最終更新:

6763
Comment

【2444410】私立中学の価値ーゼロ 

投稿者: 適性   (ID:RfnxxivKKcs) 投稿日時:2012年 02月 25日 16:18

内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です

条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。

返信する

管理者通知をする

マイブックマーク

  1. 【2627449】 投稿者: 適性  (ID:yEHebE6BvEU) 投稿日時:2012年 07月 23日 18:12

    ■スループさん

    スループさんが言う。寛容な社会を作る努力をする必要があることは、同意しますよ。
    非寛容な社会は、自分にとっても、非寛容な社会ですからね。そこは、否定しません。

    しかし・・
    *************************************************************
    もしかしたら、オウム真理教をテロ行為に追いやったのは、自分たちとは価値観のことなるかれらを、異様なもの、不気味なものとしてさげすみ否定した、わたしたちの心ではなかったでしょうか?
    *************************************************************

    やはり、この文章は、私には・・・

    「わたしたちの心」は、「追いやった(加害者的立場の強調)主体」なのだから「テロの結果に責任を感じるように」・・とやんわり『批判』していると・・感じられますよ。

    私は、オウムに、異様さ、不気味さをもっています。
    ですから、私も「加害者的立場」で、「テロの行為の結果責任」を感じなくてはならないの?と、思ったわけです。

    単純に、個人個人の「わたしたちの心」は、オウムのテロ行為について、「追いやった」と言われるほどの、「そこまでの」大きな責任はないということです。

    オウムを見て「自分たちとは価値観のことなるかれらを、異様なもの、不気味なものとしてさげすみ否定した」場合・・・それが、心の中(内心)でも、大きな、責任が発生するのだよ。という考えでしょ。

    これは・・・心が「外的」に表現される・・以前も、を問題にしてます。

    「追いやった」という表現は、加害者的立場の強調です。加害者であるなら当然、責任が発生します。
    「追いやった」という表現を使った文章で、相手の責任を問題にしないなんてことはないでしょう。

    「責任論」に言及する場合は、

    心 と 心が「外的」に表現されたもの は 「分けないと」いけないのではないですか?

    殴ってやる と思うのと

    殴ったのでは、まったく違うわけです。

    心を問題にするのは、心が、「行為」の元になっていて、切り離せない場合が多いからです。
    しかし、こと、責任論の場合は、切り離さないと、いったい「内心の自由」はどうなるのですかね?

    自分の価値観と違うものに、寛容であるという、もっともな意見です。相互承認の、基本ですからね。
    私は、「基本的」に、そうであることを、望んでいますが・・あくまで「基本的には」です。


    *************************************************************
    オウム真理教にたいする積極的ないやがらせが多々あり、そのことが彼らが反社会的な行動にでたひとつの理由ではなかったかと思うのです。
    *************************************************************
    この、スループさんの、「今」の主張は、「行為」を問題にして、「内心」を問題にしないということでいいのでしょうかね。(責任論として。)
    これは、すでに、「外的」に表現されたことだけを、問題にしてますね。心は関係ありません。

    そうであるなら・・やはり

    「わたしたちの心」は、オウムのテロ行為について「追いやった」と言われるほどの「そこまでの」大きな責任はないということです。


    私達は、皆が、素晴らしい「心」をもって、社会を作ることを、理想とするかもしれません。
    だから、様々な価値観に、寛容になるような教育も、「基本的には」正しいと思います。
    しかし、他者への影響は、現実的には、人々の『言動』によるのです。

    問題になるのは『言動』です。
    宗教や、思想を、心の中で、何を夢想しようが、それが、「言動」にならなければ、たんなる夢想です。
    オウム信者が、心で、何を思っても、「言動」として、法律違反や、反社会的行為や、迷惑行為にならなければ、誰も問題にしません。
    「言動」に問題があれば、結果的に、社会的「制限」が発生します。

    **************************************************************
    わたしが「寛容に」ということばでみなさんに求めているのは、オウム真理教の流れをくむ団体、具体的にはアレフとひかりの輪、の宗教活動を妨害したり信者のひとたちを差別したりしないでほしいということです。その直接の根拠は信教の自由です。
    **************************************************************

    宗教活動に、問題のある「言動」が、混ざっているから、問題になったのでしょう。
    宗教活動と主張すれば、問題のある「言動」が含まれていても、寛容な心で、我慢しなくてはならないのでしょうか?布教の自由は、洗脳の自由ではない。

