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【2444410】私立中学の価値ーゼロ 

投稿者: 適性   (ID:RfnxxivKKcs) 投稿日時:2012年 02月 25日 16:18

内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です

条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。

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  1. 【2649864】 投稿者: 地域、時代  (ID:P/YjhEVfVGY) 投稿日時:2012年 08月 14日 23:21

    スループ様

    なんで怒るんですか~っ。
    私はどこまでも前向きなんで(笑)、好きだよ♪を、スループ様に言って貰ったと解釈しています。

    オリンピック、終わってしまいましたね。
    チームプレー。
    好きな言葉です。

  2. 【2649872】 投稿者: 公立一貫  (ID:vclT8GuPNYk) 投稿日時:2012年 08月 14日 23:27

    地域、時代さん


    オリンピック終わってしまいましたね、最終的に本当に選手の皆さん
    頑張ってくれたと思います。
    女子バレー本当に良かったですね。


    明日からまた仕事・・・
    これからお盆休みの方ゆっくりしてくださいね。

  3. 【2650121】 投稿者: 地域、時代  (ID:P/YjhEVfVGY) 投稿日時:2012年 08月 15日 09:26

    公立一貫様

    今日からお仕事、頑張って下さい。
    私は完全にお盆休み状態で、主人は早めの盆休みでしたのでまだまだのんびりさせて貰っています。

    今年のオリンピックは子供が物事をしっかりと考えられる年齢になっているのでテレビを見ながら色々話が出来て面白かったです。

  4. 【2651626】 投稿者: 通りすがりの企業人  (ID:.tnR6cz7Luw) 投稿日時:2012年 08月 16日 16:35

    お盆も終わりますが、また酷暑が戻った感じですね。みなさまどうかご自愛を。
    私は、今日から遅めの夏休みで、中東へ干物になりに参ります。弾丸トラベラー行ってきます。
    日中平均気温49度だそうです。妻と娘に人一倍体力があると、こういうことになります。
    では。

  5. 【2651673】 投稿者: 適性  (ID:RfnxxivKKcs) 投稿日時:2012年 08月 16日 17:16

    子供が学ぶ場所が、地域限定であるべき?という、主張がありますね。

    しかし・・
    企業人さんの、原体験からくる、自分の、身の振り方は、それでいいと思っています。
    その身の振り方で、自分の「居場所」を見つけたわけですから。
    自分の、社会的貢献が、出身地に還元できなくても、別の場所、人に還元できればいいわけです。

    地域の共同体意識が、もっと必要であるということは、否定しません。その為に、そこでできることはあるでしょう。

    中学受験は結果として、よく、地域共同体の範囲外へ、学ぶ場所を求めることになるので、地域共同体を分離、弱体化させるという批判があるようでですが・・・

    自分の関係する場所が「複数」あって、小さい地域に、限定していないというメリットは考慮にいれられていません。
    どこで学ぼうが、地域の子として、「あたたかく」、送りだされているなら、きっと、その地域貢献意識は高くなるでしょうが・・・・さて、「あたたかく」対応されているのでしょうか?なぞです。

    「となりの家の子」と、違う学校というだけで、単純に、批判的な扱い?をうけることもあります。

    簡単に、住む場所を変えられる人は、子育てを考慮した地域に住むことが可能かもしれません。わざわざ、住みにくい、育てづらい場所を選択して、「教育的環境の問題を改善しよう」という人はいないでしょう。

    『地域的教育環境』を、簡単に変えることは、『個人』では、なかなかできません。
    当然、自分の子たちの、教育期間中に(または、その前に)

    『地域的教育環境』において、現実に、『多くの問題を体験』し、自分が望む教育環境も得られない、それを個人では、なんともできない場合・・・・
    住む場所を変えらないなが、学校を選択できるなら、選択するということも「ある」のですがね。

    現在、誰にとっても、どの地域でも、満足できるレベル、教育が、確保されているなら、「わざわざ」遠くに行く必然性は、ないでしょう。
    そうであるのか、そうでないのかは、個人(家)での判断ですが。

    さて、地域への愛着は、そこで得られた、本人にとって「有益な時間」によって、作られます。
    「有益な時間」は感謝になり、愛着になります。
    逆に、現実に、『多くの問題を体験』した場合は、地域への愛着は、少なくなります。
    嫌な思い出が多い、場所に、愛着を持つことは、困難です。

    さて、今後、国や、地域行政は、そして、そこに住む人々は、本気で、『地域的教育環境』を、誰にとっても、満足できるレベル、教育が確保されている状況にする気があるのでしょうか?

