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【3116105】女性宮家創設へ

投稿者: ひまわり   (ID:F.NuWPIwbnA) 投稿日時:2013年 09月 17日 22:04

皇室の弥栄を願います。

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  1. 【3307519】 投稿者: うわさ  (ID:0VQ8Wvn1Oo6) 投稿日時:2014年 03月 01日 21:28

    >冷静にかんがえると(ID:jgWMwMJ/2Xw)さん。

    なんか、すごーく、もっともらしく、長~く書いていらっしゃいますが、
    リード兄弟を取り上げずに、まおちゃん発言をメディアが取り上げたのは、

    「ニュース価値」ですよ。それだけ。それ以上もそれ以下もなし。

    日々のニュースを追う記者は、イデオロギーだの、正義だの、よりも、

    まず「ヘッドライン」を考えます。。

    だれがどう考えたって、
    「リード兄弟」より「まおちゃん」でしょ!メディアの記者ならば!

    もし、他社がみな、真央ちゃん発言を取り上げるなか、
    まおちゃん発言をとりあげず、リード兄弟を書いた記者がいたとして、

    デスクにどやされますよ。まちがいなく。
    「何、あほなことやってるんだ! おまえは、××か!耳ないのか!」てね。

    で、場合によっては、左遷されます。

  2. 【3307640】 投稿者: タンポポ  (ID:BAJmLOLVBN6) 投稿日時:2014年 03月 01日 22:53

    また、冷静に考えるとさんとふうさんのやり取りが見たい


  3. 【3307642】 投稿者: 紙つぶて  (ID:ka2GwZf/w..) 投稿日時:2014年 03月 01日 22:53

    丁寧なレスありがとうございます。
    決して、誉め殺しではありません。あなたの唯我独尊的な姿勢が見受られないことに感銘を受けております。  

    >仮に何かのイデオロギーが介在する余地があるとすれば、それは情報の受け手である我々ではなく、発信する側、つまりメディア側の視点の置き方によるのではないでたしょうか?いわゆるニュース・フレームというものです。
     
    そうです、メディア側の視点です。

    >例えばある社会事象の報道の仕方には大別して、解説的視点を提示する場合(視聴者の判断に直接的影響を及ぼす)、事実のみを提示する場合(さまざまな価値観が生じる)の二通りが考えられます。~ひとつのテーマを設定して(テーマ型フレーム)今回の森喜朗氏の発言を取り上げるとすれば、なるほど、これはひまわりさんの言われるリード姉弟に関する発言でしょうね。
     
    う~ん、「事実のみをとりあげる」のであれば、障害者、リードきょうだい、真央ちゃんを平衡発信するべきだったと思います。

    >社会事象に関してこれは一に「イデオロギー」というものにどのような意味付けをするかによるかも知れません。社会学的、あるいは政治学的な意味付けをするか。そしてその意味付けの主体はだれか、テーマ型フレームの形成に伴い、この主体はマスメディアということになります。

    はい、マスメディアの判断です。
     
    >しかかるに今回、マスメディア側でこのテーマ型フレームを積極的に活用した報道は見受けられない。

    先入観のフレームにはバッチリです。以前から森元総理の舌禍は周知ですから。

    >となればここでいう「イデオロギー」とは単なる「先入観」ということになりましょうか。この「先入観」(わたしは『レッテル張り』といいましたが)は、マスコミも有しています。森喜朗氏はこの「先入観」をもたれている、過去の発言歴において。その当否はそれこそ彼の「自己責任」であり、ここにすべての非難の根本原因があるといえましょう。

    う~ん、おっしゃる通り。だから、事件の加害者も先行して「こいつ、超クロだし
    」みたいな個人を特定できるような報道が問題となっていますね。
    つまり、「レッテルを張られた前科もち」はマスメディアにいかように料理されても自己責任と言うことでしょうか。

