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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【4005723】 投稿者: 二俣川 (ID:VBXQDO5D6Oc) 投稿日時:2016年 02月 18日 16:59
>警察が彼女の言い分を肯定的に聞いてくれていれば、あのような内容の手記は書かなかったのではないかと推察しています。
そうでもなかろう。
過剰な「期待」は、せぬがよい。
ましてや、小保方氏の本の上梓と当局の動きとは無関係なのではないか。
なぜなら、執筆自体は昨年初秋には本格化していたとも聞いた。
時系列的な前後関係はどうなのであろうか。
報道では、当局がいつそれを行ったのかは明らかではないように思う。
しかも、今回は参考人としての聴取である。
一般論として、単なる窃盗事件に第三者(石川某)による告発とは異様である。
通常は、被害者である理研自身が告訴すべきものだ。
被害者の告訴や被害届すらなき「事件」、しかも実損額すら算定できにくいもの。
さらに、容疑者はすでに職を退いている。
仮に立件されても略式命令で罰金刑がせいぜいなところ。
そんな小さなヤマに現場捜査員らが闘志を燃やすとは到底考えられぬ。
今後、もし急な展開あったとすれば、権力による恣意的国策捜査以外ありえない。
(転載) -
【4005724】 投稿者: 二俣川 (ID:VBXQDO5D6Oc) 投稿日時:2016年 02月 18日 17:00
>ただ学問、研究の場に警察や弁護士の介入をまねくような事は好ましからざる事態 で、理研や現場の研究者も非常に憤慨してるでしょう。
本件告発人「石川」某ならびに当局による権力的介入を期待している、
ここの世間知らずの顕微鏡屋諸兄に言うことだ。
権力に無警戒なその処女のごとき純真さに呆れる。
(転載) -
【4005727】 投稿者: 二俣川 (ID:VBXQDO5D6Oc) 投稿日時:2016年 02月 18日 17:01
>普通、自分が無実であれば警察の事情聴取に弁護士に同行同席してもらおうと思わない。
そんなことはない。
小学生のような純真さ。
それほど権力は甘くはない。
このような場合、弁護士の同行は効果的だ。
しかも、参考人聴取は任意であるがゆえ、その応諾、退席は自由である。
実際に、共産党幹部宅を組織的に盗聴した容疑で東京地検・検事に任意で調べを受けた当時の神奈川県警警備課員ら。
サングラスに腕組み、足を組んでふてくされた態度であったという(通常の警察官は捜査指揮権ある検事に対し、従順な態度を示す)。
(転載) -
【4005805】 投稿者: 自由 (ID:VFekQgEqJGM) 投稿日時:2016年 02月 18日 18:17
まったく無職爺さんの落書きは、いい気なものである。
スレ荒らしゆえ、再掲。
二俣川他、つまらんスレ荒らしは御免被りたい。
(再掲)
>>あの構造主義の祖レヴィ・ストロースが、わざわざ日向神話の鵜戸神宮を訪ね、その洞窟のなかで山幸彦とトヨタマヒメが結婚したのは、その風景の美しさで感激のあまり「その通りだ!」と感じたらしい。
>レヴィ=ストロ―スの神話分析は二元論的な対立項を前提にこれを中和、あるいは超越する「何か」を見出すことに主眼が置かれていたと思うが、そこに普遍的な「何か」を求めるならば、どうしても比較論的にならざるを得ないと考えるところ。余談となるが思い浮かんだのはアランドロン主演の「太陽がいっぱい」のラストシーン。つまり「お天道様がみているぞ」という人類共通の性善的な深層心理。本居宣長のいう「四海万国を照らす」というのはこのような意味合いも包含しているのだろうか。仮にこれを普遍的な「何か」とするならば、孟子流の「漢心」を観念論として批判していた宣長自身が、実はその思想形成の影響を受けていたのではないか、あるいはこれを「日本流」に説き起こそうとしたところに、古事記研究のエネルギーの源泉が垣間見えるというのは穿った見方だろうか。
さすが、冷静にかんがえると君の知性は違う。
こういった知的な話題をこのスレでやりたいものである。
アランドロンが見た太陽はどんなものだっただろうか。
>自由さん、
ものすごく近所に書店ができたのでぶらりと立ち寄ったところ、レヴィ・ストロースの本が平積みされていたので購入しました。
1960年代に無敵だったマルクス主義支持者サルトルをレヴィ・ストロースは論破した。それは、西洋中心主義の進歩史観の否定であった。
小林秀雄氏が、
歴史なんて進歩はしない、ただ変化するだけと言ったのは、そのことと相通じる。
そういう目線で読むと面白いと思います。 -
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【4005813】 投稿者: 冷静にかんがえると (ID:d52S5Cu7Ipc) 投稿日時:2016年 02月 18日 18:24
ヤタローさん
>安曇氏の志賀海神社にすごい伝承があるのは御存知だろうか?
