アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
地域、時代様
お気づきとは思いますが、私の使った「信頼に足る」は「中身のある」という程度の意味で、このスレで皆さんが使われているような深遠なものではありません。社会≒公的な場面での「言葉」が、簡単に撤回されてしまったり、「単なるタテマエ」として本来余り意味がないものになってしまうと、真剣な議論が成り立たなくなってしまう。簡単に撤回されない、本心に裏打ちされた言葉=信頼に足る言葉を取り戻すことが重要で、どうしたらそれが可能か、という問題意識です。
アメリカ礼賛ではないですが、ジョブズにしても、考えが深い、優れているということもありますが、意味・本心の込められた言葉を如何に明確に、分かりやすく語るかということを重視しているように思いますし、日本でも松下幸之助、本多宗一郎等の言葉にはそういうものを感じましたが、最近そういう胸を突かれるような言葉に出会う事が余りなくなっているように思っています。
信頼感様
>「強く踏む」が合理的選択(市場規範)として最初っから決まっていると思うのです。強く踏めないと価値がないので・・・。合理的評価に基づいて志を測れば、そりゃ「踏む」という選択しか選べませんから。仮に自分の意志で「踏んでいる」と表明しても合理性に抗うことができず社会の望む価値に心が引っ張られている可能性大だと思うのです。意志じゃなくて、実質的半強制に近いんじゃないでしょうか?合理性は遠まわしな半強制の意味合いを持っていると感じています。
信頼感様の伝えたかったことと、ずれてしまうかもしれませんが、思うところがあったので。
「人の気持ちを強制してはいけない」ということは一般論としては、非常に理解できるのですが、身近な問題として考えると、難しい問題だと感じました。
おそらく、私自身は、「アクセルを強く踏む(できれば自由意志で)」ことを「優(大事なこと)」とし、「強く踏めない」ことを「劣」と考えていると思います。
もちろん、赤の他人にこの考えを強制する気はありませんが、自分の子供には、「アクセルを強く踏む」人間になれるように、(強制とはいわないまでも)誘導はしていると思います。
誘導がうまくいき、自由意志で(主体性をもって)踏んでくれるようになればいいのですが、半強制的に(いわゆる意を酌んで)踏むようになってしまっては、気持ちを育ててないということになってしまいますからね。
ただ、親としては、あくまで誘導程度と考えていても、子供がどっちになるかはわからないですよね。
「主体性をもって、高い志を持つ」
なかなか難しいです。
>「両方大事」と仰るけれど、「人を育てる」に尽きるのでは・・?主体性がなければ、志も持てません。人は、志溢れる養育者(親、先生、社会)に囲まれて育まれると自然とマネたい(参照機能)と主体的に感じるようです。志が低いと感じるなら、参照する人が少なすぎるから・・・じゃないかと思います。
親が見本をとのことですが、なかなかできていないと思います。
あと、地域・時代様もおっしゃっていた「信頼感」も、自分の子供に持ってほしいと願っていますが、これもまた難しい課題です。
通りすがり2様
>もちろん、赤の他人にこの考えを強制する気はありませんが、自分の子供には、「アクセルを強く踏む」人間になれるように、(強制とはいわないまでも)誘導はしていると思います。
養育者の価値観を子どもは共有します。誘導は、当然あります。程度問題で誘導レベルが高すぎ&強制的であれば弊害になるという意味です。杓子定規な話をするつもりはありません。問題意識を共有されていますし、通りすがり2様のご家庭は素晴らしい子育てをされているのだと思います。
>親が見本をとのことですが、なかなかできていないと思います。
「なかなかできない」という意識の方ほど、真摯に問題と向き合っていると感じています。ですから子育てにもごり押しされないという印象を受けます。養育者の言葉と行動に大きな差があれば、子供は混乱します。「言動の整合性」・・・それだけで手本と云えると思っています。それすら難しくなっている世相なのかもしれませんが。
>あと、地域・時代様もおっしゃっていた「信頼感」も、自分の子供に持ってほしいと願っていますが、これもまた難しい課題です。
発達段階で獲得する信頼感は、母性と密接な関係があります。信頼感の容量は個人差があり、自分ひとりで体得できるものでもありません。自我確立後であれば、「信頼感が乏しい」と問題意識を持たれている方ほど、信頼関係構築の重要性を認識されています。仮に信頼感が希薄であったとしてもそれを受け入れ改善したいと願う人であれば、将来、十分、自他ともに信頼出来るようになると感じています。