    >③以外の層ではイデオロギーにより左右される可能性を示唆しました。

    あなたのおっしゃる「イデオロギー」が何の意味付けのない単なる「先入観」であれば納得はできる、ということです。






    >仮に何かのイデオロギーが介在する余地があるとすれば、それは情報の受け手である我々ではなく、発信する側、つまりメディア側の視点の置き方によるのではないでしょうか?いわゆるニュース・フレームというものです。  
     


    ひとつのテーマを設定して(テーマ型フレーム)今回の森喜朗氏の発言を取り上げるとすれば、なるほど、これは、森喜朗氏を「叩く」にはこちらの方がはるかに有効です

    >このような二重構造に①自己矛盾を認識している層、②認識しているが欺瞞を貫く層、③全く認識していない層、があることは自明<です。


    なるほど、、ひとつの価値観が世論を形成することは考えられない、と述べましたが例外もあります。例えば「イラク人質事件」。報道も当初、事実のみのいわゆるハード部分に限られていましたが、人質の状況描写から「自作自演」説、そして「自己責任論」と、ソーシャル・メディアを通して、マスコミの報道もテーマ型フレームに移行していった例でもあります。ソーシャル・メディアが発達したがゆえにともいえるでしょう。こういった社会事象に関しては、紙つぶてさんの説も当てはまるかも知れませんが、今回の森喜朗氏の発言問題に結びつけるのには無理があるかな、、これは一に「イデオロギー」というものにどのような意味付けをするかによるかも知れません。社会学的、あるいは政治学的な意味付けをするか。そしてその意味付けの主体はだれか、テーマ型フレームの形成に伴い、この主体はマスメディアということになります。しかるに今回、マスメディア側でこのテーマ型フレームを積極的に活用した報道は見受けられない。

    となればここでいう「イデオロギー」とは単なる「先入観」ということになりましょうか。この「先入観」(わたしは『レッテル張り』といいましたが)は、マスコミも有しています。森喜朗氏はこの「先入観」をもたれている、過去の発言歴において。その当否はそれこそ彼の「自己責任」であり、ここにすべての非難の根本原因があるといえましょう。

    >③以外の層ではイデオロギーにより左右される可能性を示唆しました。

    あなたのおっしゃる「イデオロギー」が何の意味付けのない単なる「先入観」であれば納得はできる、ということです。

    >仮に何かのイデオロギーが介在する余地があるとすれば、それは情報の受け手である我々ではなく、発信する側、つまりメディア側の視点の置き方によるのではないでしょうか?いわゆるニュース・フレームというものです。

    例えばある社会事象の報道の仕方には大別して、解説的視点を提示する場合(視聴者の判断に直接的影響を及ぼす)、事実のみを提示する場合(さまざまな価値観が生じる)の二通りが考えられます。もちろん、さまざまな価値観の形成には(ある意味での)イデオロギーの介在する余地はありますが、これだけソーシャル・メディアの発達した現在、ひとつの価値観が世論を形成することはあまり考えられない。

    ひとつのテーマを設定して(テーマ型フレーム)今回の森喜朗氏の発言を取り上げるとすれば、なるほど、これはひまわりさんの言われるリード姉弟に関する発言でしょうね。国籍選択権と帰化「させた」というふたつの概念、制度の歴史的形成過程をみれば、森喜朗氏を「叩く」にはこちらの方がはるかに有効です。その意味で今回の報道の仕方は後者、すなわち発言内容を取り上げる「事実のみを提示」する、いわば単なるエピソードの類であると認識しています。

    >このような二重構造に①自己矛盾を認識している層、②認識しているが欺瞞を貫く層、③全く認識していない層、があることは自明<です。


    なるほど、、ひとつの価値観が世論を形成することは考えられない、と述べましたが例外もあります。例えば「イラク人質事件」。報道も当初、事実のみのいわゆるハード部分に限られていましたが、人質の状況描写から「自作自演」説、そして「自己責任論」と、ソーシャル・メディアを通して、マスコミの報道もテーマ型フレームに移行していった例でもあります。ソーシャル・メディアが発達したがゆえにともいえるでしょう。こういった社会事象に関しては、紙つぶてさんの説も当てはまるかも知れませんが、今回の森喜朗氏の発言問題に結びつけるのには無理があるかな、、これは一に「イデオロギー」というものにどのような意味付けをするかによるかも知れません。社会学的、あるいは政治学的な意味付けをするか。そしてその意味付けの主体はだれか、テーマ型フレームの形成に伴い、この主体はマスメディアということになります。しかるに今回、マスメディア側でこのテーマ型フレームを積極的に活用した報道は見受けられない。