    私は、積極的に、「妨害しろ」とか「差別しろ」とか主張してはいませんよ。

    しかし・・
    現在、警察、公安は、立ち入りや、調査を、継続しています。
    これらは、オウムの流れを組む団体にとっては、『宗教活動の妨害』ですが・・・私は、しかたがないと思ってますよ。
    私は、継続を、支持します。

    拠点のある地域では、出て行くことを、求める運動をしているのでしょうが・・私は、しかたがないと思っています。非常に大きな、問題のある「言動(テロ行為)」をした、団体だったのですから。簡単に不安なく生活することはできません。

    マスコミも、取材し、問題を指摘し、批判します。個人的に、批判的発言をする人もいます。
    私は、これを、支持します。(当然、事実でないとか、誇張があれば、問題ですけどね。)

    さて、スループさんには、「そういう」社会の反応は、「信教の自由」を理由に、やはり、「してはいけない。」・・と、警察、公安に、その拠点のある地域の人々に、そして私達に、求めているわけですよね。

    それとも、部分的には、しかたがないと思うのですか?

    私と、スループさんの感覚は、その点でも、違います。

    どの団体でも、その地域とが、お互いに共存するには、お互いを脅かさないと、安心できる状況にならない限り、難しいのではないのでしょうか?安心している人が、そんなに多いいのですか?

    社会の非寛容な「言動」が、相手を、追い詰めることが、あることは、知っています。
    だからと言って、非寛容な「言動」を、何かを理由に、何でも、否定することは、できません。
    いじめをやめない「生徒」に、学校が、出席停止という非寛容な対処をした場合、その生徒を、追い詰めるかもしれません。しかし、私は、それを支持します。
    「教育を受ける権利」の侵害ですけどね。

    いじめをした「生徒」が、自分のしたこをを認識し謝罪し、やめるのであれば、出席停止はしなくていいでしょうが、その後も、先生からは、チェックされるでしょうし、被害者は、簡単に、仲良くなれません。
    許してくれないかもしれません、信用されないかもしれません。誤解されるかもしれません。
    そんな簡単に、誰もが「チャラ」にしてくれません。そういうもんでしょ?
    家族や、先生や、仲間が、その子を信用して、サポートすることは、何の問題もありませんけど。

  2. 【2627559】 投稿者: シルバースプーン  (ID:SS5ly5Kmk3M) 投稿日時:2012年 07月 23日 19:37

    その先さん

    小学校6年生の時点で「算数の難問を解くのが好きな子」という母集団に対して、
    18歳になって人生を見据えて「数学者の道を選ぶ学生」がどのくらいいれば適正か?
    という問題ですよね。それに対して灘が多いのか少ないのか。
    う〜む・・・

  3. 【2627693】 投稿者: 地域、時代  (ID:Nsyjs1.FIvw) 投稿日時:2012年 07月 23日 21:56

    公立一貫様

    オリンピックは本当に楽しみです、がんばれニッポンで暫く騒ぎそうです。

    私も、大騒ぎかと。。(笑)

  4. 【2627706】 投稿者: 地域、時代  (ID:Nsyjs1.FIvw) 投稿日時:2012年 07月 23日 22:04

    企業人様

    まだご覧になってらっしゃらないのですね!
    仏像が一杯ありますので企業人様には楽しいひと時を過ごしていただけるかと思います。

    丁度学生さん達が授業中で先生のお話を聞いていたところに遭遇したので、久しぶりに学生気分も味わう事が出来ました。
    すごくきれいなミュージアムで、夏場の涼を求めながら仏像鑑賞に浸るにはもってこいの場所かと思います。

  5. 【2627716】 投稿者: 通りすがりの企業人  (ID:oCHCo3aFCfc) 投稿日時:2012年 07月 23日 22:11

    その先さん、シルバースプーンさん

    数学を創造することと、数学を使いこなすことは、まったく、とは言いませんが、かなり世界が違います。
    そして、前者の需要は、非常に少ないのです。現在、大学の数学科の教員公募は少ないと思いますが、それでも、多すぎるほど、のように思います。

    これに比較して、数学を使い倒す分野は、ほとんど理系の全体になります。
    数学を避けて生物学科などに進学しても、大学院で、タンパク質の構造や薬効の量子力学的計算、などというテーマが降ってくることもあります。