君が代の君は、安曇の君らしい。志賀島より金印も出土しているため、
やはり、安曇氏は古代のキーマンのようである。
いや、知りませんでした。うーん、そういえば昔、四賀村五常の小冊子か何かで同様のことを読んだ記憶があるなあ、、ありがとうございます。
しかしこれは興味深い。
夏目漱石の「草枕」で有名な「独り幽篁の裏に座し、琴を弾き長嘯す」、五言絶句を書いた王維は天平時代の人でしたね。「琴を弾き長嘯す」、すなわちおおよその見当で言うと雅樂寮はこの時代、既に存在しており朗詠や神楽譜、特に神楽譜は白河御代から現在に至るまで続いています。「君が代」の旋律自体は宮内省の雅楽家、林廣守になるものですから、伝統でいえばこれは世界最古のものといってよいでしょう。この辺りは、暇なおじさん(さん)がお詳しいんじゃないかなあ、、
>細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、桜谷神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。
なるほど、>「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)の美醜に関わる説話は寿命にかかわるもので、人を植物に例えた「青人草」(伊弉冉の命曰く「汝国之人草(あなたの国の人草)」)を前提とすれば、一年草は毎年、多年草は何年か毎にその生命を循環させていくという、仏教的輪廻転生という哲学的思惟に昇華する以前のごく素朴な自然への憧憬が、当時の人々の観察眼にあったと思われます。
>君が代は明治に入り国歌に採用され節(メロディー)がついたが
それ以前は、賀歌として結婚式、祝いの席にたかさご以上に詠まれた歌であったらしい、庶民に至るまでほとんどの人間に親まれていたために国歌に採用された。
おっしゃるとおり、大山祇神(おおやまづみのかみ)は娘ふたりを送り出すにあたって、「雪降り風吹くとも常永久に・・木の花の如く咲き栄え」としているが、盤長姫命(イワナガヒメ)を並べ奉ったのは「醜」ではなく、年老いて容貌が変われどもという、賀歌としての戒め的思想が込められているようにも思えます。「君が代」の「君」は想い人であり、大切な人を指す。
>君が代の君は本来皇室を意味していない。
古事記の解釈としてはその通りだろうと思います。 -
【4005814】 投稿者: 自由 (ID:VFekQgEqJGM) 投稿日時:2016年 02月 18日 18:24
(再掲)
>余談となるが思い浮かんだのはアランドロン主演の「太陽がいっぱい」のラストシーン。つまり「お天道様がみているぞ」という人類共通の性善的な深層心理。
ちょっと脱線だが、
卑弥呼の没年は一説には248年とされているが、
その年に皆既日食があったらしい。
天岩戸伝説の源か。
だとすれば、邪馬台国は九州にあったに違いない。 -
【4005827】 投稿者: 冷静にかんがえると (ID:d52S5Cu7Ipc) 投稿日時:2016年 02月 18日 18:33
自由さん
>アランドロンが見た太陽はどんなものだっただろうか。
確かキネマ旬報の古本の記載だったと思うが字幕翻訳家によると、女給に「今、どんな気分?」と聞かれて答えたセリフ、本来は「太陽の日差しが目にしみているのを除けば、最高の気分だ」というものだったが、そこに「太陽がいっぱい」と入れたのは彼(翻訳家)のちょっとした遊び心であったらしい。
原題の「Plein Soleil」は単数形だから、「複数の太陽」というと少しニュアンスが違ってくることは否めないものの、言語の意訳ひとつとってみても思想背景が反映されていると思えば、ひじょうに興味深い。
