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投稿者: ひまわり (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59
古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。
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【3905303】 投稿者: ももたん (ID:ZZAzYQzyc/w) 投稿日時:2015年 11月 17日 13:28
わかりました。
ひまわりさんのスレ専用のHNにします。あっ、ももたんやん様は無しね。(^_^; -
【3905313】 投稿者: 音速の貴公子 (ID:hcLh8M2naXM) 投稿日時:2015年 11月 17日 13:40
>紙つぶて氏はさも大儀があるようなことを仰っているが、そんなに大層なものではないであろう。ただの粘着である
ひまわりへの肩入れである。スレ主がひまわりでなければ無数にあるスレに対し、大義などどこへやら。笑
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【3905353】 投稿者: 紙つぶて (ID:LjYFd5Biwls) 投稿日時:2015年 11月 17日 14:10
>「舞」というものに一面、「服従の意」があるのか、、 (冷静にかんがえると さん)
神を讃えるためだけの「無垢な芸能」として舞楽などの古典芸能はどのあたりまで無邪気でいられたのでしょうか?
弥生時代の卑弥呼出現あたり、原理的には律令国家体制が成立以降は支配者からの寵愛を無視するわけにはいかなかったかも知れませんね。
>ただそうなると、後の禅思想とどう結びつくのか、、上記に述べた文化的統率にもともと禅思想があって、それに追従しただけなのか否かはわかりません。
政治統制的に、他力本願を軸とする禅宗は武士たる為政者たちには欠かせない説法でしたよね。わび・さび、幽玄の観念に代表される東山文化は、能を始めとして、華道(池坊ですから、後の華道流派よりは地味だと思います)、茶道、石庭などが表すのは極限少が表す無駄のない無限な美ですから、室町時代中期(守護大名に押されがちな)の将軍たちから保護を受けたのでしょうね。ですが、鎌倉新仏教の臨済宗や曹洞宗といった禅宗を足利義満はどう採り入れたのでしょうか?鹿苑寺のキンキラキンと禅宗が結び付かないですね。室町中期以降は将軍の権力が揺らぎ始め、時代は寂寥感が覆い、禅宗感漂うわびさびが受けいれられたと理解できますが。
ところで、ふふ・・・さんや暇なおじさんさんがヴィトンのバッグのことを仰られていましたが、法隆寺にラーメン鉢みたいな雷文の模様があることを知って、中華料理屋の陰謀かと思ったものです。笑 -
【3905358】 投稿者: 音速の貴公子 (ID:hcLh8M2naXM) 投稿日時:2015年 11月 17日 14:14
論破。笑
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【3905379】 投稿者: 暇なおじさん (ID:BzK58DCdfHI) 投稿日時:2015年 11月 17日 14:41
>他力本願を軸とする禅宗
宗教にも詳しくはないのですが、禅宗=自力 浄土宗=他力本願の
ような気がするのですが。
今の若い連中は、わび、さび、萌えらしいですね、日本も変わりそうです。 -
【3905381】 投稿者: 紙つぶて (ID:LjYFd5Biwls) 投稿日時:2015年 11月 17日 14:44
暇なおじさん、さん
ご指摘、感謝です。
他力本願→「自力本願」でした。 -
【3905388】 投稿者: 音速の貴公子 (ID:MDXPD13uFy.) 投稿日時:2015年 11月 17日 14:50
余計なことに首を突っ込み、大義をふりかざしたが返り討ちにあっては、目を背ける以外あるまい。
アハハハハハハハハハハハハハハハ!!!
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【3905415】 投稿者: 冷静にかんがえると (ID:nqpDlXRM2LU) 投稿日時:2015年 11月 17日 15:35
紙つぶて さん
>神を讃えるためだけの「無垢な芸能」として舞楽などの古典芸能はどのあたりまで無邪気でいられたのでしょうか?
弥生時代の卑弥呼出現あたり、原理的には律令国家体制が成立以降は支配者からの寵愛を無視するわけにはいかなかったかも知れませんね。
もともと「無垢な芸能」として古来の歌舞を原型とするなら、ひとつのエポックとして、「ニイナエ」が「新嘗祭」となり、皇位継承儀礼としての「大嘗祭」が成立した時期ではないかと思います。少なくとも大化改新以降ではないか、、
書記には直前の皇極天皇ご即位に対して通常の「ニイナエ」が執り行われたことが記されています。皇子、大君各自執り行っていることから、この時期まで神事としての大嘗祭が執り行われたとは考えられない。おそらく天武、あるいは持統天皇の御代ころからではないか。おっしゃるように律令と大嘗祭は不可分とはよく言われますが、いわゆる「公民」概念ー具体的にはどこの新穀を用いるかーという観点から、公民の参画・奉仕に伴って土着の歌舞が取り入れられて、いわゆる「国風(くにぶり)」となり、先に書いたように渡来の管弦・舞楽と融合していったのが平安初期辺りではないか、と理解しています。
>ただそうなると、後の禅思想とどう結びつくのか、、上記に述べた文化的統率にもともと禅思想があって、それに追従しただけなのか否かはわかりません。
>>政治統制的に、他力本願を軸とする禅宗は武士たる為政者たちには欠かせない説法でしたよね。わび・さび、幽玄の観念に代表される東山文化は、能を始めとして、華道(池坊ですから、後の華道流派よりは地味だと思います)、茶道、石庭などが表すのは極限少が表す無駄のない無限な美ですから、室町時代中期(守護大名に押されがちな)の将軍たちから保護を受けたのでしょうね。ですが、鎌倉新仏教の臨済宗や曹洞宗といった禅宗を足利義満はどう採り入れたのでしょうか?
義満が文化的統制に禅思想を取り入れていたか否かは既述のとおり分かりません。少なくとも世阿弥の禅は曹洞禅で正徹、心敬らの歌論とは異なっているというのが一般的理解だったような気がします(よく覚えていませんが、そう習った気がします)。むしろ世阿弥が禅に傾倒していったのは義満死後の伝書から読み解かれるのがアプローチの常道ではなかったか、、例えば文体が和語・和文から漢語・漢文になっていったというように、花伝書と後の伝書には明確な一線が隠されています。従って義満の時世に世阿弥を介するとしても禅思想が底流をなしていたとは未だ考えていないところです(この点も含めて同窓の研究者に聞いてみるつもりです)。
紙つぶてさん、「わび」は万葉集が端緒ではなかったでしたっけ?
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