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【3871615】歴史はロマン

投稿者: ひまわり   (ID:qDrhhjOE7IY) 投稿日時:2015年 10月 11日 13:59

古代史の理解を広めていきたいと思います。
仮説であってもその刺激感がたまりません。

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  1. 【3936067】 投稿者: 自由  (ID:rUVmvWpY4RQ) 投稿日時:2015年 12月 22日 07:47

    >「定説」なら、なぜ文科省検定済教科書の説明がそのようになされていないのか。


    そりゃあ、

    二俣川のような人間が発狂するからだろう 笑

    普通に考えれば分かるが、別に朝鮮半島経由でなければならない理由がない。二俣川が朝鮮半島経由と強弁するなら、その証拠を出せというだけのこと 笑

    ちなみに、

    既に縄文時代に、米作が中国南部から日本に伝わっていて、朝鮮半島に伝えたという説がある。

  2. 【3936076】 投稿者: 自由  (ID:rUVmvWpY4RQ) 投稿日時:2015年 12月 22日 08:01

    以上についてその根拠は、

    中国南部と日本にしか存在しない稲の遺伝子の存在が確認されているからである。

    朝鮮半島マンセーの二俣川の妄想とは異なる。

  3. 【3936142】 投稿者: 幼稚  (ID:L92OdVp.ceo) 投稿日時:2015年 12月 22日 08:56

    ヨコからすみません

    >ちなみに、
    既に縄文時代に、米作が中国南部から日本に伝わっていて、朝鮮半島に伝えたという説がある。

    >以上についてその根拠は、
    中国南部と日本にしか存在しない稲の遺伝子の存在が確認されているからである。

    日本から朝鮮半島に稲作が伝わったという説は寡聞にして知りませんでした。どなたがおっしゃっているのでしょうか?。

    現在、歴史学者・農学者間では、中国から直接南方ルートと、中国→朝鮮半島南部経由ルートの両方の伝来経路があったというのが有力説と理解しています。

    日本から朝鮮半島に稲作が伝わったとすれば、なぜあちらにはRM1b遺伝子がないのかの論証が必要だと思います。また、あちらには日本にない種類のRM1d~h遺伝子が存在することも説明がつきにくいと思います。

    また、朝鮮半島からの稲作の伝来は渡来人によるものという説と、縄文人が持ち帰ってきたものという説とがあります。

  4. 【3936341】 投稿者: 二俣川  (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2015年 12月 22日 12:30

    >普通に考えれば分かるが、別に朝鮮半島経由でなければならない理由がない。二俣川が朝鮮半島経由と強弁するなら、その証拠を出せというだけのこと 笑

    くだらん開き直りに過ぎぬ。
    公知の事実については証明は不要である。
    なぜ、陽が東から昇り、地が動いていることを今さら証明する必要があろうか。
    それゆえ、米作伝来も義務教育の検定済教科書でも説明されているのである。

    愚かな感情論による史的事実の歪曲は許されない。

  5. 【3936348】 投稿者: 二俣川  (ID:FdDMWynQZtA) 投稿日時:2015年 12月 22日 12:33

    >日本から朝鮮半島に稲作が伝わったという説は寡聞にして知りませんでした。どなたがおっしゃっているのでしょうか?。


    同感である。

    ヤタロー坊や。
    君の言う「定説」(初耳だが)の根拠を明らかにされたい。
    そこまで言い切るのなら、斯界の圧倒的多数がそのように考えているということだろうから。

  6. 【3936370】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:Bdvrgb2gdjU) 投稿日時:2015年 12月 22日 13:05

    ヤタロー さん
    レスありがとうございます。

    >日本の水稲作は3000年前から始まり、板付遺跡など。朝鮮半島の最古の稲作跡は1600年前までしか遡れない事を考えると従来の思考の真逆で日本から半島南部に伝わった事が定説になってるとの事。

    これは考古学上の大きなテーマですね、、在野の故藤森何某(お名前を失念しました)氏の縄文農耕説だったか、各地で出土された縄文初期から中期の農耕器具一般(石斧、鉄鍬)から少なくとも焼畑については遡れますね。但し、長野県諏訪市の荒神山でアワの炭化種子が発見され、確か縄文中期と推定されたと記憶していますが、その後の詳細については追っていません。
    一方、焼畑、水田稲作の農耕一般については、文化人類学の立場から国立民俗学博物館、総合研究大学院の故佐々木名誉教授の有力な縄文後期説があったと思います。ご指摘の板付や菜畑の水田址についても、縄文、弥生時代の絶対年代の変動を考慮にいれたとしても、弥生初期として間違いなさそうです。