自由さんは既にご存知だと思うが、レヴィ=ストロースは特定の民族の思考パターンの共通性に着目、人間の置かれている状況のメタファーとして、神話的イメージの普遍性を見出そうとした。つまり神話は特定の文化の範疇で語られはするものの、その意義(機能)と意味する内容はこれを超えるもの(普遍性)であり、これが顕在化するのは二元論的な対立、具体的には善と悪、天と地、あるいは兄弟といったようなもので、その調整役としての機能を備えている(だからその神話を背景とした王家の正当性が担保される)、これが神話の持つ社会学的機能。
もう一方で我々の存在、目標(置かれている状況)に対する指針を指し示すものとして、「カミ」という畏敬の対象を創り出すことにより、人智を超えた価値観に照らし合わせて自己の行為を顧みる機会を与える、これが神秘的機能。
昔習ったことでよく覚えていないが、この認識はレヴィ=ストロースもキャンベルも同様であったように思う。
ところでF.コッポラ監督の「ゴッド・ファーザー」にもシシリー島の村祭りのシーンが出てきたと思うが、あれはカトリック系の祭りであったか。ホメロスの叙事詩で有名な「エメアス」が創作されて以来、欧州の人々は自らをギリシャ・ローマの後裔だとし、一方でローマ国教のキリスト教をも信じている。上記のふたつの機能をうまく消化しているというのがわたしの感想。
以上を前提に後者の神秘的機能に注目してみると、一神教的なキリスト教にあっては死後、自己が対面する「カミ」とは一対一であり、そこが我が日本人、あるいはゲルマン民族等と異なるところではないだろうか。少なくとも記紀において、「カミの裁きを受ける」といったような思想は見いだせない。あるのは遍く降り注ぐ太陽といったような、先に書いた「お天道様」という思想、宣長の指摘するところである。いったいこれを畏敬の「カミ」とした場合、実はこれが先祖崇拝に結びついているのではないだろうか、と考えるところ。
つまり「ご先祖様に顔向けできない」、このことが我が国民性たる独特の感性と言えるのではないだろうか。
「太陽がいっぱい」、、我々日本人にとってはまさに「複数の太陽」を示すものとして、件の翻訳家の意訳も違和感なく受け入れられると思うところです。 -
【4005834】 投稿者: 二俣川 (ID:VBXQDO5D6Oc) 投稿日時:2016年 02月 18日 18:36
このように労働法は市民法とは異なる本質を有する。
すなわち、市民法の如く「同質な自由・平等の個人」との実態を無視した差別性を払拭する。
労使(資本)という不平等で対立した関係に定められた社会的人間に着目するものだ。
その意味で、労働契約の背後に潜む差別性は看過できるものではない。
しかも両者は歴史的に異なる役割を演じる。
ゆえに、その法解釈も解釈者自身の世界観や価値観に無縁ではありえない。
貴き犠牲の上に敗戦の果実として誕生した現行憲法。
他方、これを桎梏と感じ、既得権保持に狂奔してた支配階級=財界。
利益代表者たる政治部門(自民党)により、今日まで一貫して改悪を画策してきた
その現象面が、アベ政権による強行採決での暴挙でなした正社員との代替化促進、
派遣労働者の生涯派遣を事実化した昨秋の「労働者派遣法改悪」である。
また、姑息にも参院選後に上程する予定ときく「残業させ放題・過労死促進の労基法一部改悪案」、加えてはした金さえ払えば、不当解雇でさえ強行可能な「金銭解雇制度の導入」との悪法も現在厚労省・労政審でもって検討中である。
なぜ、現行憲法が28条であえて労働基本権を制定したのか。
労働法の解釈においては、現在の経済的・社会的構造と運動法則への適合性、さらには前述労働基本権保障の歴史的社会的必然性を前提にした価値体系に基づくことが規範的視点にならねばならない。
知的労働者としての小保方氏に関わる法的関係の評価。
これもまたその例外ではない。
(転載)
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