    となればここでいう「イデオロギー」とは単なる「先入観」ということになりましょうか。この「先入観」(わたしは『レッテル張り』といいましたが)は、マスコミも有しています。森喜朗氏はこの「先入観」をもたれている、過去の発言歴において。その当否はそれこそ彼の「自己責任」であり、ここにすべての非難の根本原因があるといえましょう。

    >③以外の層ではイデオロギーにより左右される可能性を示唆しました。

    あなたのおっしゃる「イデオロギー」が何の意味付けのない単なる「先入観」であれば納得はできる、ということです。

  4. 【3307646】 投稿者: 紙つぶて  (ID:ka2GwZf/w..) 投稿日時:2014年 03月 01日 22:55

    上記、訂正です。推敲中にいってしまいました。

  5. 【3307712】 投稿者: 紙つぶて  (ID:9FWqUjrmygM) 投稿日時:2014年 03月 01日 23:35

    冷静に考えるとさん、

    丁寧なレスありがとうございます。
    決して、誉め殺しではありません。あなたの唯我独尊的な姿勢が見受られないことに感銘を受けております。  

    >仮に何かのイデオロギーが介在する余地があるとすれば、それは情報の受け手である我々ではなく、発信する側、つまりメディア側の視点の置き方によるのではないでたしょうか?いわゆるニュース・フレームというものです。
     
    そうです、メディア側の視点です。

    >例えばある社会事象の報道の仕方には大別して、解説的視点を提示する場合(視聴者の判断に直接的影響を及ぼす)、事実のみを提示する場合(さまざまな価値観が生じる)の二通りが考えられます。~ひとつのテーマを設定して(テーマ型フレーム)今回の森喜朗氏の発言を取り上げるとすれば、なるほど、これはひまわりさんの言われるリード姉弟に関する発言でしょうね。
     
    う~ん、「事実のみをとりあげる」のであれば、障害者、リードきょうだい、真央ちゃんを平衡発信するべきだったと思います。

    >社会事象に関してこれは一に「イデオロギー」というものにどのような意味付けをするかによるかも知れません。社会学的、あるいは政治学的な意味付けをするか。そしてその意味付けの主体はだれか、テーマ型フレームの形成に伴い、この主体はマスメディアということになります。

    はい、マスメディアの判断です。
     
    >しかかるに今回、マスメディア側でこのテーマ型フレームを積極的に活用した報道は見受けられない。

    先入観のフレームにはバッチリです。以前から森元総理の舌禍は周知ですから。

    >となればここでいう「イデオロギー」とは単なる「先入観」ということになりましょうか。この「先入観」(わたしは『レッテル張り』といいましたが)は、マスコミも有しています。森喜朗氏はこの「先入観」をもたれている、過去の発言歴において。その当否はそれこそ彼の「自己責任」であり、ここにすべての非難の根本原因があるといえましょう。

    う~ん、おっしゃる通り。だから、事件の加害者も先行して「こいつ、超クロだし
    」みたいな個人を特定できるような報道が問題となっていますね。
    つまり、「レッテルを張られた前科もち」はマスメディアにいかように料理されても自己責任と言うことでしょうか。

    と、ここまでです。

    あー、なんだかあたふたしてしまいました。
    もう休んでいましたからスマホから投稿しましたが、パソコンのように上手くいかず、お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした。

    要するに、森元総理も元総理なら、マスコミもマスコミだということです。右にいきすぎず左にいきすぎず、たえず中道にあるのが妥協点かなと考えるところです。(汗だく)