実社会が、評価、競争の市場規範で動いているということは十分理解しています。競争、評価を止めようなどとは申しません。個人の能力を測る競争、評価は無くてはならないと思います。しかし、更に企業の利益を追求するために志、気持ちに優劣をつけ市場規範で取引することは避けなければならないと述べているだけです。優劣の割合は劣の方が圧倒的に多いわけで、劣グループは、自己の劣意識を心理的に他者へも投影します。劣意識(劣等感)は、自分を攻撃しますし、投影され他者へも激しく攻撃します。能力で評価され、気持ちまで評価されたら・・・仰るように差別を意味します。
採用現場でのお話を伺って・・・志の取引が始まってしまったのだろうと感じています。
適性さま、
ご無沙汰しています。
折角レスいただいて、遅くなってすみませんでした。
しばらく全くみておりませんでした。
自分のHNを検索で探すようになっては情けないのですが、ご容赦を・・。
このBS朝日のカルテットの青春の番組は、とても示唆に富むモノとわたしは思いました。
多分、適性さんにとってもそうなのではないかな、と思っていました。
「その分野の基礎力有り(=できる)」という部分と「その分野がとてもやりたい(=好きだ)」をどうバランスさせるかは大きな課題ですよね。そう思います。
「できる」だから一生の職業に向いているとは限らないですね。
そのことを高校の先生と議論したことがありました。そのときその先生は、「2番目に好きなことを仕事にしたら?」とアドヴァイスしてくれました。その先生も亡くなって10年近く経ってしまいました。
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【2525265】 投稿者: 適性(ID:tHG6iTGpCMU)投稿日時:12年 04月 30日 14:46
地域、時代さま、
遅レスですみませんです。
下記にて、わたしにつき書かれたのはそのとおりで、文系、理系を問わず「知」を理解する”学力というのはとても大事だ”と思っています。
それよりもさらに上位なのが「キャラ」だとおいているのは、それだけ人生でどう生きるかの核心が、自分の「キャラ」をどう考えるかなので、大事だと、わたしは思います、と言うことデス。
いま、日経新聞朝刊の私の履歴書の桂三枝さんもそうですし、落語の小三治師匠もそうですが、「キャラ」とは、自然発生的にできてくる個性ではなく、意識して作りに行くモノ、勝ち取るモノです。優等生キャラを含むあらゆるキャラは、半端なモノでは通用しません。
通じる「キャラ」は容易ではないということを、私立中高一貫生は学ぶ機会がありますね。
できる人が周りに沢山いる世界で訓練を受けることは、とても恵まれた環境ですね。
そこは私立中学の魅力のひとつでしょう。
・・勿論、似たキャラが多く、気力が萎えてつぶれるリスクがあるにはあるという意味では、「両刃の剣」でもありますが。
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【2525721】 投稿者: 地域、時代さん
【2525727】 投稿者: 地域、時代さん
地域、時代さま、
後者です! 絞らなくても会えない。
結局、仕事のイメージが学生と企業では乖離が激しいのでしょうね。特に製造業では。面白いこともあるのですが。お互いにまだ理解し合っていないのかもしれませんが。それが今後、どう解消されるかは難しいところに思えますがチャレンジ中です。
GW中に、恩師の教授と飲んだ時に、わたしが偶々、昨今の就職での印象を言ったら、「今時の東大生は、大教室の朝の1限目、だれも欠席しないんだよ」と仰っていました。「知識を得ることについては素直で貪欲。」と言われていました。「でも、何かが違うんだよね、」ということも。
「好きだ」という評価軸、「役に立つ」という評価軸、は自分の中ではクルマの両輪のごとしとわたしは常々思いますが、それに関わると思います。特に外の人から見られる「価値」は何かについて。
(その教授とは昔は、その評価軸では意見が全く合わずに閉口したのですが、今は、大学はそういう考えになってきているのだそうです。その話はわたしには実にジンとくる話でした。まさか、そういうお話をその先生から伺えるとは思わなかったので。)
地域、時代さんの、身の回りの生きる世界と私のそれはとても違っているので、この件はとても直ぐに一般化はできないモノで、単なる例に感じられると思いますけれども。(狭い世界にしか当てはまらないということでは、その通りです)
<地域、時代さんWrote>
>この部分なのですが、これは「昨今の就職難を前提として」のお話なのですか? 絞りに絞ると欲しい学生がいない、という事なのか??
それとも、特に絞りに絞ろうとしていないが、目に留まる学生さんと出会えなかった。というお話なのですか?