    仮に倭国から朝鮮半島南部への伝承モデルを想定するならイネ、アワ等の種子を持ち込んだか、その栽培方法を伝えたか、あるいは持ち込みと同時に農耕技術と共に伝えたかを分けて考察することが必要かと思います。これはわたしの思い違いかもしれませんが、我が国独自の自生のイネというものはなかったような気がします。大陸からの持ち込み、つまり外来種だったのではないか。このことを前提とすると、伝承モデルは栽培方法、つまり農耕技術のみで考察すべきだと考えます。
    一般に伊達家の仙台平野千拓、武田信玄の笛吹川堤防、あるいは駿府今川の南丘陵の開墾など稲作に伴う土地改良はせいぜい戦国後期だと思われがちですが、平野開拓、水田化の必要もなかったのが実は大和(奈良県)で、「米を制する者が天下を治める」の通り、生産性の高さに結びついて勢力を伸ばしていったと考えるのはこの時代でも納得できるところ。ただこのような戦略的側面からすると、
    筑紫物部が仮に伝承主体だとすれば、東遷前に既に土着の畿内勢力と結びついていなければならない。この点をどのようにクリアするかは大きな問題だと思います。

  7. 【3936453】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2015年 12月 22日 15:13

    歴史とはロマンであり、ここに書き込む内容は私の定説であり、ロマンである。

    冷静にかんがえるとさんレスありがとうございます。
    以前の書き込みに半島南部の前方後円墳の書き込みをされていましたが、
    現在の韓国南部、九州側に密集しています、朝鮮初の正史、三国史記によれば
    新羅4代王脱解は倭人であったと記されてます。二代目王の娘を娶ってますが
    多婆那国生まれ(但馬、丹波説あり)倭国の北東一千里にあり。当時の新羅は半島を統一する前の百済の半分、韓国南部の東側です。その地域で日本発祥の前方後円墳が多く作られてます。また韓国南部の西側が百済ですが栄山江流域、雄略天皇が助けた日本生まれの武寧王の中心地に多くの前方後円墳が見られます。そしてその武寧王の死後、日本でしか取れない高野槇でつくられた棺に入っており、当時の日本と関係が深い、百済の歴代の王子は日本に住み、大王(天皇)と話をしていたのです。この前方後円墳の場所、水稲作水田跡、当時の交易で最も価値のあった
    日本でしか取れない黒曜石が全く同じ分布図から出土してます。
    以前書いた、魏志倭人伝には朝鮮半島南部には倭種(倭人)がいた、同じ言葉を使った人と付随します。

    水稲作は中国揚子江から日本に直接入り、九州で広がり朝鮮半島南部に伝わったと考えます。科学の進歩で朝鮮半島にはなく、中国と日本でしか発見されてない
    種が発見など今後さらにはっきりしてくるでしょう。
    九州菜畑遺跡では、3000年前の水田が見つかり、従来より600年も遡った事
    朝鮮半島より古いと思われる。

    伊勢神宮には米は斉の御田から天照大神が持ってきた(斉は現在の中国山東省)
    という伝承と山東省地域には一部部族が日本に渡ったとの伝承あり、
    さらに鵜飼に着目した研究から、楚の国(湖南省、湖北省その周辺)と稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省等中国南方でよく見られる鵜飼、日本でも普通に見られる。
    ところが鵜飼の風習は古来朝鮮半島には全くない。台湾、琉球文化圏でも鵜飼の風習は全くないか。この事から最初に米を日本に持ち込んだのは、中国南部の楚に起源を持つ人たちが経由なしに直接日本に伝来させたと思われる。
    そしてその人達が鵜飼も日本全国に広めたと考えられる。
    以上から水稲作は九州から朝鮮南部に伝わったと考えます。
    これが私の定説であり、ロマンである。

  8. 【3936632】 投稿者: ヤタロー  (ID:qogfqwiHFM.) 投稿日時:2015年 12月 22日 19:46

    すれ違いの書き込みばかりしてしまい、ひまわりさんに申し訳ないと思った次第
    書き込みしていて、歴史はロマンっていいなって思いました。

    自由さんが、天武天皇時代に国号日本と天皇を名乗り出したとの書き込みが
    胸にストンと落ち、日本=天皇は確かにそうだなと納得した。
    じゃあそれ以前はと考えると
    水田稲作が行われ大量に収穫できるようになり、多くの人出が必要になり
    環濠集落ができ、高床式倉庫ができ村が出来、国が出来た。
    そして多くの人を守る為に武力を蓄え、階級が出来、支配者 王がでてきた。
    確実に確認できるのは240年前後の邪馬台国。
    天皇家の祖先も大和朝廷になる前には、どこかの地域の王であった筈。
    稲作、水稲作の起源がはっきり分かれば、水稲作 米=日本のルーツが分かる
    皇室の皇紀2600年も水稲作の起源符合すると考えた次第。
    米は江戸時代徳川幕府が滅びるまでは、日本の通過であり、、米 本位制であった。当然天皇家も、権威祈りの象徴として、新嘗祭等で五穀豊穣を願ってきた。
    我々日本人のルーツを探るには、水稲作の起源が非常に大事でなのである。

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