  6. 【3307960】 投稿者: 二俣川  (ID:itiWh1K/dEs) 投稿日時:2014年 03月 02日 08:22

    >本件は、それぞれの思想や政治的立場とは、何の関係もない。
    むしろ、ここの森擁護の2名が、何故か荒唐無稽な理屈でもって、政治的文脈などを邪推して奇妙な弁護論を開陳しているだけ。

    森と暴力団関係者との関わりは、周知の通り。
    やくざ者の身内の披露宴に出席し、彼らと席を同じくしていた事実も報道済みである。

    やくざを嫌悪する米国政府(日本の指定暴力団関係者は入国拒否されている)は、この種の疑い濃厚な人物が会長に納まって開催しようとする東京五輪に、
    今後どのような態度で臨んでくるのであろうか。懸念されるところだ。

    森擁護の上記2名は、むろんこういった事実も承知した上での森擁護であろうな。


    (再度、転載)

  7. 【3307981】 投稿者: 二俣川  (ID:itiWh1K/dEs) 投稿日時:2014年 03月 02日 08:54

    安倍は憲法を理解していない。
    例の「集団的自衛権」に関わる安倍の閣議決定先行論だ。
    ことは、長年に亘る従来の9条に関わる政府の憲法解釈の変更についての大問題である。
    本件では、閣議決定以前に、国会での徹底的議論がなされるべきであることは当然だ。
    この男は、原理的に国民主権主義、その表れとしての議院内閣制でもって自分が総理の立場にあることを知らないらしい。

    そもそも、安倍の錦の御旗である「法制懇」とは何者か。単に、安倍が恣意的に選んだ人々で構成されているだけではないか。
    その連中だけでの結論でもって、このような重大な案件の根拠とされてしまってよいのか。
    われわれ主権者の代表である国会での議論より、それを優先させようとする発想自体、噴飯ものである。

    識者らが指摘するように、安倍内閣は立憲主義を知らないようだ。
    周知のように、国家の支配活動のあり方については、専制主義と立憲主義との別がある。
    専制主義とは、支配権の行使が政府の恣意に委ねられる体制を指す。
    一方、このような体制を不当として誕生したのが立憲主義だ。
    立憲主義とは、人民の支配を政府の恣意に委ねず、何らかの抑制を設ける制度だ。
    その表れが、法による行政の原理であり、国民を代表する議会の存在である。

    すなわち、安倍に顕著な立法府(議会)軽視姿勢は、憲法を学ばずに行政府の長についてしまったことの証左であろう。
    与党内からでさえ批判あることは当然だ。われわれは、いったいいつまでこの無能総理に我慢しなければならぬのであろうか。

  8. 【3308389】 投稿者: 歴史・資料・想像力  (ID:9Xb8MMug27Q) 投稿日時:2014年 03月 02日 15:45

    日本の報道機関はテーマ発信を殆どしないことで知られている。欧米の報道が政党支持等立場を明らかにしてテーマ発信することが多いのと対照的である。

    日本の場合は、うわささんの示唆する通り「読者に売れる事実」を報道することを旨としていると言っていいだろう。売れないものは記事にならないのであって、それは今に始まったことではない。テーマ型発信がほとんど見られないのも、そういう報道が売れないからに他ならない。つまり煎じ詰めれば民度の問題なのである。テーマ型発信の担い手である「世界」が売れず、「中央公論」が読売への身売りによって御用雑誌化し、「文芸春秋」が暴露系週刊誌と変わりなくなったのも、すべて民度の問題。マスコミを叩くのは天つばであろう。

    さて、海外報道だが、ここに来て日本の右傾化を危険視する論調がとみに強まっている。日本で、靖国がニュースバリューを失ったのと対照的。Financial Timesは2月10日以降数回にわたってアメリカの日本に対する懸念を記事にし、先週は保守色の強いWall Street Journalが日本でのナショナリズム台頭をついに一面記事にするに至っている。国際世論の中での日本の孤立が懸念される状況になっているわけだが、これらに対しても、すべての事実を伝えていないマスコミがけしからん、で片づけるおつもりだろうか。

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