    工学のかなりの分野は、数学を使いこなすセンスは必要のように思います。

    そして、統計は、どの分野でも必須。ときに医学の論文で、統計処理が甘いと感じるものもありますね。

    灘の秀才は、数学を使い倒す方向に進んだほうが世の中のためでしょう。
    天才と自負できるなら、純粋数学を専攻するといいと思います。そういう人には、数学の創造はこの上なく楽しいでしょうし。

    #猫も杓子も医学部、というのは、いいとは思いませんが、医学にも数学的センスは必要と思います。

  6. 【2628670】 投稿者: 適性  (ID:yEHebE6BvEU) 投稿日時:2012年 07月 24日 18:46

    ■スループさん

    たしかに、スループさんは、今回
    *************************************************************
    わたしたちの心がオウム真理教をテロ行為においやったのかもしれない、とわたしは感じますが、おなじ感想をいだくことを他の人たちに求めるつもりはありません。わたしのこのことばを読んで共感していただける人があればうれしいですが、まったくそうは思わないと感じるひとがいてもそのことを批判するつもりはありません。
    *************************************************************
    と「求めるつもりはありません。」「批判するつもりはありません」と、はっきり書いてますけど・・・

    *************************************************************
    もしかしたら、オウム真理教をテロ行為に追いやったのは、自分たちとは価値観のことなるかれらを、異様なもの、不気味なものとしてさげすみ否定した、わたしたちの心ではなかったでしょうか?
    *************************************************************

    これは、やはり、わたしたちに、「追いやった」加害者的立場を自覚することを期待しているのでしょ。?
    少なくても、スループさんは、私たちを「追いやった(加害者的立場)人間」として、見ているのでしょ。


    では・・・
    オウムに否定的感情を持ったことのある人々が・・・この文章に同意し、受け入れ。
    そうか、私は、オウムに何もしてはいないが、オウムをテロに「追いやった」加害者で、オウムは、その意味で被害者なのか・・・と思ったとします。

    で、オウム側は、、
    「私たちは、追いやられたの被害者らしいぞ。」
    「追いやられたのだからテロは、しょうがないかも」
    「皆で責任を分担しましょう」と・・・と主張してもいいんですよね。責任の分散を望んでいるのですから。

    それで・・めでたし、めでたし・・・ですか??・

    なんでしょうか・・
    そこに、ふわっとした、自分と価値観が違う人に寛容な社会をつくろーという話があるのでしょうけど。
    これは、「どんな、犯罪者」でも、同じことが言えます。「社会で責任分担しよう」

    さて、なにか、いいことあるのでしょうか??このオウム事件で・・・

    一般論ではなく、「個別事件」問題に、このパターンを当てはめても、本当の加害者の加害者意識が薄まるだけですし、事件に、直接関係ない人々を、いつのまにか、加害者に加えている。
    そこから、なにか、解決するのでしょうかね。
    私は、オウム関係者の加害者意識、当事者意識を薄れることを、別に、望んでません。




    ヒトラー 麻原・・

    歴史的に、「悪い」結果が確定した場合に、ヒトラー、麻原の「責任」は当然ですが・・・

    それを、「支持した人達」を問題にすることがあります。
    暴走するまでの、権力を与えた人ということです。ある種の加担があるのです。
    (個別には、強制だったのか、洗脳だったのか、情報統制の中での支持なのか、組織の問題なのか、自分で判断できる状況だったのか?といろいろあるとは思いますが・・・)

    ヒットラーであれば、それを支持したのはドイツ国民でした。
    麻原は、支持したのは多くの信者ですね。

    その中でも「なんかおかしいと、違和感を感じ、否定的であった人」が、逆に、ヒトラーや麻原の、指示した悲劇の「追いやった」原因(主体)であったのですか?

    それは・・・おかしくないですかね。私は、違うと思います。

    私は、悲劇の『流れを作った』のは、「支持した人」だとおもってます。
    『流れを作った』のですから、ある意味「追いやった」という表現も、この場合、可能かもしれません。

    「なんかおかしいと、違和感を感じ、否定的であった人」が、間違っていたのですか?

