである。
アランドロンが見た太陽はどんなものだっただろうか。
>自由さん、
ものすごく近所に書店ができたのでぶらりと立ち寄ったところ、レヴィ・ストロースの本が平積みされていたので購入しました。
1960年代に無敵だったマルクス主義支持者サルトルをレヴィ・ストロースは論破した。それは、西洋中心主義の進歩史観の否定であった。
小林秀雄氏が、
歴史なんて進歩はしない、ただ変化するだけと言ったのは、そのことと相通じる。
そういう目線で読むと面白いと思います。 -
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【4005241】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ (ID:Qn0EdfKA2RU) 投稿日時:2016年 02月 18日 09:46
空き缶拾いの仕事いけよ。笑
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【4005243】 投稿者: 二俣川 (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 02月 18日 09:47
労働者による労働生産物に関わる所有権取得につき、問題がある。
市民法によれば、工場における労働生産物は加工者たる労働者に帰属することになる(民法246条1項)はずだ※。
ところが、ブルジョア法学者らは、上述民法の規定を排除して、当該労働生産物は使用者(資本家)の所有物になると主張する。
蓋し、原則論を認めると資本制生産関係が崩壊するからだ。
すなわち、労働契約を交わした以上、雇用される労働者は使用者の他人ではなくなるとの偽装である。
しかし、たとえ雇われても労働者は法的人格者としれ使用者に対峙し、対等の立場で行動できるはずである※。
本件においても、当該細胞の所有権は小保方氏ら知的労働者に帰属すべきが、
ブルジョア法である市民法=民法の定めであったはずである。
ここに、労働契約の有する虚偽的本質を指摘できるのである。
※この「他人性」の排除に、労働者派遣法自体の虚偽(本質的違法性)も有する。
(再掲、続く) -
【4005245】 投稿者: 二俣川 (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 02月 18日 09:49
(続き)
このことにつき、私は次のように考える。
前述「労働契約」により、使用者(資本家)が形式上合法に購入した労働者の労働力。
使用者はこれをわが物として使用、新たに生産物を生み出す。
すなわち、貨幣の所有権が労働力使用に変化、同時に資本に転化する。
本来工場における労働生産物は、民法246条1項により加工者たる労働者自身に帰属することになるはずだ※①。
しかし、現状はそうではない。
したがって、使用者がこれを横取りする根拠は、労働者の使用者に対する(労働契約を介しての)身分上の従属性に起因するからだ、と解するしか説明ができないのではあるまいか。
マルクスも、次のように指摘する。
「労働が生産するところの対象、労働の産物は労働に対して一つの異物として、生産者から独立な一つの力として対峙してくる。『マルクスエンゲルス全集』40巻」(大月書店)。
このように、ブルジョア法の世界は、下部構造たる経済構造の事情の上に作為的に構築される。
国家権力は、それを「世界情勢」「公共の福祉」等との美辞麗句で以って仮装するのである。
昨年9月に労務コスト節減のため慌てて改悪された「労働者派遣法」※②にその好例をみる。
※①「スタップ細胞」の所有権はいずこに。
また、それから生ずる果実たる経済的利潤はどのように用いられるのか。
理研と結託したアベ政権か(すなわち、わが国の『富国強兵』化)?
はたまた人類の福祉のためにか。
※②派遣法の有する派遣元が派遣労働者を雇用するとの法的構造を根拠に、労働者に酷な判決を下す裁判所。この現実を解決するために、民主党政権は派遣法改正で画期的な立法的解決を行った。まさに、不安定な派遣労働者に常用雇用への道を拓く福音であった。
しかしながら、その後誕生したアベ政権は労務コスト増大を懸念する財界=資本家からの要請を受け、一転姑息な法の改悪を強行した(強行採決)。
その異常ぶりは、民主党政権下での法改正施行予定である昨年10月1日のわずか1日前(強行採決での制定後、わずか2週間後)である9月30日に駆け込みで施行するとの事実が証明している。
(私の書き込みからの転載) -
【4005389】 投稿者: 二俣川 (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2016年 02月 18日 11:41
以上、すなわち下部構造たる経済が上位構造の法解釈での結論を事前に規定する。
これが、経済と法との基本的な関係性である。
とりわけ労働法の解釈には、ブルジョア法である市民法=民法を克服、止揚する独自の理論を必要とする。
蓋し、市民法の法理を機械的に適用すると、非現実的な結果を招来するからだ。
このように、労働法の本質的理解のためには以下の視点が必須になる。
1、市民法から社会法への発展への正しい理論的・歴史的把握を行うこと。
2、経済的下部構造を反映する資本主義法としての市民法。
この観念性や虚偽性、階級制を自覚すること。
小保方氏に関わる問題には、以上の本質が隠蔽されている。
ゆえに、報道された兵庫県警の動きにも国家権力からの恣意性あるや否やを冷静に監視してまいりたい。
(私の書き込みからの転載)
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