    勉強ができたからって、なんの意味もない。
    いい大学に行ったから、今の時代、意味がない。
    と本気で、子供に、そして周囲に言う人々、
    そして、そういう人は、勉強に、それなりの価値があると思い行動する人々にも批判的です。

    その子供が、勉強する場所である、学校の授業を重視しないことは、当然ですし、勉強を大事にしてそうな子供に否定的なのも、当然です。
    まあ、それも、自由の1つなのでしょう。


    まあ、そうすると、すぐに、選択できない子は、どうするんだ?という、「批判」になるのですが。

    「批判」とは、『ずるい』とか『自分さえよければいいのか』というたぐいです。

    それは、「個人」では、直接は、どうしようもない話です。
    そこに、住む人々の意識も、学校の状況も、「自分が思った通り」に急激に変わることはありません。

    人生では、多くを選択し、選択されます。
    その度に、選択されない人を、救わない限り(誰かにとっては『ずるい』と感じるから)選択するな・・というなら、選択は不可能です。

    「すべて」の選択は、選択が難しい人からは、『ずるい』とか『自分さえよければいいのか』と批判することは『可能』です。

    私は・・現在、誰にとっても、どの地域でも、満足できるレベル、教育が、確保されることを望んでますよ。
    そして、それが、多様性のある選択であることも、望んでいます。

    ただ、地域の教育のレベル確保の為に、私立(一部の国立?)を、「無価値」として「なくていい」というような「暴論」は、ろくな結果にならないと思ってます。
    現在「その私立のもたらす」価値を評価し、それを受けている、生徒から、その権利を奪うことになるだけです。
    (奪ってもいい理由はないのでしょうが、自分が『ずるい』と思えば、奪っていいとおもっているかもしれません)

    地方では、公立王国もあるでしょう。
    その地域では、「ある公立」が一番よい『教育環境』を確保しているということでしょう。

    誰もが、分かっているハズですが、別に、私立でも、国立でも、公立でも、好ましい『教育環境』が確保されていればいいのです。いいところが部分部分で共通しても、まったく問題はない。

    ただ、私立の自由度が、『教育環境』が確保に、有利な部分が「ある。」
    学校の方針や、雰囲気(文化)、教員の質の確保や、習熟度別とかの面でね。
    しかし、有利な部分があっても、「結果」・・よい教師や、よいカリキュラムであるかどうかどうかなのでね。

    また

    企業人さんのコメント
    ********************************************
    まがりなりにも、早慶などの付属高校は、こういう縛りをかいくぐっています。筑駒や御三家の学生(中~上位)も、この範囲では満足しない、だから、学校側も、自然と、高度な講義をやることになります。
    しかし、公立は、厳格に指導要領に縛られ、教師は、生徒の国公立大学進学実績で細かくポイント査定される、何か間違っているように思います。
    ********************************************
    という現実はあると思います。

    結局は・・・

    『その学校』がどうかの問題に、帰結するのです。

  6. 【2652247】 投稿者: 地域、時代  (ID:P/YjhEVfVGY) 投稿日時:2012年 08月 17日 10:16

    企業人様

    いいな~。海外旅行っ。
    うちは、子供が部活引退するまで無理っぽいです(涙)。

    どんなだったのかまた教えて下さいね!

  7. 【2652309】 投稿者: 地域、時代  (ID:P/YjhEVfVGY) 投稿日時:2012年 08月 17日 11:07

    適性様

    「有益な時間」は感謝になり、愛着になります。

    これって「自分の心」の問題ですよね。

  8. 【2652670】 投稿者: 適性  (ID:4YzR7e5fO1A) 投稿日時:2012年 08月 17日 18:16

    ■地域、時代さん
    *****************************************
    「有益な時間」は感謝になり、愛着になります。

    これって「自分の心」の問題ですよね。
    *****************************************

    「自分の心」よりも、他者の・・共同体の・・圧力を重視するのでしょうかね?皆さんは・・
    『個人的選択』も、「自分の心」の問題ですよね。

    ■ 受験 = 極めて、個人的選択 ■ という。私にとっては、「当たり前」のことを書きます。だらだらと~(笑 )

    基本的には、極めて『個人的選択』は、他人の「あるべき論」や社会の「あるべき論」とは、「独立」して存在するものです。受験でも、結婚でも、住む場所でも・・・・
    (何度も書きますが、個人の選択が、反社会的であるとか、他者を直接傷つけるとか、違法である場合は別です・・逆に言えば、現実として、反社会的であったりするなら、文句を言うのは当然です)

    親にとって・・「自分の子供」の教育を考える場合・・・
    自分の子の「教育環境」をどうするのかが「命題」です。責任もありますしね。
    それは、現在『その学校そのもの』に、自分達が求める「価値」が、存在するかどうかであって。
    そして、自分の子にとってどうなのか?ということです。
    その価値の中に、「大学には行きたい」と思う親や子にとっては、「大学との関係」も含まれ、重要な指標になるのは、当然です。なぜ、外す必要があるのでしょうか?わかりません。(公立であっても、だーれも、本当は、外さないのに)
    含まれるからと言って、その他に、「価値が存在しない」というのは、あまりに恣意的な見方です。

    ほんと・・『個人的選択』とは、そういうもんです。

    (受験の場合、個人といっても、実質は家族も関係します。授業料だす人ですからね。子供が望んでも、全寮制で年間ウン百万とかいわれてもね~)


    別に、選択の大きな理由が、「憧れ」でも、「挑戦」でも、「自分なりの合理的判断」でも「なんとなく」でも・・「なんでも」いいわけです。また、複数あってもいいわけです。
    選択の大きな理由が、「社会貢献」でなければならないと、責められるなら、おかしな話です。理由を他者に、説明する必要さえ本当はありません。

    不思議に思うのですが・・・、

    ■ 誰にとっても、受験は・・『個人的選択』ではないんですかね???。■
    (個人的とは、関係ない他人が口出しするものではないという意味ですが・・)
    『個人的選択』ではないという人はいるのでしょうかね?。

    なぜ、「私立の選択」の場合は、あれだけ、否定的、攻撃的な人が、多く存在するのでしょうか??