    考え方によっては・・
    社会に生きていて、社会で起きることに、責任は、まったく「ない」ということはないのでしょ?
    (肯定的だろうが、否定的であろうが・・)

    しかしながら、そこを「拡大、強調」して、バランスの悪い「責任論」にするってのが、おかしく感じるわけです。

    自分だけではなく、他の人にも、「追いやった」などの表現で、「できたら責任を感じさたい」と思うのであれば、・・・他の人も「かなり直接的」責任がある場合、だけだと思いますけどね。私の感覚では・・・



    まあ、なんで、こんなこと書くのか・・・

    なんでも、かんでも、●●の責任だ。という人が、世の中には、いるわけです。
    批判ってのは、基本、責任論なんですよ。
    責任が「ある」から、批判される。(そして、責任の程度と、批判の程度は、だいたいリンクします)

    でも、相手に、たいした責任がない・・でも、批判したい・・そういう場合は、
    責任を「拡大」解釈する、または、責任を「創る」わけです・・・・・

    例えばですよ・・

    「私立の生徒である」ということだけでは、何の責任も「ない」ハズです。(ありますか?)

    が・・なぜか、私立の生徒(親)というだけで、酷い批判を受けることがあります。

    「何か問題」があると、「私立の生徒であるということだけ」で、「問題を発生させた主体」であるかのように批判されるのです。そんなわけないのに。(『存在』が気に入らないのでしょうが・・)

    それにですよ・・・
    こういう社会にしたい・・・とか
    自分の特徴を生かして、社会に貢献しようとか・・・は、「本人」が、自発的に、思えばいいことで。
    あかの「他人」が、なぜか、「貢献する義務、責任がある」ことが当然のように、責め立てることがある。
    (まるで、自分には、その権利があるかのように。)

    そういうのに、『うんざり』してるのです。

    責任なんて、ほとんどない人に、「すごい責任があるように」書くのは。。なに?。ってことです。


    寛容の話も、一般論ならね・・

    自分は、法律違反も、反社会的行為も、迷惑もかけていないのに・・
    「自分たちとは価値観のことなる」からということで「異様なもの、不気味なものとしてさげすみ(言動で)否定」され、攻撃されたのなら・・・・・
    そこは、社会?への、「恨み」が発生するでしょう。だから、そういうことのない「寛容な」社会にしないと・・・ね。ってことなら・・・一般論としては、問題ない。それは、相互承認でしょ。
    (前提として・・法律違反も、反社会的行為も、迷惑もかけていない が必要ですけど)

    そうそう・・
    特に、理由なく、相手に責任もないのに、相手を攻撃することを、「いじめ」って言うのでしょ?
    (『存在』が気に入らないのでしょうが・・)
    相手が殴ってきたので、殴り返した行為は「ケンカ」ですよね。理由がありますから。

  7. 【2628680】 投稿者: 適性  (ID:yEHebE6BvEU) 投稿日時:2012年 07月 24日 18:56

    ■地域、時代さん

    *********************************************
    私風に言えば、動機様、初カミングアウトって感じ。ですね。
    適性様や企業人様、シルバースプーン様もビックリって感じだったのでは?
    私はビックリした!
    ********************************************

    私もビックリしました。(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-

    まあ、そういう、自分と同じ辛さを、子供に経験して欲しくないのでしょうね。

    中学受験算数が、「あまりに、辛い」なら・・・中学受験を辞める選択は、ありです。
    そこは否定しません。

    でも、中学受験算数が、辛くない子が多い学校は、なにが問題なんでしょうか?・・・辛い経験とか、そういう意味では・・

  8. 【2629264】 投稿者: 地域、時代  (ID:Nsyjs1.FIvw) 投稿日時:2012年 07月 25日 08:39

    適性様

    でも、中学受験算数が、辛くない子が多い学校は、なにが問題なんでしょうか?

    ですよね。
    動機様は動機様ご自身の小学生時代を基準に話をして下さっているけれど、私は自分を基準には出来ないのですね。
    生まれた時から皆と違うから。
    だから、人は人、我は我。で、全ての人は自分と違う。と思っている部分が人一倍強いです。

    だから、動機様がずっと主張してらっしゃる根っこがわかったような気がして、なるほどな~、だからか。
    と、私の中でここ数年の疑問が解けた気がしました。

あわせてチェックしたい関連掲示板

学校を探す

条件を絞り込んで探す

種別

学校名で探す