    他人の『個人的選択』に、自分の理想や、思想や、べき論や、先入観を、押し付けるように、当事者?に向かって、否定的に発言する人は・・それが『個人的選択』だと、わからないのか。それとも・・『個人的選択』に、直接、いちゃもんつけるのは、素晴らしいとでも思っているのか。単に、相手を攻撃したいのか・・さて、どれでしょうか。

    私は思うのですが・・・そういう『当時者に向かって、押し付けるように、否定的に発言する人』であっても・・・・

    もし『まったく関係ない他人』が・・自分の結婚相手(満足しているとして仮定してですが)を・・

    「私の思う、結婚の本質を深く考えてみれば・・あなたの相手には、結婚する価値が存在しない。まあ、あなたがよければいいのですけど」

    「あなたの結婚相手は、●●ですよね。●●であるなら、××という価値を持っていないのなら、存在する意味がありませんよ、まあ、あなたがよければいいのですけど」

    「あなたの結婚相手は、東大理Ⅲで医者らしいな、ろくな医者じゃない可能性が高いな。まあ、例外かもしれないが」

    「あなたの結婚は、個人的ことと思ってるかもしれないが、まわりまわって、社会を歪めているんだよ」

    「あなたは、結構相手の素晴らしいとこをいうが、結婚制度の本質を理解しないと、私のいっていることが、わからない」

    「あなたの結婚相手は、『本当』の女(男)だと思ってますか。あれは、『なんちゃってな』女(男)ですよ。わかりませんか」

    などと、ねちねち、「直接」言ってきたら・・ほっといてくれと思うでしょ。

    それとも・・
    もっと、ねちねち言ってと思うのでしょうか?
    「大きなお世話だ」「失礼だ」とは思わないのでしょうかね~。
    私は、とても、失礼だと思いますが・・・感覚が違うのでしょうかね。


    私は、結婚の話として、結婚の本質でも、歴史でも、好きに、考えりゃいいのですが・・・それを「現実の選択」とからめて、『当事者(他人)』に、ねちねち言うのはね~、まったくもって、違うと思うし。

    それを「現実の選択」とからめて問題ないのは、そう考える『本人とその家族』ぐらいですよ。

    別に、本質論をぶって、結婚の必要な条件を主張しようが、結婚制度を批判しようが、一夫多妻を主張しようが、かまわないけど、場所は、飲み屋で、自分の「奥さん」にでもして。って感じです。

    なんですかね・・・「満足してる」人(=価値を感じている人)を見ると?・・それを、根本的に否定したくなる、ケチをつけたくなるってのは、どういう感情なんでしょうか・・・・

    まあ・・
    選択した人が、その選択で不幸になっても、自分で、結果責任を取るから、ぐたぐたねちねち言う必要ないという考えで・・たとえ身内である「自分の子供」の選択であっても、尊重し、子供に、ぐたぐた、ねちねち言わない人は、「他人の家」の選択こそ、尊重し、ぐたぐた、ねちねち言わないのは当然だと思うのだが・・・どんなもんでしょうかね~。┐(-。ー;)┌ヤレヤレ

    本質でも、原理でも、他人の『個人的選択』を否定せずに、主張すりゃいいんですが・・・それが出来ないようです。目的が『個人的選択』を否定で「ない」ならば簡単なハズなのですが。
    (個人的選択のみならず、その他人の人間性などを断定的に否定することも含めですけどね)

    私は、「公立こそ、人間を鍛える場所であり、そこを通らずして、教育はない。私学の選択など意味がない」と、信じて、私学を選択可能であっても、公立を選択する人を・・その個人的選択を・・批判する、つもりはありません。個人的選択ですから。
    その信念に従って、その道を選択して、自分の子を立派な、社会人でも、リーダーにでも、すればいいわけです。(リーダーが必要と思うならですけど)

    『個人的選択』が、自己利益「だけ」で、選択しているという主張もありますが・・・
    『個人的選択』が、自分の考えや、自分の良心や、他者への配慮と、まったく関係ないと思う方が、不思議です。様々な思考を通って上で、個人的選択がされるわけです。

    ただ、中学受験や、高校受験や、大学受験が、自分の良心に背くことをしたとか、他者を直接害しているとか、そんなこと考えて受験する人は、いません。(いるんでしょうかね?)

    ■ 極めて「個人的選択」を「関係ない他人」が、気に食わないからと、直接「ぐたぐた」いうのは、いつから普通のことになったんでしょうか ■

    という、疑問でした~。

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